太陽を信奉する吸血鬼
屋敷は不穏とも平穏とも取れる静寂の中にあった。
私は棒の様になった足を引きずりながら、ノージニチィに続いて扉をくぐった。
日ごろの運動不足も祟っているらしいことは明らかだ。
これが一段落ついたらジムにでも行こう。
不思議なことに、私はこんな状況でも日常的なことを思案していた。
冷静なのか愚かなのか、自分のことながら判断に困る所である。
「Mr.七篠、お疲れさまでした。私は旦那様に今回の件について報告して参りますので、決して外には出ず屋敷の中でお休みください。居間には軽いお食事をご用意いたします。…それでは。」
取りあえずベットで横になりたかったので、ノージニチィと別れた私はその足で二階の自分の部屋へ向かった。
玄関前ホールの右側の石段は吹き抜け二階の回廊へと続く。
回廊を抜けた先には、左右に沢山の扉の並ぶ長い廊下がある。
沢山の、と云ったのは私がそこの廊下の尽きる所を見ていないからであった。
無限に続くとも思える暗い廊下に並ぶ無数の扉。
その中の一つに私の寝泊る客室へと繋がる扉があるのだった。
何時の間にやら私もこの屋敷に取り込まれていたのかも知れない。
「ゾッとしないな。」
呟いてから私は辺りを見回した。
ここが吸血鬼の屋敷であると知った今、私は家の内装を素直に見る事が出来た。
闇に溶け込む豪華絢爛な家具たちは夜に生きる彼らの精一杯の美と誇りの表現であった。
古めかしい配色は時代に取り残された彼らの虚しさだった。
そこで私は大学時代に読んだポーの『アッシャー家の崩壊』を思い出して身震いをした。
あれは確か屋敷に招かれた男が主人公だったはずだ。
屋敷の持ち主であるロデリック・アッシャーと、彼の屋敷は運命を共にしていた。
沈みゆくその屋敷の崩壊を目にした男の驚愕は、確実に私の元へも忍び寄って来ている。
せめてその前にこの屋敷の、フロレスク氏の崩壊からノージニチィを解放したい。
私は暗澹たる気持ちで階段を上がった。
回廊を抜けた先の廊下の壁には、森厳とした雰囲気の風景画が幾枚も飾られている。
それぞれの絵を横目で観察しながら歩いて行き、最後の絵画の所であることに気付いた。
それは、どの風景画にも小さな人影が描き込まれていることであった。
人影をよく見てみれば、筆のタッチやインクの違いから、それらが後に描き加えられている事が分かる。
どの絵にも登場している『黒い影を持った人』は空の太陽を見上げているように見えた。
氏の太陽への執着とは一体何か。
すぐに自室へ戻るつもりだったのだが、深遠な疑問は私を別の扉へと歩ませた。
どの部屋でもよかった。
疼く好奇心にも似た罪悪感を抱きながら夢遊病患者の如くに歩きまわり、鍵の開いている扉を探した。
私が7つ目の扉に手を伸ばしたとき、思いがけずドアノブが回った。
その黒い扉の向こうに何があるのか私は知らなかった。
ジットリとした汗で背中にシャツが張り付くのを感じる。
―私は息を飲んで扉を開けた。
ムンとした、絵具の匂いが鼻についた。
10メートル四方程の部屋は溢れかえった美術品のために狭く感じた。
美術品とは、金をあしらった大きな壺や裸像の彫刻、額縁に入った人物画の数々だった。
散々と立ち並ぶイーゼル(絵を立てかける三脚)には、自作と思われる太陽の絵が掛けられていた。
雲一つ無い青い空に在る太陽であったり、薄い雲のかかった太陽もあった。
どれも未完のまま長らく放置されていたらしく、埃が層をつくっている物もあった。
私がそれらの絵に見とれていると、不意に背後から声がかかった。
振り返らなくともそこに居るのがフロレスク氏だと分かった。
「勝手に吸血鬼の屋敷をうろつくとは感心しないなMr.七篠。しかし君が謝ることは無い、鍵を掛け忘れたわたしも悪いのだ。」
私は躊躇しながらフロレスク氏の方へ振り返った。
カーテンの隙間からこぼれる月の光がフロレスク氏の目を怪しく輝かせていた。
「…た、太陽の絵ですね。」
「そうとも。」
フロレスク氏はゆっくりと足を進めながら答える。
私は言葉どころか息も詰まらせながら、喘ぐように会話を続ける。
訪れる沈黙がこの時ほど恐ろしく思えたことは無い。
「何故これほど太陽に焦がれるのですか? 吸血鬼にとって太陽は恐怖の塊では無いのですか?」
「―恐怖? 確かにそう云う者もいる。だがわたしにとって太陽とは未だ絶対的な存在で在り続けている。『神』と言い換えてもいいだろう。」
「…神?」
「人間の存在を世界に証明することのできる唯一無二の存在である太陽。影を持たず、その全てがあらゆる意志を内包している。君を含め全人類は彼の偉大な力の一部を享受しているに過ぎないのだよ。」
「ですがあなたは太陽を…。」
吸血鬼フロレスクは美術品の中を縫うように歩く。
「そうだ、わたしはかつて彼を裏切った。若かったのだ。自分自身で存在を証明できると信じていた…! 吸血鬼に成り、富も権力も手に入れた。だが、闇の中で自分を飾り立てた所で何になるッ!? 虚しいだけだ。」
