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存在者たち

 今朝も昨日と同じく黒い車が屋敷の前に停まっていた。

機材を車のトランクに積み込んでいると、いつの間にかノージニチィが私の背後に立ち首筋をジッと見ていた。

私はどうにも背中がむず痒くなり、仕方なしに彼女の方へ振り向いた。


「…どうかしましたか?」


「―いえ。 …準備は済みましたでしょうか。」


「ああ、何時でも行けるよ。」


車に乗り込むと、やはり運転手は昨日と同じ男だった。

ノージニチィもやはり口を開かない。

ああ、またか。と私はキッパリ諦め、やはり昨日と同じように目を閉じた。

車は曲がって、下って、登って、また曲がって行った。




 ……と連絡が取…ない…

  …そ…は何時から……

 …昨日の夜…らだ…もしかすると……

    …用心…るわ…




「到着しました。Mr.七篠、起きてください。」


「ん、…ああ。今行く…。」


外に足を下ろすと、昨日のあぜ道とは違う確かな感覚があった。

凹凸のある石畳の道が四方に走っている。

私は車から2,3歩離れて大きく伸びをした。

ここでもやはり、冷たい風が私を迎えた。


「今日はここで、撮影をして頂きます。」


「ここは…。」


ここはどうやら、古びた城下町のようだった。

連なる灰色の屋根の向こうには、白亜の城が垣間見える。

勿論、私はこの町の名もあの城の歴史も知らない。

フロレスク氏とこの町がどんな関係を持つのかも知り得ぬことだった。


「迎えは午後四時に来る予定です。」


「今日は早いね。何かあったのか?」


「心配はございません。距離と時間の関係上での調整です。」


「…そうか、じゃあ時間も少ないみたいだし、早速始めるとしよう。」


私がレンズの確認のためにカメラを覗くと、フレームの中でノージニチィがビクッと動いた。


「…。」


「……撮られるのかと思いまして。」


私はつい笑ってしまった。


「…Mr.七篠、置いていきますよ。」


ノージニチィはもう歩きだしていた。

白いタイツに包まれた細い脚が小刻みに振れて、どんどん彼女は遠ざかっていく。

私は訳も無く頬を上げながら彼女を追いかけた。


「そう怒らないでくれよ、悪かったよ。」


「怒っていません。」


そこでもう一度、私が笑った。

ノージニチィは私の方を振り返り溜息を吐き、また前を見た。

彼女の撫で肩が僅かに上下した。

 私とノージニチィは、撮影場所をさがしてレンガの坂道を登って行った。

途中途中の古風な建物の風化したのに長い歴史が見え隠れしている。

煙突から濛々と白い煙を吐くパン屋の店先には小麦色の商品が雑多に陳列されていた。

遠くで教会の鐘が鳴り、茶色い煉瓦の建物の上を白い鳩達が飛び去っていった。


 ………オオオォーーーーン…………

   ……オオオオオォーーーーーーーン…………


狭い通りに人影は無い。影も無いのだから人もいない。


「人が全然居ないな。」


「今日は日曜ですので、皆教会へ礼拝に行っているのだと…。この町の住民は特に信仰が厚いので。」


「へえ、凄いな。」


私が興味なさげに言うとノージニチィはチラと私を見てそれ以上は何も言わなかった。

―それから暫く行った所で、ノージニチィが突然足を止めた。


「どうした?」


「…男が。」


呟くノージニチィの唇が震えている。白い肌は蒼さを帯びる程白くなった。

私も彼女がジッと見る街角に目を凝らすが人影は認められなかった。


「別におかしい事はないでしょう、町に誰もいない方が怖いですよ。」


しかしノージニチィは私のその言葉には何も返さなかった。

ヒュウと風の鳴く声がした。


「…先にあの城まで行っていて下さい。私も直ぐに参りますので。」


「え、一体どうしたって……? ああ、…まったく。あの子は話を省きすぎる。」


複雑そうな小道にノージニチィの姿が消えていくのを見送る。

街道にいるのが私だけになると、中世的な雰囲気の町並みは一層寂しいものとなった。

私は仕方なく独りで坂道を登り始めた。

―太陽が黒い雲に隠れて、真鍮の街灯は鈍い色を晒し出す。

―茶色い植木鉢で、赤い花がルラルラ揺れる。

見知らぬ町の、聞き覚えの無い城へ、解せない仕事の為に私は歩く。

己の人生の縮図を見せられているような苦々しい気持であった。

冷たい風が首元をかすめて行った。

吹かれてやってきたのか、折り目のまだ新しい新聞紙が私の脛に引っかかる。

[血を抜かれた女の死體が見つかる―猟奇殺人事件か―]

