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灰と雪

 屋敷はその尽くが激しく燃え盛っていた。

柱の木材が乾いた音を立てて崩れ落ちる音がした。

窓の硝子は灼熱に耐えかね、弾けて割れる音が幾度も幾度も続く。

それらはまるで一つの意思を持った、オーケストラが吸血鬼の最後を演奏しているようだった。

私は炎で浮かび上がった屋敷の周囲を見回す。

敷地内の芝生の至る所にある爆発跡は月面のクレーターを彷彿とさせた。

それによくよく見れば、地面には弾丸の薬きょうが大量に転がっている。

既に何人かのハンターがここに来たのは間違いなかった。

しかし今はもう辺りに人の気配は無い。

全てが終わってしまったのだろうか。

私は言いようのない喪失感ともつかぬ絶望感に襲われる。

その時、屋敷の裏手から男のものと思われる、凄まじい苦しみを受けた断末魔が聞こえた。

ここに至って私は最早考えも無く声のした方へ走った。


―知らなければならない、知らなければならないのだ。


脚を急かして屋敷の裏手に回り込む。

人の気配に立ち返って見れば、二人の男が屋敷の炎に照らされて向かい合っていた。

一人はダークスーツを着込んだ例の髭面の男、そうシャイロックと云う男だ。

もう一人は…見覚えのある体格からして、恐らく私を乗せて走っていた黒い車の運転手なのだろう。

私の判断に迷いがあったのは彼の顔が血まみれであったからだった。


「お前さンは確か、日本人の『協力者』だな。」


シャイロックは言いながら、未だ立ちはだかる運転手の男の体を押しのける様に蹴り飛ばした。

その為に彼の言葉の語尾には荒々しい力がこもり、犬が唸るような喋り方になっていた。

運転手の男の体がよろめきながら、膝から崩れ落ちた。

男の分厚い胸にはナイフが深々と突き刺さっていた。


「どうして戻ってきたンだ? 聞けばお前、写真を撮っていただけらしいじゃねえか。本来なら『協力者』も殺せと言われてンだが、太陽の写真を撮ったってだけで殺されンのは嫌だろ。さっさと消えな、ハンターもお前如きに深追いはしないだろうよ。ああ、逃げンなら神父から貰った十字架を捨てて行った方がいい。」


「? 十字架が何故…」


私はハッとして上着のポケットから十字架を取り出した。

鈍く光る十字の鉛は、手に取るとズッシリ重い。

沁み入るような金属独特の冷たさを手の平に感じた。


「まったく日本人てのは頭がハッピーらしいな。その十字架にゃ、発信機が内蔵されてる。俺達はそれを辿ってここまで来たンだ。本当に案内ご苦労さン。クリストもたまには役に立つ事があるらしいな。」


シャイロックは十字を切り、両手を合わせてお辞儀らしきものをした。


「ノージニチィはどうした?」


「それはお前の知る所じゃない。と言ったところでそンなものはノージニチィが死ぬか、エイブラハムが死ぬか、それだけのことだ。…まあ十中八九はエイブラハムが勝つだろうがな。奴は天才だ。ノージニチィ如きが敵う相手じゃあねぇンだ。それがお前は気になるのか?」


「そうだ。」


「…小僧、あンまり首を突っ込むな。そのままスッパリ斬り落されンのがオチだぜ。」


シャイロックは首に手を当て、笑いながら喉元をさすった。

その仕草はどうにも姑息で品を欠いているように見え、私はどす黒い感情を口から溢しかけた。

―が、先にシャイロックへの憎悪を口にしたのは私では無かった。


「使い走りの汚い犬め。お望み通り、ぎゃんぎゃん吠えるその喉を掻き切ってやろう。」


「おおっと、これは驚いたぜ…! まだ屋敷に引きこもっていたのか、ドラキュラ伯爵?」


シャイロックは突然目を見開いて私の背後を透かし見ていた。

もうシャイロックの口元に笑みは無い。


「ドラキュラはわたしの姿を元に作られた架空の人物だ。無論、あの小説家の男がわたしの許可を得ずに、わたしの偶像を造ったのは癇に障る…。だが最後に彼が死んだ時は泣いたよ。どうして彼はあんな結末を迎えられたのか…とね。」


