診断
軽快に踊る人体模型というものは、生まれてはじめて見た。理科準備室で律儀に直立不動でいる彼の姿からは想像できないほど、なめらかな躍動である。所々黒ずんだベージュの肌がミラーボールの散らす光の粒を受け止めて、艶っぽくきらめいている。ホール中央の方では、吸血鬼やミイラの格好をしたブラスバンドが奇天烈な音をかき鳴らし、彼は僕にウインクをしてみせた。その猿真似がおかしくて、ウインクが下手な僕は代わりに右目を手で覆って、白痴みたいにかすかに笑った。人体模型は、デカダンな音楽に溺れたふりをして、天下一の享楽主義者に名乗りをあげるように、人差し指を天高く掲げ、堂々と腰を左右に振っていた。そのたびに、つやめく心臓やら小腸やらが、ぼとぼと床に落ちていた。彼は気にも留めていないふうだった。通りがかったバーテンダーから落ちた内臓を受け取ると、浅く顎を引いて、一丁前にジンベースのカクテルを煽っていた。あいにく彼には、都合よく紅潮してくれる頬がなかった。
ダンスパーティも佳境に差し掛かった時、僕のすぐ後ろで硝子がぱりんと割れた。音楽が止まる。僕らは悉く、蝋人形のようになる。僕が見たのは、赤茶の斑点を帯びた隻眼の野良猫だった。毛むくじゃらの尾っぽを引きずって二、三周その場で回って大あくびをした。カウンターに沿って整列した四脚チェアの暗がりに、あいつが落とした真っ赤な肺をみとめた途端、それを咥えて行方をくらました。黄色の光点がたった一つだけ、放物線を描いて薄暗いホールの真ん中を飛んでいくのを、その場にいた全員が目の当たりにした。即ち、屈強な警備員が二人、予期せぬ盗難被害者の両腕を担ぎ上げ、半ば引きずる形でもろとも入店口から退場した。身体をがっしり掴まれたときの人体模型は、悪戯が折り悪く見つかった子供ように笑っていた。彼の表情筋は、僕にウインクしたときと同様、ぴくりとも動いていないはずなのに、なぜか、僕にはそう見えた――
「異常が見当たらない、という点でいえば全くもって正常ですな。いやはや、もう二十年近く内科医をしていますがね、こんな症例は君が初めてだ。感謝するよ、近頃は退屈な患者が多くてね、ボーナスはないがね、恨むでないよ」
初老の内科医は、黒く落ち窪んだ目元とは裏腹に、虫籠を前にした少年よろしく終始嬉々とした調子で私と向き合っていた。脂汗が滲んだ鷲鼻を撫でては、カルテにひたすらわけの分からぬ方程式を書きなぐっていた。内科医の後方では、若い看護師が、検査資料を束ねたバインダーで顔をこちらから遮り、手鏡を器用に傾けて、粉吹いた頬をなお白く染めようと躍起になっている。私と目が合うと、彼女は、野良犬を見るかのようにこちらを睨みつけた。不思議なくらい腹が立たなかった。
「もう一度、さっき見せてくれたレントゲン写真をみてもいいですか?」
「何度見ても同じだよ。全く、装置の異常を疑うのは何分構わないがね。君の撮影の前後にみた患者のは、ばっちり撮れていたからね。まずは、信じること」鷲鼻の医者は、上半身と頭を写したものをひとつずつ、私に渋々手渡した。
「さっきも言ったとおり、何も写っていないよ。咽喉から臍の下まで真っ黒だ。心臓の鼓動も腸の収縮も何一つ起こっていないんだ。これを、なんと呼ぶべきだろうね、わしにも分からない。くひひ。しかし! でも一つだけ分かっていることがある!」
立ち上がった内科医は、皺だらけの小枝みたいな指で虚空をなぞり、縒れた白衣を大きく翻して、私の腹のあたりをピッと指差した。
「君の呼気の成分検査をしたのだが、おそらく、いま君の身体を内側から満たしているのは、都市の空気だ。ヨードホルムと排気ガスと汗の成分が通常の数倍多く検出されたからね。つまり、都市の空気を錨にして、膨らんだゴム風船みたいな身体をこの診療室の椅子にぴったりくっつけることができているわけだね。十二指腸あたりでクラクションが鳴ったりして、くひひっ。何か質問は?」医者は胸の前で枯れた腕を回して小踊りしていた。
「本当にそうなら、私がいま息をしていることがおかしくなりますよ。これの、どこが正常なんです?」私は泣きそうな声で言った。
「君たちの意味では異常かもしれないね。しかし、我々医師は、在るものが基準から逸脱することを異常とみなすのだよ。君みたいに空っぽな身体については、傷を認めることはできないし、その空洞が風穴とは必ずしも言えないわけだ。異常でないから、正常。マイナス×マイナスはプラス。わかったかね? ほら、そこの人体模型を見習いたまえ」医師は、診療室の入口横を指差した。
硝子の眼をした人体模型の居住まいに無性に腹が立って、私は人体模型をもてる全ての力で殴りつけた。私の身体が軽いのか、人体模型はびくともしなかった。私は膝から崩れ落ち、溶けた鉛みたいに、いつまでも死んだように突っ伏していた。