私は忌々しく思い、それを乱暴に払いのけると足をぶっきら棒に進めた。

そんな時に『こと』は始まった。

事態の発生に前触れは無かった。ならば前触れとはこの事態を云う事になる。

突然、不貞腐れそうになっている私の耳に大気を震わす低い美しい歌声が流れ込んできた。

それは聖歌のようだった。



―主よ、わたしを平和の道具とさせてください。

わたしに もたらさせてください……

憎しみのあるところに愛を、

罪のあるところに赦しを、

争いのあるところに一致を、

誤りのあるところに真理を、

疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、

闇のあるところに光を、

悲しみのあるところには喜びを。

ああ、主よ、わたしに求めさせてください……

慰められるよりも慰めることを、

理解されるよりも理解することを、

愛されるよりも愛することを。

人は自分を捨ててこそ、それを受け、

自分を忘れてこそ、自分を見いだし、

赦してこそ、赦され、

死んでこそ、永遠の命に復活するからです。



冷たい空気を媒介に平安と慈愛に満ちた意志は私の体に沁み込んでいくようだった。

前方の脇道から、数羽の鳩が翼を広げ飛び出して行った。

白い羽が宙を遊び漂う。

羽毛が地に着く前に、鳩が飛び出して来たのと同じ道から今度は長身の痩せ男が現れた。


「兄弟よ、罪を恐れて主に背を向けてはいけない。主の教えに従う限り必ず救いはあるのだから。」


男は飛び去った鳩の群れに向かって布教している。

男はボロボロの麻布を頭から被っており、その相貌を詳しく窺い知ることはできない。

背には十字架……。いや、あれは剣か。

男の半身程もありそうな大きな長剣を背負っている。

彼は私に向き直るといきなりこう切り出したからまた驚いた。


「私は『舌』と申す。天より命を受けてここにいる。ここでお前と会ったのもまた主のお導きだろう。主は、きっとお前を御見捨てにはならない。」


彼はキリスト教の神父か何かだろうか。

声の質からして、先の歌を歌っていた者と同一人物だろうと分かる。

『舌』と名乗る神父は朗々とした声で慈悲深く…―謡った。

当然、私は何のことやら分からず、ムッツリ押し黙るより他無かった。

『舌』は懐から、正真正銘の十字架を取り出し私に持たせた。


「な…なんです、これは? わたしは別に…」


「これを持っていなさい。信じて待てばきっと、救いはお前の所へ訪れるだろう。」


彼はそう謡うと町の西へスラリと目を向けた。

それとタイミングを申し合わせた如く同時に、近くで銃の発砲音が一発、二発。そして三発。

音のした方向を睨んで、『舌』は背中の剣の柄に手を掛けた。

なんとも場馴れした動作であった。

一方私はというと、そのまま平然とそこに突っ立っていた。

危機管理能力の備わっていない日本人らしい私を自覚する。

すると今度は、町陰から血まみれの老人がフラフラと歩いてきた。

五十代半ば位の、大柄で小太りな男だった。

疎らになった白髪は方々に乱れ、どこか恵比寿に似た顔には汗と苦痛が滲んでいた。

男は巨大な黒い鍵を片手で引きずっている。

鍵を持った男は『舌』を見ると、白い髭の中心にある口に笑みを浮かべた。

『舌』は剣から手を離して男の方へ歩み寄る。

男は邪魔くさそうに、右手に持った鍵を地面に突き立てた。

鈍い音を立てて石畳が割れ、鍵がそこから直立した。

あれはどうやら殺傷力の高い武器らしい…!


