3. もう一度、春がきた
それからも、私は時々松永くんと電話で話すようになった。奈々美のことを相談するうちに、本当に彼と一緒に娘を見守っているようになっていた。
「あの子、小さい時から背中をポンとすると落ち着くのよね」
「そうなんですね」
彼の声がやわらかく響いて、まるでその手で背中を撫でられたみたいに心が落ち着いた。
「あ……ごめん。話長くなったわね」
「いえ」
いつからか、彼と話すのが楽しみになってきた。もし両親が揃っていたら、父親と母親でこういった話をするのだろうな。
奈々美からは松永くんの話を聞くことはほとんどなかった。けれど彼から学校での様子を聞いて、何となく奈々美も松永くんに心を許しているように感じた。
そして、奈々美の中学校卒業式の日。
保護者席で見る娘の卒業の瞬間に、私も涙した。無事にここまで来れたのは、きっと松永くんのおかげでもあるかもしれない。
私は卒業式が終わってからひとりで学校に向かった。
学校に到着し、管理棟の玄関まで彼が来てくれた。
「松永先生、ありがとうございました」と私はお辞儀をする。すると彼はこう言った。
「あの、少し外で話せませんか」
外で……2人で?
嬉しい、最後にゆっくり彼と話せるなんて。
こうして松永くんに学校から少し離れた喫茶店に連れて行ってもらった。
「2名様ですね、こちらへどうぞ」
ウェイターに案内されて一番奥のボックス席に座る。
「コーヒーを2つ」
「かしこまりました」
私は早速、彼に話す。
「松永くん、今まで本当にありがとう。おかげで奈々美はここまで来れた。あの時に松永くんに会えていなければ今頃どうなっていたか」
「いえ……お役に立てて良かったです。今日は奈々美さん、泣いていましたね」
「あの子、感極まるとすぐ涙が出ちゃうのよ」
彼が笑顔になって私も一緒に笑う。
「この1年、受験もありましたが奈々美さんはよく頑張っていたと思います」
「松永くんに……見守ってもらえた気分だわ」
もう奈々美も高校生。私もいつまでも松永くんに頼るわけにはいかないわね。
だけどそう思うと途端に心が寂しくなってくる。私には奈々美がいるから大丈夫なはずなのに。
コーヒーが運ばれてきた。
彼がゆっくりとカップを持ち上げる。
その顔を私はずっと眺めていたいのかも……しれない。
「俺たちと同じ高校ですね。奈々美さん」
「そうね、嬉しいわ。これからはあの子も高校生だから、さらにそっと見守る感じかしらね……あ、もう学校に……松永くんに電話したりはしないから。本当に今までありがとう」
自分で言いながら、胸の奥が締めつけられた。
それなのに彼は、静かにコーヒーカップを置いて――
「あの……何かあれば相談してください。先輩も奈々美さんもひとりで抱えてしまうところがありますので。俺で良かったら……俺で良かったらいつでも……話ぐらいは聞きますから」
松永くん……。
どうしてそんなに優しいんだろう。
きっと他の保護者との対応だってあるのに。
私はその気持ちだけを受け取ることにした。
あなたの優しさはずっと忘れない。
「ありがとう、松永くん」
※※※
その後、奈々美は無事に第1志望校に合格。新しい生活がスタートした。
奈々美が高校生になり、私は少しずつ自分の時間を取り戻していた。在宅の仕事も慣れてきて、ようやく心に“余白”ができた気がする。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
在宅なので朝はゆっくりと奈々美を見送ることができる。だけど、仕事が終わらない時はずっと家で作業をするので大変なこともある。
ある日、午前中の仕事を終えた頃にスマートフォンが鳴った。
「梅野さん、急なんだけど明日の“税の教室”、補助講師で行ってくれない? 担当者が熱を出してしまって」
「承知しました」
税の教室――中学校で行われる特別授業で、私たち税理士が生徒に税金の仕組みなどを教える。ずっと在宅勤務だったから久々の外の仕事、少しソワソワしてきた。
「よし! スーツ用意しなくっちゃね」
――そして翌日。
4月下旬。ぽかぽかとした陽気の中、中学校では生徒たちの笑い声が聞こえてきて賑やかだ。
私はもう1人の講師と一緒に“税の教室”を実施しに行った。生徒たちとの交流もできて、なかなか好評だった。
無事に終えて、教室棟の階段を降りた時だった。
誰かの――視線を感じる。
振り向いたその時だった。
背の高いひとりの男性がこちらを見ているのに気づく。
「……松永くん?」
「先輩……」
まさか、こんなところで会えるなんて。
私は思わず彼の元へ向かって行った。
「嘘……松永くんがこの中学校にいるなんて! すごい偶然ね」
「はい……4月からこの中学に」
この中学校は奈々美が通ったところではない。だから松永くんがいるなんて思いもしなかった。だけど彼はここに転勤してきたんだ。
元気そうで良かった……もう嬉しくてたくさん話してしまいそう。
――そうだ。
「松永くん、あの……良かったらなんだけど……」
「どうかされましたか? 先輩」
こんなこと言ったら驚かれるかもしれない……それでも彼と何らかの方法で繋がっていたい。
もしかすると、奈々美のことでまた相談することがあるかもしれないし。
「……連絡先、交換できる?」
「え……」
どうしよう、言っちゃった。驚く松永くんを見て慌てて付け足す。
「あ……ごめんね急に。もちろん何かあれば高校の先生には相談すると思うけど……その……発達心理学とか、松永くんならよく知ってるでしょう? 私、ひとりだしさ。繋がっていた方が心強いなって……思って……」
顔が赤くなってきてしまう。しつこい保護者だと思われたかな。
そう思いながら彼の顔を見ると、少し照れたような表情をしている。
「正門の外で待っていただけますか。職員室に戻ったらすぐに向かいますので」
こう言ってくれた松永くん。まるで高校時代のようなワクワクする気持ちが湧いてきた。
「ありがとう……!」
そしてスマートフォンを持ってきてくれた彼に、
「向こうに行きましょう、先輩」と言われて、少し学校から離れたところに行く。
連絡先を交換し、画面に彼の名前が表示された。
まるで春の陽だまりみたいに、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていく。
「ありがとう、松永くん」




