1. 春の始まりに
あれは寒い冬の日の朝だった。
「奈々美……もう大丈夫よ」
スーツケース片手に娘と一緒に家を出ることができた。
――まるで地獄だった。
毎日責め立てられ、人格を否定されてきた。
少しでもあの人の気に食わないことがあれば、叱られる。
モラハラは、外からは分からないもの。
「素敵な旦那さんね」と言われるたびに、胸がズキンと痛んだ。誰にも相談できなかった。
私ひとりなら、まだ耐えられた。
けれどこの子には、あんな目に合わせたくない。
「……ママ、おなかすいた」
「おやつ、食べていいわよ」
――可愛い。
私には奈々美さえいればいい。
この子を守るために、これからは生きたい。
※※※
実家に到着した私は、倒れるようにソファで眠りに落ちた。奈々美は母が面倒を見てくれた。「ママねちゃったね」と何回も言っていたらしい。
凍えそうな季節に私は、実家の温もりに癒されながら体調の回復を待つことになる。
3歳の奈々美は4月から保育所に通うこととなった。初めての場所で緊張する奈々美は、先生のことも苦手だったけど徐々に慣れてくれた。
それでも秋の運動会では、ひとりだけお遊戯ができずに先生にしがみついていた。
「……少し成長がゆっくりかもしれないですね」
保育所の先生にそう言われて衝撃を受ける。私のせいだろうか……父親がいないからなの?
だけど奈々美は家に帰れば最高の笑顔を見せてくれる。
「ママだいすき」
甘えん坊のこの子がただ愛おしい。父親がいなくたって、立派に育ててみせる。
※※※
「凛々子、調停はどうなの?」
弁護士との電話を終えた私に母が心配そうに聞く。
「もう調停は無理みたい。相手方が離婚に承諾しないわ」
「そう」
「……ごめん」
「謝らなくていいの。あなたと奈々美ちゃんが元気でいてくれたら、それでいいのよ」
あの家を出てから1年が経とうとしている。また寒い季節がやってくるんだ。
「いつになったら本当の“春”がくるのかな」
私はすっかり暗くなった窓の外を眺めながら、ため息をついた。
「ママ」
「奈々美……」
いけない、この子の前では泣いては。
「お風呂入ろうか」
「うん!」
冬が本番を迎える頃に離婚裁判に突入し、弁護士から毎回経過報告を聞く。先の見えない日々だけど、時間さえかければどうにかなる状況――
私の体調も回復してきた。
「仕事……見つけなきゃ」
奈々美が寝たあとにパソコンを開いて、求職情報を調べる毎日だった。
そして、その日は突然やって来た。
「え……? 和解?」
「そうです、相手方が今になって」
「どうして……」
「わかりません。それまでの主張とは違い、養育費も払うと言っています」
――おかしい。あの人がそんなに簡単に折れるはずがない。
「凛々子さん。私としては、今のうちに和解して終わらせたほうが良いと思います。これ以上時間をかけていられないでしょう」
「そうですね、じゃあそうします」
今までのこの時間は何だったのだろう。
まぁ、あのぐらい気が難しい人だからここまでかかったのだろう。
あとから聞いた話だが、元夫に恋人ができて結婚を急ぐためだったらしい。結局自分の都合しか考えない人だ。
無事に離婚が成立した日は、寒さも緩み穏やかな風が吹いていた。
長い冬を越えて、ようやく春が来ようとしている。
「今度こそきっと……本当の“春”ね」
これから何かが始まる――そんな気がした。
※※※
ある日、奈々美を保育所に迎えに行った後に公園に寄った。桜が綺麗に咲いていて心が安らぐ。思えば長い間、桜を見る余裕もなかった。
「こんなに綺麗だったんだ……」
「ママー!」
振り返ると奈々美がすべり台を滑って走ってくる。
「たんぽぽさいてるよ、みて」
「本当だ」
「かわいいね」
そう言って奈々美は再びすべり台に向かう、元気だな。
ふと、向こうの通りに高校生の男女が歩いているのが見えた。
その様子があの頃の自分と――重なった。
『松永くんは信玄と謙信ならどっちが好き?』
『……先輩はどちらですか?』
『うーん迷うけど、やっぱ謙信かな!』
『じゃあ俺も』
『……もう、真似しないでよー』
歴史研究会の後輩――松永くんとの帰り道、彼との何気ない会話がくすぐったかった。
今でもこんな風に思い出すなんて……どうしてだろう。
ふわっと風が吹いて、春の匂いが漂う。
桜の花びらが空を流れるように舞っている。
松永くんにもう一度会えたら、私はあの時のように笑えるのかな。
そう思っていたら、公園の入り口に背の大きな男性が立っていた。
あれは――まさか。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。
少し伸びた髪に、細い眼鏡。あの頃よりも大人びた表情。
懐かしさが、胸の奥に眠っていた“春”を呼び覚ますようだった。
「……先輩?」
「松永……くん」
風に舞う花びらが、過去と未来をつなぐように見えた。
――松永くん。
その名前をもう一度、心の中で呼んだ。