「状況は?」


『舌』が静かに謡う。

男はズボンのポケットから手帳とペンを取り出して、その上にペンを走らせた。


[おぬしも来ていたか 用心しなさい 彼女は元ハンター なかなか手強い]


文字は汚いが、聖人のように丁寧な文体であった。


「『右手』よ。その怪我ではもう戦えまい。後は私が引き継ぐ故に下がっていた方が好かろう。」


すると『右手』と呼ばれた老人は黄色い歯をむき出して…何も言わずに紙にこう綴った。


[ヤツには これの 倍 血を流してもらう]


「左様か。」


『舌』は妙に納得したような面持ちで食い下がった。

『右手』は手帳をめくり、また書きなぐる。


[ハンターは他にもいる が 包囲網は徐々に崩されつつある 急ぎなさい]


その時、一際大きな爆発音と複数の怒号が響いた。

続けざまに戦闘の激しさを思わせる連続的な銃声が飛び交う。

『右手』はまたペンを走らせて何かを書き、そのページを破り取った。

それをクシャクシャに丸めて、私の鼻先へ投げつける。

去り際に『右手』は私へ冷やかな一瞥をくべると、『舌』と共に路地の角を曲がっていった。


[―鶏が二度鳴く前に、お前は私を三度知らないと言うだろう―]



―私の知らぬ所で、何か物騒な起こっているに違いなかった。

しかもさらに悪い事は、どうやら私もこの騒動に無関係では無さそうなことだった。

腋から冷たい冷や汗が流れ落ちた。

私は来た道を振り返り、迷った挙句に又振り返った。

硝煙漂う道の先に、古城が見える。

ノージニチィを、待たなければ…。





―城の外堀は深かった。

その上に全長20メートルはある、長い吊橋が架かっている。

比較的最近に町大工によって造り直されたような木の橋だ。

なので、観光客におべっかを使う様な手摺や柵の配慮も無い。

ただ『吊橋』という単純要素があるだけだった。

…大丈夫、ノージニチィは城の前で待っていてくれと言ったのだ。

吊橋を渡った先の城の中で待っていろとは言っていない。

つまり私はこの橋を渡る理由など無いのだ。

ホッ胸を撫で下ろしていると、左手の土手から一人の少女が現れた。

―メイドだった。

ノージニチィではない。

ノージニチィと同じ位の年齢であったが、彼女の髪は黒く、顔立ちは東洋人らしい。

おっとりとした瞳は黒く潤み、鼻は控えめでいて筋は通っている。

血色の好い、赤みを帯びた丸い頬は大福餅のように柔らかそうだった。


「失礼ですが、貴方はもしかして日本人で御座いましょうか…?」


「ああ、そうだけど…。君はここに旅行…じゃないよね?」


「生憎、今回は旅行では御座いませんの。この辺りに吸血鬼がいるという話を聞きまして、やってきた次第なのですが…。妾、どうにも方向音痴で御座いますので出遅れてしまったもので…。」


少女の口から出たのは紛れもない日本語であった。

ということはこのメイドの少女は私と同国人か。

―が、彼女が言っていることも、彼女の見た目も理解しがたい。

吸血鬼、と言った様な気がするが、もしかしてここで何かのコスプレパーティーでもしているのだろうか。


「あ…、申し遅れました妾『目』と名乗らせて頂いております一三代目の砂漠谷 愛理(さばくたに えり )と申します。」


「『目』だって? 」


先ほど会った男達の名もそんなような名であったが…。

『目』と名乗った少女はニコニコしながら私の顔を見ている。

こちらも名乗り出るのを待っているようだった。


「…あ、私は七篠権平。写真家をやってるんだ。どうだい一枚撮ってあげようか。」


私が言うと『目』は頬を更に赤らめた。


「そ、そんな恥ずかしい…。妾は結構で御座います、あなた達はどう?」  


『目』は何故か問い掛ける様に言った。

無論この場には私とこの少女しか居ない。

だが彼女が問いかけるのは私ではない。

私はポカンと口を開けたまま固まっていた。

すると…


「あーっ!! こいつ、こいつだよ! 愛理姉、こいつ例の『協力者』だよ! そうだ、七篠権平だろ!? やったラッキーじゃん。拷問でもして、さっさと奴らの居場所を吐かそうよ。」