声は明らかに吸血鬼フロレスクのものだった。

だがその声には一種の張り詰めた感情が入り込み、彼の非人間的特徴を際立たせていた。

―ここはもう戦場

戦慄は体を俊敏に動かした。

私は彼を見ないようにして森の方へ走った。

ここに居て真っ先に命を落とすのは誰かというのが余りに分かり切っていたからである。


「ノージニチィは森の東だMr.七篠、行くが好い。だが君はここに戻ってきたことを後悔するだろう。」


吸血鬼フロレスクが私へ宣告する。

私はその声を振り払おうと、遮二無二に森の奥へと走り込んでいった。

シャイロックの気取った声がもう遠くに聞こえた。

―走った。

踊り狂う炎の狂気が届かぬ所へと。







「ノージニチィ、何処にいるんだ!? ノージニチィ!!」


私は無駄だと分かりながらも声を枯らして叫んでいた。

森の闇が如何なる返事も寄こさなかったのは言うまでも無い。

針葉樹の幹は私の視界に陰をつくり、執拗に私と全ての存在を邪魔していた。

―ノージニチィ、君の存在を『私が』認めたい

深々と、木々の間を縫って綿雪が降りて来ていた。

森々と、薄い雲の間を縫って月の明かりが雪を蒼白く照らしていた。

暗い森は蒼い霞みに満たされ、私は深海を迷っているような気分になる。






「ノージニチィ! 返事をしてくれ、君は生きるべきなんだ! 理由は私が知っているッ!!」







「ノージニチィ、ノージニチィ!! 君の目の中に映った私が存在しているなら、存在している私の目に映った君も存在しているんだ! それで十分じゃないかッ!? 生きているってそんなものだろッ。」








私の叫びは深い針葉樹の森の中に消えていく。

私は自分の言葉をノージニチィと自分自身に聞かせていた。

それが私の証明だった。

森は何も言わなかった。

雪が降りて来た居るのか、森が天に昇っているのか、ついに分からなくなった。







 森の奥で一人の男の屍を発見した。

金髪を短く刈った白人で、黒のトレンチコートを着ていた。

男は雪の降る空をぼんやりとした表情で眺め、力無い四肢を地面に伸ばしていた。

首に掛けられた金のペンダントが開いたまま男の胸に置いてある。

そこにはあどけない金髪の赤ん坊とその母親らしき女性の姿があった。

私は男の蒼い瞳を指でそっと閉じる。

降った雪によってか、瞼に湿った感触があった。

男の口は「a」の形をしたまま動きを止めている。

それが何を意味しているのか、私には分かったような気もしていた。

屍の近くには一枚の写真が落ちていた。

地面にはまるでその位置を誇示するするかのように、一振りの剣が突き立ててあった。

雪を払って見てみれば、映っていたのは黒い傘を差した美しい少女の姿であった。

―そう、確かこれを撮られた後、少女は頬を膨らましてぷりぷりと怒ったのだ。



 





