4. 名前で呼ぶ距離
松永くんと連絡先を交換できた日。早速彼にメッセージを送った。
『今日は松永くんに会えて嬉しかったです。また話せるといいな』
娘の前では見せられない気持ち。
母親なのにこんなことをするなんて。
だけどそれ以上に、安心感が心に広がってゆく。私はひとりじゃないんだって思える。
そして、彼からの返事は夜にきた。
『こちらこそ、ありがとうございます。先輩は今の時期はお忙しいでしょうか。よろしければ合間にランチでも行きましょう』
ランチという文字に心ときめくのを感じる。私はすぐに返信を打つ。
『ランチ、行きたいです。しばらくリモートなので、松永くんに合わせるよ』
そして日程はゴールデンウィーク明けの水曜日に決まった。今からその日が楽しみだ。
「お母さん、何笑ってるの?」
「え……」
お風呂上がりの奈々美に声をかけられた。この子は時々鋭いので、気づかれないようにしないと。
「あ……今日の税の教室、楽しかったなって」
「ふぅん……」
奈々美は最近髪を伸ばして少し大人っぽくなった。もしかして好きな人でもいるのかな。
「ねぇ奈々美。髪どのぐらい伸ばすの?」
「え? まぁ……適当、かな」
「ふぅん……」
もしかしてお互い誰かが気になっているのかもしれない……そう思うと奈々美の話を聞きたくなるけど、きっと教えてくれないだろうな。
「早く寝るのよ」
「はーい」
※※※
ある夜、パソコンの画面を閉じたあと、静まり返った部屋にひとりで座っていた。
彼の笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
胸の奥がじんわりと熱を帯びて、息を整える。
――落ち着いて。
私は小さく呟いた。
こんな気持ちでいいのかがわからない。
娘を一番に考えたいことには変わりないのだけど。
それでも、あの穏やかな声が耳の奥に残って離れない。
手を伸ばせば届きそうな距離に、彼がいるような錯覚。
「……もう、寝よう」
部屋の照明を落とす。残ったのは、まだ少し温かい余韻だけだった。
※※※
慌ただしく日々が過ぎてゆき、ゴールデンウィークも明けて松永くんとのランチの日になった。
奈々美を見送ってから着替えて化粧をする。いつもより背筋が伸びる気分。バッグも準備していつでも行けるようにしてから、仕事に取り掛かった。
あっという間に昼になり、私はバッグを持って家を出た。
待ち合わせ場所のレストランまで急いで向かう。
初夏の匂い、爽やかな風の音……全てが新鮮でこれまでとは違って見えた。
レストランに到着したけど、松永くんはまだみたい。
しばらくして向こうの方から、彼が急いでやって来た。
――髪を少しカットして髭も剃っている。そして服装が洗練されていてお洒落だった。
ますます大人の男性の魅力が溢れる彼を見て、私はしばらく見惚れていた。白いシャツの袖口から覗く腕が、やけに眩しかった。
店に入って早速松永くんが聞いてくる。
「娘さんは、高校生活順調ですか?」
「うん、何とか頑張ってる。急に髪伸ばすとか言い出して、服も欲しそうにしているし……高校デビューかな」
他愛のない会話でも彼と一緒なら楽しい。
そう思っていると唐突に彼からこんな質問を受けた。
「……どのような男性が好みですか?」
「え?」
ちゃんと考えたことなんてなかった。
これまで好きになった人が好みのタイプだったから。
真剣な表情の松永くん……そこまで見られると……。
だけど私は、奈々美の幸せを一番に考えて生活したい。
好みとかって考えてる場合じゃないし、それに……。
もう、恋愛ができるかどうかもわからない。
「私は……わからないかも。そういうの」
本気で好きになれば壊れてしまう。そんな恐れが、まだ心のどこかに残っている。
「ですよね……すみません急にこんなこと」
松永くんがうつむいてしまう。
「ううん、気にしないで。何というか……誰かを好きになる感覚がわからなくなっているのかも」
いいなとは思うけど、それ以上好きになれるかはわからなかった。
だから、松永くんのことは気になるけど……一方でまた関係が崩れてしまうのが怖いの。
「……新しい恋人が欲しくなることはありますか?」
「そうねぇ……正直、ちょっと怖いんだ。付き合うとか考えると疲れちゃいそうで。今は娘との生活が一番だし」
「そうですか」
だけど、松永くんとこうやって話すのは好き。私はもう一言付け足した。
「だからお茶する友達ぐらいでいいかなって思う。それがきっと一番楽なの」
そう、今みたいに心の中だけでぽかぽかしていたら、それだけで幸せになれる。
「ま、松永くんとは、これからもまた会えたらなって……あ、ごめん勝手だよね。松永くんだって恋人がいるかもしれないのに。私なんかと……」
友達ぐらいがいいって自分で言っておいて、彼に恋人がいるか確認しようとするなんて。私ったら……。
だけど彼からの返事はこうだった。
「恋人とか、いませんので。何も気にされなくて大丈夫ですから」
嘘……こんなに優しいのに、松永くんは今ひとりなんだ。その言葉になぜか安堵する自分がいる。
さらに、彼はこうも言った。
「凛々子さんって呼んでいいですか」
「え……」
胸が一気に熱くなる。
奈々美の母親としてではなく、ひとりの女性として接してくれているような気がして嬉しくなった。
「や……やだ、何だか恥ずかしいけど……嬉しい。久々だもん名前で呼ばれるのって」
「そうなんですね」
私もあなたを名前で呼びたい……そう思い、
「じゃあ松永くんのことも名前で呼んでいい?」と尋ねた。
「はい」
「弦一郎くん……」
ふっと時間が止まったような感覚。
2人の間に新たな関係が生まれたようだ。
「弦一郎くん、かぁ。弦くんでもいい?」
弦くんって……何だかいい感じ。
すると彼は恥ずかしそうにうつむく。
「おーい、弦くん? 下向いてちゃわかんないよ?」
「す、すみません……照れてしまって」
「ハハ……だよね。何かドキドキしちゃう」
少し彼と距離が近づいた。
だけどここまでに――しておかないとね。
私は高鳴る胸をおさえながら、窓の景色を眺めた。
ガラスに映る自分の頬が、ほんのりと桜色に染まっていた。