どこからか我の強そうな少女の声がする。

私は慌てて回りを見回すが、やはり人はいない。

そう、つまりこの言葉が出て来た口といのは、先と同じあの大和撫子の口からであったのだ。

彼女は右手に持っている手鏡に映った自分の顔を見ていた。

鏡を見ている…鏡に映る彼女の顔は先とはまるで違っていた。

吊り目で、口をへの字に曲げ、おおよそさっきの少女とは正反対のエネルギッシュな少女がそこにいた。

恐らくはその少女がさっきの言葉を喋ったのだろう。

私が目を丸くしていると、彼女はまた元の顔と声に戻った。


「いけません瑛梨(エリ )。この方は騙されているだけかも知れませんし、人への拷問は拷問等禁止条約の第2条で禁止されてますのよ。」


「愛理姉は優しすぎるわ、だからこんなヤツに情が移っちゃうのよ。なあ、麗真(レマ )も何か言ってやれよ。」


すると今度は左手にも手鏡を取り出して覗きこむ。

左の鏡の少女はこれまでの二人(?)とはまた違う、ボーっとして無表情な顔に変わった。


「…ボクに訊かないでよ、そんなこと。それより、ホラ。ターゲットがこっちに来てるよ…。」


『目』三姉妹は町から続く坂を見下ろす。

やってきたのは、やはりノージニチィだった。

彼女は所どころ血を流し、スカートは破れて白い太股を露わにさせていた。


「愛理姉さま…、ここはボクらがやるから下がってて。…瑛梨姉さま、用意はいい?」


麗真と言う名の左の鏡の少女は、右の鏡の少女の瑛梨に向かっても言った。

私は取りあえずノージニチィへ『危険』のサインを送る。

だが彼女は私の心配を余所に、真っすぐ私たちの元へ歩み寄ってくる。


「Mr.七篠。早く吊橋を渡って、城の中へ入ってください。ここは危険です。」


危険な場所に連れて来たのは君じゃないか、と元来の私なら言う筈であった。

が、私はノージニチィの厳しい口調に押され考える間もなく操り人形のように頷いてしまった。


「砂漠谷姉妹の…。会うのは十二年ぶりね。と言っても、覚えてはいないわよね。」


ノージニチィはどこか懐かしそうに『目』へ声を掛けた。


「…覚えている、ノージニチィ。命惜しさに吸血鬼に魂を売ったと聞いた…。」


「アンタの親父さん、『娘は死んだ』って言ってたから騙されるとこだったよ。」


麗真と瑛梨が交互に喋る。

ノージニチィは碧い目に嫌悪を露わにした。


「あの男が私を死んだと言ったのは、もう私を狩る対象でしかない吸血鬼としてしか見ていないからよ。あの男は吸血鬼でも吸う血が無い悪魔の様な男なの。如何に私があの男の娘であっても、止めを刺す手は緩めないでしょうね。…それよりも、一つあなたに伝えたいことがあるわ。」


