5. 告白
5月中旬を過ぎ、気づけば季節もすっかり初夏の匂いに変わっていた。けれど、私の時間だけは冬のまま止まっている気がした。仕事が急に忙しくなってきたのだ。
奈々美が帰ってきたら夕食を用意して一緒に食べる。片付けをしてから再びパソコンに向かう。その繰り返しだった。
「お母さん、こんなところで寝てたらダメだよ」
うっかり机で眠ってしまった私を起こしてくれる奈々美。前もこういうことがあったっけ。変わらないなぁ、私。
奈々美も中間テストが近いので、心配かけないようにしないとね。そう思っていたのに仕事は終わらない。メンバーも手一杯で、私が残った作業を引き取ることになった。
「どうしよう……終わらない」
夜遅くに涙が頬を伝ってぽたりと落ちる。
時計を見ると3時になっていた。
「ああ……頭……いたい」
私は立ち上がってソファで横になった。
――翌朝。
「お母さん、大丈夫?」
「あ……奈々美……」
「もう学校行くからね」
「うん……行ってらっしゃい」
結局昨日は仕事が終わらなかった。
ソファから起きあがろうとするが、身体が動かない。
「あれ……?」
頭がぼんやりする……今日って何日だっけ。
何もできないまま時間が過ぎ、やがてスマートフォンが鳴る。
「はい……」
「梅野さん、昨日の資料できてる?」
「それが……」
私はうまく話せない。頭もまわらず、様子がおかしいと気づいた上司に休むように言われた。
「はぁ……やっと……休める」
それでも悔しかった。最後までやり遂げたかったのに、出来なかった。
しばらくソファで眠っているとあっという間に昼になった。
「ドラマでも見よう」
私はリモコンをとってテレビをつける。ふとドラマに出てくる俳優が弦くんに似ているような気がして、スマートフォンを手に取った。
『弦くん、お疲れ様。今見ていたドラマの相手役、弦くんぽい(笑)体調崩して休みをもらったからゆっくりしています。弦くんも気をつけてね』
――送信。
彼が仕事中なのにこんなメッセージを送るなんて。邪魔しちゃったかな。
だけどドラマの続きを見ていると、すぐにスマートフォンが光った。
『凛々子さん、大丈夫ですか? 今日は4時間授業なのでこのあと空いています。何か買っていきますので』
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
「……弦くん、ほんとに来てくれるの?」
そんなに心配してくれるなんて。
申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、お言葉に甘えて彼に来てもらうことになった。
※※※
インターホンが鳴り、ふらつきながら玄関へ行く。
そこには買い物袋を持った弦くんが立っていた。走ってきたのか、息を切らしている。
「ありがとう、来てくれて」
「お邪魔します」
彼は机に買ったものを広げていく。そしてキッチンで買ってきたお粥を温めてくれた。
「休んでいてください、今日ぐらいは」
その言葉に涙が出そうだった。
ひとりなので奈々美のためにもあまり休むことはなかった。奈々美の笑顔があれば頑張れるって思っていたから。だけど知らない間に身体は悲鳴をあげていた。何も気づかなかったなんて。
弦くんがお粥を持ってきてくれた。
「いただきます」
あったかくて柔らかくてお米の甘い味がする。彼の優しさを改めて感じて、身体があたたまってゆく。
「美味しい……」
あまり食欲がなかったのに気づいたらパクパクと食べていた。
食べると急に眠気が襲い、私はソファに横になる。向こうの方でお皿を洗う音が聞こえてきた。
弦くん……
ありがとう。
そう思いながら眠りに落ちる。
夢の中でも弦くんが出てきた。私の隣にいて肩を抱き寄せてくれる。あたたかい彼に包まれていると――ふわっとおでこにキスをされる。恥ずかしくて顔が熱くなってきた。
「ん……」
目を開くと弦くんの顔がすぐそこにある。
私は夢を思い出して頬が染まってゆくのを感じた。
「ご、ごめん弦くん。私ったら寝るなんて」
「いえ、俺のほうこそすみません。こんなこと……」
距離が近い、動けない……。
私が見つめていると、彼が口を開いた。
「……俺じゃ、だめですか」
言葉が空気を震わせた。
一瞬、時が止まったように感じた。
その言葉をどれだけ待っていただろうか。
でも……不安が残る。
「どうして、私なの?」
「高校生の時から憧れていたんです。明るくて気さくで……あの時から凛々子さんへの想いは変わっていません」
「弦くん……」
信じられない。高校生の時から私のことを……?
どうすればいいのかわからなくて、とりあえずソファから起き上がった。彼に隣に座ってもらう。
「急に呼びつけておいて……何だかごめん」
「いえ。俺は、凛々子さんからの連絡が嬉しかったです。心配でした。いつも、誰よりも……頑張っている凛々子さんのことが」
いつも、誰よりも……頑張っている。
弦くんのその言葉が、私の心にある不安をゆっくりと溶かしてくれる。
私は頑張っていたんだ……ひとりだからこうするのが当たり前だと思っていた。それを初めて認めてもらえた喜びで、涙が溢れて止まらない。
「私……ずっと自信がなかった。いつも不安だった。娘がいてくれるから、あの子のおかげで私は笑っていられるの」
彼は優しく頷いてくれる。
「だからさ、あの子が学校行ってる時……家で仕事してるから、ひとりでいるから急に怖くなってくることがあって。わからないの……どうしてこんなこと考えてしまうのか、わからないよ……」
彼が私の背中をポン、ポンとした。手の温もりがじんわりと伝わってくる。
「凛々子さん、もう十分頑張っていますから」
「弦くん……」
あなたの顔が、こんなに近くにある。
彼は私の頬にそっと手を添える。
「……娘にどう言おうかな。だけど弦くんがそばにいてくれるなら……あぁまた泣きそう、ごめん」
「いえ、ゆっくり考えてください。娘さんのこともありますので。俺はいつでも待ってます。だから……もうひとりだなんて、思わないでください」
ひとりじゃないの……?
私、ずっとひとりだからって思ってた。
でも……あなたに頼ってもいいの?
「そんなこと言われたらもう……弦くんのことが好きになっちゃうじゃないの」
「それでいいんです、凛々子さん」
彼に抱き寄せられてゆっくりと目を閉じた。
唇が触れるたび、胸の奥の冬が溶けていく。
私はようやく――本当の温もりに出会えたんだ。