 空はうっすらと白んできていた。

屋敷のあった場所へ戻ると、そこにはもう建物の骨組みも残っていなかった。

黒焦げの木片の片隅で、小さく燃え続ける炎がパチパチと小さな音を立てていた。

そこへ後から後から柔らかそうな雪が積もっていく。

お伽噺の終末があまりにあっけないものであった時の子供の様に、私は急速な孤独感を感じていた。

未だ燻っている瓦礫の傍に寄って行くと、焦げたレンガの壁の後ろ側に男の死体があった。

シャイロックだった。

シャイロックのダークスーツはテラテラと黒く光っていた。

それが彼の血であることは直ぐに分かった。

私はシャイロックが握りしめているナイフに絡みついている指をどうにかして外した。

ナイフにはまだシャイロックの体温が残っていた。

私はシャイロックの灰色の目を閉じさせてから、また歩き出した。

フロレスク氏はどうなったのだろうか。

まだ彼のその呪われた心臓は拍動し続けているのだろうか。

ならば私が……



「……Mr.七篠。わたしをお探しかな…?」


フロレスク氏の声はやはり私の背後からだった。

振り返ると、小さな丘のような所にフロレスク氏が足を伸ばして座り込んでいるのが見えた。

その姿はどこか子供じみている。

私は怯えることなく彼の方へ歩み寄った。

フロレスク氏は形容しがたい、なんとも清々しい顔をしていた。


「ノージニチィは…どうなって…いた?」


「彼女は森に消えました。しかし」


「そうか。ならば…もう良い。わたしの力が弱まったのを…見計らって、一人で茨の道を逝く覚悟が出来たのだろう。だが一方…君は彼女を永遠に失う。…これが定めだ。」


「いえ、彼女は独りではないでしょう。私にこんなものを渡したんですから。」


フロレスク氏は怪訝そうな顔をして私の差しだした写真を手にとった。


「これが一体…何だと云うのだ。」


「私と彼女の存在を証明し合うものですよ。」


私はそう云ってフロレスク氏の手から写真を奪い取った。

フロレスク氏はフッと顔を歪めて笑う。

―下らんな。とでも言いたげな、皮肉めいた笑みであった。

その振動で、彼の頭や鼻に積もっていた雪がハラハラ落ちていった。

雪は黒い血で、毒々しい赤に染まっている。



「誇りたまえ、数百年を…生きた吸血鬼の首領を滅ぼしたのは…君なのだ。これまで幾人のハンターがわたしに挑み死んでいった。それを君は、……カメラ一つでこの私を倒したのだ。」


私はフロレスク氏を追いこんだ自覚は無かった。

だが結果がそうなったのであれば、そういうことなのだろう。


「わたしが君に依頼をしたのは…、ノージニチィが君の写真を好きだった…からだ。」


「ノージニチィが? 何故、私の写真を…。」


「形さえ残せば、それは…どのようにでも廻ると…云う事だ。君は昔、自分で撮った写真を…配ったらしいでは…ないか? その一枚がたまたま日本に来ていたノージニチィに…いや、あの頃はまだマリアと云ったか、彼女の手に渡ったのだ。」


「…すごい偶然ですね。」


「偶然と必然に区別は無い…。全ては太陽の下、定めの通りに…動いて逝くものだ。」


―フロレスク氏は空を透かし見る様に目を細めた。

細かい皺を刻むその顔には笑みが宿っていった。


「さあ、もう…すぐ夜明けだ。」


そう言ってフロレスク氏はよろめきながら立ち上がり、赤らんだ地平線に背を向けた(・・・・・ )。

雪が朱色に染まって、辺りは生命を含んだ静寂に包まれた。

東雲は細く千切れて、見事な橙色の太陽のために広い空をあけた。

針葉樹の森の上に斜陽が煌めき、雪に白けた丘の上に陰を創った。

フロレスク氏は大きく手を広げて立ち上がる。

太陽が ―登った



「――見ろ、こんな近くに…あるではないか!! 散々探したが道理で見つからぬ訳だッ…!! あははは…ククク、ははッ」


フロレスク氏はそう叫んで雪の上にばったりと倒れた。

そして数度体を痙攣させると、全身からシュウシュウと音を立てて煙を出し見る見る萎んでいった。

その様子はまるで紙が火に焙られて縮んでいくようだった。

皮膚は干からび剥がれて、筋肉は灰の様に崩れ去った。

髪はバラバラと風に煽られ抜け落ちて、白骨は降る雪の重さで潰れた。

そこに残るは彼の上等な服だけだった。


―フロレスク氏は終に消滅した。

だが彼もやはりこの世界に存在していた。それは誰にも肯定のしようのない事実なのだ。

風に吹かれて灰の中から私の撮った太陽の写真が幾枚か出て来た。

これが結局フロレスク氏とどう関係していたかを知るすべは無い。


 ―チィーチチチィ…、チチチィ……


 何を思ったのかコマドリが灰の上に降り立つ。

私はそれに背を向けて歩きだした。

曙の太陽の光に照らされ、小降りになった雪は琥珀色に煌めいている。


不図、コマドリの胸が赤いのはキリストの血が付いているからだという伝説を思い出した。



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