ノージニチィの口調は厳しかった。


「アタイらに? 言っとくけどアンタが時間稼ぎしても事態は良くならないと思うよ。」



彼女らが話している間、私はいつ逃げようかとタイミングを窺っていたのだが中々走りだせないでいた。

走り出せない理由が多すぎた。

殺気の満ちた空間、柵の無い吊り橋、そして何より吸血鬼。

資産家の依頼のどこに、こんな映画の様なシナリオが詰め込まれていたというのだ。

こんな風に、私が脳内逃避を企てている所へ一際強烈なアイコンタクトが送られてきた。

送り主はもちろんノージニチィだった。


―今です、走ってください―


私は彼女の目に操られるように橋を走り出した。

後ろからノージニチィの声がする。


「砂漠谷麗真、あなたの姉たちはもう死んでいるのよ! 吸血鬼に殺されてね。いい加減に鏡から目を離すと良いわ!!」



「―あハははハ。死ンデナンカイナイデスワァ。ミンナココニ在ルンデスカラ。ネエ麗真?」


「愚問よ、ボクはお姉ちゃんたちとずっと一緒…。」


「日本ノ吸血鬼ハモウ全員殺シタノヨ! 凄イデショ? 今度ハ、オ前。サア殺スワヨ、殺スワヨ。吸血鬼ヲ、殺スワヨ」



―私は橋を駆け抜ける。

背後でどんな音がしようと、振り向く気にはなれなかった。

自分の荒い呼吸音だけに集中する。

息が苦しいのか、胸が苦しいのかよく分からなくなった。

くぐもった低い断末魔が後ろで聞こえた気がした。

堀の底にある闇がうねって見えた。



―気が付くと私は城の門に立ちつくしていた。

扉は開いている。


「Mr.七篠、奥へ!!」


走ってきたノージニチィが私の横へ並ぶ。

彼女の頬には深い切り傷が入っていて、胸のあたりは血で染まっていた。

だがそれら全てが彼女の血であるかは分からなかった。

私が何か声を掛けようとしている内に、彼女は橋に振り返って、何かを投げた。


「そこへ隠れてください。」


私を城壁の陰へ引き寄せる。

―と、橋で爆発が起こり、破片がパラパラと飛んできた。


「これでしばらく、彼らは城に入れなくなるでしょう。」


ノージニチィはほとんど独り言に近い口調で言った。

『彼ら』とは一体何者なのか

ここで一体何が起こっているのか

どうしてノージニチィは狙われているのか

私は急に沸々と、不条理に耐えかねて来た怒りが口元まで登ってきた。

それが心に余裕が出来た為か、否かを問うている場合ではなかった。


「…き、君は一体何者なんだ? どうして私をここに呼んだんだ!? 何が起きている!? 全部話してくれ、吸血鬼ってなんだ!? 」


私はノージニチィの肩を掴み、グイと引っ張った。

ノージニチィの焼け縮れた前髪の束が頬を打った。


「申し訳ありませんが今はここを逃げるのが先決。全ての真相は屋敷へ戻った後でお許し頂けないでしょうか。」


私は口をつぐむ。

……血まみれで、ほとほと疲れ果てた顔で彼女にそう言われてしまい、私は言葉の矛先をずらさないではおけなかった。  

私の様子を見て、ノージニチィは一瞬その瞳に感謝の色を浮かべた。


「…ああ分かったよ、質問は後にしよう。で、逃げる手段はあるのか? 迎えが来るのはまだ先だ。」


「この城には籠城の時の為、地下に水路があるのです。そこから外へ出ましょう。」


ノージニチィは私を見て哀願するように頷いた。

私も頷く。

これ以上、彼女の負担を増やすのは余りにも酷と云うものだ。




―「逃げンのか、マリア。いや今はノージニチィと言うンだったな。」


城の回廊で何者かの声が私たちを呼びとめた。

見れば、反対側にある扉の向こうにダークスーツを着た髭面の男が立っている。

一見、荒々しそうに見える外見だったが、そのうちには老獪な知性が秘められているようにも見える。


「…シャイロック。」


ノージニチィは吐き捨てる様に云って何処からか銃を取り出した。

シャイロックと呼ばれた男は諸手を上げて彼女を制止する。


「まあ待てよ。俺とお前が1対1で戦っても共に50%の確率で損をすンだ。そンなリスクを犯してまで、戦意の無い俺と戦う積りか? 」


「あなたみたいな卑劣な男をこの世から消せるなら、それくらいのリスク大したことないわ。」


「あぁン? お前変わったなァ。見た目はあの時のまンまだが…。まあいい、どちらにせよ俺はお前とここで戦う理由に当たるだけの報酬は貰ってねえ、つまり俺とお前は戦わなくて済むンだ、幸いな。俺だって昔の仲間を殺すような嫌な仕事をしたくは無い。」


「私も幸い、金にまみれたあなたを仲間だと思ったことは一度も無いわ。」


「何言ってンだ。金は、少なくとも吸血鬼よりは神聖なもンだぜ。金が無ければ仕事も無い。仕事が無ければ人間は堕落していく。金こそが人間の尊厳を守っている要因だとは思わンか? 」


「残念だけれども私にはそうは思えないわ。こう思えるのもあなたのお陰よ、感謝してるわ。」


ノージニチィが有難くなさそうに礼を言った。

シャイロックはやや興奮したように、まくし立てる。

その度に短い顎鬚が上下に動いた。


「俺はプロだ。道具だ。その道具がキチンとその役割を果たし、相応の金を受け取る。これのどこに善い悪いがある? たまたま俺の仕事が他より少し倫理的にデリケートなだけの話だ。だがプロは仕事に私情を挟まン。それでいて、ただ冷酷な機械人間って訳でもない。そこを理解してないヤツが俺らを責めて善人ぶっていやがンのさ。そういうヤツらは自分たちも所詮この流れの一部だと気付いていない。肯定しろよ。 利用し利用され、だが金によって最後はみンなハッピー。これが神の創った完璧な世界だ。いい加減、お子様じみた説教はよせ。虫唾が走る。」