突如、彼は台に置いてあった美しい壺を叩き割った。
耳をつんざく陶器の悲鳴が部屋に響いて消えていった。
私が絶句している間にも次々と他の美術品にも手を伸ばしていく。
「下らんことだろう! こんな壺や落書きは意志を受けてこそ『美術品』と認められる。美とは別の次元にある概念だからな。その美をこの世へ召喚できるのは人間だが、その人間を存在させているのも、物体に美を分け与えているのも太陽だ。つまり太陽を受けることの出来ないモノに、この世へ美をもたらすことは出来ないのだよ。美が無いならそれは唯の物体でしかない。偽物の偽物なのだ。」
吸血鬼フロレスクは太陽の描かれた絵を引き裂いた。
彼はしばらく肩を怒らせて息をしていたが、すぐに冷静さを取り戻して私に向き直った。
「ノージニチィの…いや、マリアの父エイブラハムは必ず明日の朝までにはこの屋敷を嗅ぎつけるだろう。彼は最も優秀な狩人だ。君は今すぐここから逃げたまへ、まだ死にたくは無かろう。じきここは戦場になるのだ。」
「…ノージニチィは? 彼女を道連れになさる積りですか。」
「マリアを吸血鬼に引き入れたのはエイブラハムに対する復讐のためだ。我が同胞たちを殺して回ったハンターの親子が遂には互いに殺し合う。夜の物語は凄惨な結末を好むものだ。…そう嫌な顔をしてくれるなMr.七篠。それをもってわたしの長い話のエンディングを飾るのだから、な。」
「あ、あなたは姑息だ! 不幸を振りまく死神だ!」
「口には気を付けたまえ、わたしは君を対等な取引相手として選び今もそう接している。もしこの関係が無ければ君はとっくにわたしのディナーだ。そうでないのは君が依頼をほぼ完璧にこなしてくれたからだよ。迷惑料も含めて、報酬は多めに払おう。これで契約は終わった。しかし君がわたしの取引相手であったのは変わりようが無いから安心したまえ。君はこのまま人間として日本に帰れる。」
吸血鬼フロレスクの目は今やギラギラと殺気を放ちながら、闇の中に煌めいている。
私は昨日の夜のように、体の自由が利かなくなっていることに気付いた。
吸血鬼は指を窓の外へ向けて命令する。
「去れ。森を抜け人間の世界へ帰るのだ。」
命じられるや否や、私の体は意志に反して勝手に動き、そのまま部屋を出てしまった。
いつの間にやら廊下に立っていたノージニチィは私に旅行バックを手渡した。
そして少し躊躇するような素振りを見せてから、ポツリと言い放つ。
「―ここで遭ったことは全部お忘れください。…どうぞお元気で。」
私はありったけの力を込めて彼女に叫ぶが、喉から声は出なかった。
『マ リ ア』
口の動きだけで叫ぶ。
悲しき吸血鬼は私の頬に恐る恐る手を当てた。
彼女の手は柔らかくて冷たかった。
しかし彼女は私の体温を感じ取ったと思うや否や、声無き感嘆の悲鳴を上げてその手を離した。
震える手を胸に抱いて走り去る。
これが彼女との最後のやり取りであったのを、私は残念に思う。
私はトヨタの白い車を走らせ、針葉樹の森を覆う闇を裂いて行った。
残念ながら車のエアコンは壊れており、車の中は息が曇る程に寒々としている。
私の足はアクセルを踏んだまま動かなかった。
ハンドルを持つ手は動いているのだが、この動きも私の意思によるものではない。
吸血鬼は一種の催眠術のようなものを使い私の体を操っている。
そう自覚できる分には、頭まで操れる訳ではないのだろう。
―いや、もしかすると彼は私を諦めさせるため、頭だけは自由に働くようにしたのかも知れなかった。
森は無関心を装い、帰り道をどうぞとばかりに開いている。
月は雲に隠され、道を照らすは車のヘッドライトのみである。
いづれ私の催眠術が解けたら…
私はどうするつもりなのか。
日本に帰るか? 屋敷へ戻るか?
何がしたくて、何に従う?
私の仕事は終わった。
―まだ、私の仕事は終わっていない
彼らを存在させてこそ私の存在があるのだ。
太陽が無い所へ光を届けるのが私の仕事なのだ!
感情は理念を動かし得る。
もしかすると私の理念は彼女に会ってから変わったのかも知れなかった。
だがそれも今や私を考えさせる理由にはならなかった。
―突然車が低速していった。燃料が切れたのかと思ったが、そうではなかった。
私の足はアクセルから離れ、力無く脇へ垂れている。
催眠術がやっと解けたのだ。
走り出してから二時間近くが経っていた。
森の木々は終わりかけ、前方には別の車のライトが見えた。
ここは境界なのだ、私にとっての。
吸血鬼フロレスクの境界は屋敷の扉である。
ノージニチィにとっての境界は一二年前の日本である。
そこを越えれば、戻れはしない。
―だが……!!
臓腑が居心地悪そうにざわつき、私の気を急かす。
車をUターンさせ、来た道を再び駆け抜ける。
暗い森はにわかに落ち着きを無くしているような素振りを見せた。
だが私は今更もうバックミラーを気にしているどころでは無かった。
…………
………
……
車を止めて外に出ると肌を刺すような熱気に襲われ、私は思わず顔を覆った。
屋敷はその尽くが激しく燃え盛っていた。