「シャイロック、あなたもいい加減その妄想じみた自己弁護はやめた方がいいわよ。かっこ悪いし、ダークスーツも似合って無いわ。」


「ああ、きっとモテない。」


私も便乗してシャイロックという男へ横やりを入れた。


「ふン、強情な奴だ。で誰だその男は? 彼氏か? 親父さンが怒るぞォ。」


「あの男はもう私の父ではないわ。」


「話をそらすなよ、チクらンからよ。…お、そう言えば忘れるところだった。一つお前の為に忠告してやろう。今が吸血鬼とは言え元同僚だ。昔の貸しがあると言えばある。俺は貸しを返さなければ夜ぐっすり眠れねえ質なンだ。」 


ノージニチィはシャイロックの忠告に不吉な響きを感じ取ったようにゴクリと喉を鳴らした。

しかし彼女は気丈にも目をそらさなかった。

シャイロックは老獪そうな口角をほんのり上げて、言った。


「―お前の親父さン、わざわざアメリカからこっちに来てるぞ。はやく逃げな。あの男の強さはお前が一番知ってンだろう?」


「…!!」


「ノージニチィ?」


シャイロックはノージニチィの反応を見て、笑みを消した。

その代わりに額へ皺を寄せ本当に気の毒そうに見せようとしたらしく、口をへの字に曲げた。


「―取引しよう、ノージニチィ。フロレスクの居場所を教えるンだったら、お前のことは親父さンに黙っとく。あの男がフロレスクの隠れ家へ行ってる隙に、何処へなりとも逃げると良いさ。そンな姿、親父さンには見せたくないだろう? 悪くない取引だと思うンだがな…? 親子が殺し合うなンてのは劇であっても見れたもンじゃねえからな。」


「…他のハンター達の口から知られるかもしれないわ。」


「心配は無い、俺が手を回すさ。奴らは所詮、俺と同じ職業ハンターだ。皆どっかの組織から雇われてる。そのうち俺が雇われてンのは数ある組織の総元締めみたいなもンだからな、口を利かせば何とかなる。」


「さっき『舌』に会ったわよ。彼は何処にも所属しないハンターだった筈だけど?」


「職業以外で吸血鬼を狩ってる奴なンて、大抵頭のネジが外れた野郎だ。そンな奴らがお前のことをぺちゃくちゃ口外はしねェさ。…もしそれでも心配なら、そいつらを俺が始末してやる、サービスでな。」


その瞬間、ノージニチィは持っていた銃を構え引き金に指をかけた。


「失せなさい。私が次に瞬きをしてもそこに立っていたなら、容赦しないわ。」


彼女の剣幕にシャイロックはウンザリしたように肩をすくめた。


「交渉決裂みたいだな。分かったよ、じゃあフロレスクに宜しく言っとくンだな。」


シャイロックは身を翻して扉の向こうに消えた。

それでも、ノージニチィは銃を下ろさなかった。






……………

………





城のそびえる丘は遥か後方に霞んで見えた。

ノージニチィは黙々とここまで歩いてきた。

彼女の華奢な体はどれ程の重圧に耐えているのだろうか。

到底私には理解できないモノだろう。

しかし私はついに己の無関心に耐えきれなくなった。

理性は情に敗れた。

私は自身の原始的な扉を開いてしまったのだ。

その理由が分からないのだから、こう云うしかないだろう。


「ノージニチィ。…君は吸血鬼なんだってね。」


私が喋ると、一瞬彼女は肩を震わせた。

一人の少女がそこにいた気がした。

しかしその影は、彼女が振り返った時にはもう消えて無くなっていた。


「答えは、Yes.です。吸血鬼になったのは今から十二年前、私が十六歳の時でした。」


「と云う事は、君はもう本当は28歳なのか! 吸血鬼はずっと見た目が変わらないのか。」


私は改めてノージニチィの幼い容姿を眺める。

ノージニチィは失礼ね、とでも言いたげに私をキッと見た。


「…永遠にそのまま、と言う程ではありませんが成長はほとんど無くなります。同様に老化も無くなるそうです。」


「不老不死ってことか?」


「不死ではありません。私たちの体は大抵の損傷なら直ぐに治ってしまいますが、爆薬で木っ端微塵にされたり、首を切られれば人間同様に死にます。」


ノージニチィは言いながら頬に付いた血を指で拭った。

そこにあの切り傷は無くなっていた。

私は彼女が吸血鬼であると信じる理由が見つかった事に安堵した。


「もしかして…血を吸う為の牙もあるのか。」


「はい。上の犬歯の裏側に。」


私はそれを見せろとは言わなかった。

言えなかった。


「私は12年前、父のエイブラハムと共に日本へ訪れました。目的はもちろん吸血鬼狩りです。」


「12年前と言ったら、フロレスクさんも丁度日本に……」


「お聞きの通り、旦那様もそこにいました。そして、彼は私達ハンター親子を罠に掛け、まんまとその娘を仲間に引き入れてしまいました。」


「君は…どうして反抗しないんだ?」


「吸血鬼にされた人間は、親の吸血鬼に服従しなければならないと云う強迫観念が植え付けられます。そうなれば最後、自殺すら許されず永遠彼の下僕で在り続けるしかないのです。」


「…それでも私がフロレスクさんだったら、自分を殺そうとした人間を近くには置かない。」


「…そうでしょう。でもこれが旦那様にとっては私達への復讐でもあるのです。」


「復讐?」


それはあの老紳士には到底似合わぬ単語だった。

フロレスク氏の柔和な微笑の中にある残酷性が私の心臓に深々と突き刺さった。


「私は日本で吸血鬼を一人仕留めました。その吸血鬼は旦那さまと旧知の仲だったのです。旦那様は冷たくお怒りになって、私にどんな死よりも残酷な運命をお与えになったのです。そして、吸血鬼となった私を最も身近に置いて手足の様にお使いになられているという訳でございます。」


「それが…理由か…。」


「はい。それともう一つ理由があります。私は吸血鬼になってまだ12年しか経っていないので、ある程度は日中でも活動できます。だから私は日中ハンターが攻め込んできても野外で戦う事が出来るのです。」


「しかし、君もいずれは闇の中でしか生きられなくなるのか?」


「…そうなるで事でしょう。」


ノージニチィの瞳に陰が射す。

諦められない気持ちはきっとまだあるのだろうと思うと、彼女の傷ついた細い体をどうしようもなく抱き止めたくなる。

だが憐憫の情など彼女には届かないかもしれない。

彼女はあまりに深く闇の中に身を置いてきたのだ、私の手など届かぬほどに。


「君の父は…」


「私の父は代々吸血鬼を狩ってきた一族の当主であり、高名な物理学者でもあります。彼にとって吸血鬼は悪そのもので、ある意味では吸血鬼を狩る事こそが彼の存在意義となっているのです。実の娘という定義は、吸血鬼という事実の前には何の意味もなさないでしょう…。」


ノージニチィは視線を泳がせながら、消え入りそうな声で言った。


「フロレスクさんはそれを分かって…!」


私は必死にそれ以上の言葉を探すが、拾っては捨てを繰り返すしかなかった。


「じき日が落ちて気温が下がります。急いで屋敷へ戻りましょう。」


「…そ、そうだな。だが、車で3,4時間掛った道だぞ。歩いて一体どのくらい掛るんだ。」


「ご心配いりません。車はわざと迂回や遠回りをしていましたので、余計時間が掛っていたのです。真っすぐ帰れば歩いてでも、ものの一時間も掛らないかと。」


 ノージニチィは辺りに鋭く目配せして林の中を進みだした。

透明な大気は私の口から出る瞬間に白い靄へ変わった。

清浄では無くなった冷たい空気が、人に触れて大気よりほんの少し温かくなったのだろう。


息をする勇気が無いものは死ぬ。

私は一つの決心を固めた。



作中歌

フランチェスコ:『平和の祈り』より

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