懐の中に
* * *
流れ出した映像は病室、母の横たわるベッドの光景。側には幼い頃の私と、一見落ち着き払っている様子の父が座っている。
私は一人、先ほどまでの緊迫した状況から一転、心穏やかにその様子を眺めていた。
「ねぇお母さん、次はいつ公園に行けるの?」
「ふふ……そうねぇ、もうちょっと先かしら」
母はそう言って力なく笑う。私は不服そうに頬を膨らませ、母に付いた無数の管を不思議そうに眺めていた。
私は知っている。この後ついに母は、病に主導権を握らせ二度と外へは出られなかったことを。小さな私はそのことを全く理解しておらず、これまた小さな葬式の後でも父へたびたび、お母さんいつ戻ってくるかな、と愚問を繰り返していたことを。
私は思わず口に手を当て、小さな私の無知と当時の母の心境を察していた。思わず、お母さん、と呟いてしまったのもそのせいだろう。しかし目の前の三人には聞こえておらず、その呟きは無機質な病室のすみに消えていった。
しかし……これはなんだろう。走馬灯というものだろうか。だとすれば私は、あの怪物の一振りを喰らって死ぬのだろうか。
どこかで聞いたことがある。人は明確な死に直面した時、その危機を回避するために自身の記憶からなんらかの術を得ようとするのだとか。
だとすれば不思議である。他にも色々な記憶が瞬時に駆け巡っても良いはずだ。なぜこの記憶ばかり、まるで明晰夢のように現れているのだろうか。
そんな疑問を抱いていたが、ごそごそと無口な父が荷物から何か一つ小ぶりなものを取り出した時に、明確に悟った。この小物を挟んだ私と母との会話こそ、眼前に迫る死を回避するための、最大の術であるということを。
「お父さん、なにそれ?」
「……母さんのものさ」
「私が頼んだの。今日ルナとお父さんが来てくれるって言ってたから。これをルナにあげようと思ってね」
「なにこれ……時計?」
「そう、懐中時計。お母さんの自信作よ!どう、綺麗でしょ?」
金色に光る幾何学模様の円形。蓋を開けてみれば、そこには無機質にからから動く歯車と、それぞれアナログ調の短針と長針があった。幼かった私はその複雑な機構を理解するに至らなかったが(今でも仕組みはよくわからないが)、とにかくひたすらに、綺麗だと思ったのだ。
「これお母さんが作ったの?すごく綺麗だね!」
「ふふっ、そうでしょう?……いい、ルナ?その懐中時計を肌身離さず持っていてね、約束よ?」
「もちろん!……だけど、どうして?」
母はなにか決定的な悟りを得たのか、それまで横たわらせていた自身の身体を起こした。父があわあわしながらその補助をおこなっている。母はがらがら鳴る喉に眉をひそめつつ、幼かった私を真っ直ぐに見つめて、こう言った。
「きっと……きっと、ルナは誰かを助けようとする。お父さんがそうだったように、そう動くだろうって、私にはわかるの。だからお願い……その時にこの懐中時計を思い出して。きっと、ルナを守ってくれるわ」
ハッとし私はポケットを探る。あの時より少し古びて、しかしその輝きと運動を止めることなく私とともに続けた、懐中時計。
その時視界が晴れる。それまでの白い無機質な病室が霧のように消えていく。私は母に目を向け小さく、ありがとう、と呟いた。すると三人の中で母だけがしっかりこちらを向き、返事をしたのだ。
「どうか……元気でね」
「……っ!?お母さんッ!!!」
消えゆく母に、私は手を伸ばした。しかし届くはずもなく、それぞれ三人と病室は白い光の中へと消えていった……。
* * *
「……え?」
刹那の記憶が消え去り、私の視界には先ほどの世界が戻ってきた。焦げるような臭い、爆風によって生じた土煙が立ち込めていて、目の前には不思議そうに首を傾げる化け物の姿があった。
私は確かに、この化け物の攻撃を受けたはず……。
そう冷静に考えていると、なにか私は持っていた。両腕には力が入り、その信号が遅れて脳へと伝わる。両手には柄のようなものが握られており、その先へ視線を流した――
私は白銀色の、煌めく刃で鉤爪を受け止めていた。
「この刀は……わっ!?」
怪物の力に押し負け、後方に転がる。背中や後頭部にじんじん痛みが走る。しかし刀を手放すことなく、なんとか距離を取ることができた。
得体の知れない怪物……謎の刀……この世界をよく知りもしないで、私史上最大の混乱状態。深く息を吸い、辺りを見渡す。
先ほど身を挺して守った少女がいない。焦りを覚えたが、よくよく怪物の背後、こちらを緊迫した表情で見つめる一人の茶髪緑眼の男がいた。シャルルである。彼は少女リンを抱き寄せ、物陰へと隠れていった。
私はその事実に安堵し、怪物へと視線を向ける。怪物は変わらずうめき声を上げているが、視線はこちらへしっかり向けられている。今にも雄叫びを上げ、こちらに襲いかかってきそうだ。
どうする……どうするっ!?
そうこうしているうちに、予想よりはるかに速い動きで化け物はこちらに向かってきた。私は刀を持ち、それを避けようと斜めへ跳んだ。
「えっ!?」
するとどうだろう――視界は開け、怪物の脳天を見上げる形となって私は空中にいた。自身の身体能力であれば考えられないほど跳び上がっていたのだ。
怪物はこちらを見上げ、私の落下に合わせてまたも素早く腕を振る。
どこか、飛び移れる場所へ……!
私は落下中に側面の壁を蹴り、さらに上空の、反対に位置する壁の配管をガシャリと掴んで、さながら超人のように壁へ張り付いた。
自身の身体機能に困惑しつつ、確かな自信と使命を持った。
これならいける……!
滑空時に片手へ持ち替えた刀をちらと見る。幾何学模様の柄と、輝く白銀色の刃。その鏡面に映る、フードを被った私。
私は煩わしくなったフードを取り、刃と同じ白銀色の髪を靡かせ、怪物へと跳躍した。
怪物は手を伸ばし、雄叫びを一段と張り上げ私を明確に敵として見ている。
伸ばされた手に刃を向ける。途端、私と共鳴したかのように刃は唸り、瞬間熱を持った。
……私は化け物の背後に着地、後ろでは怪物が悲痛の叫びを上げていた。怪物のたくましい黒腕は、竹のように縦へ一直線、裂けていた。
いける……!
私は刀を構え直し、化け物へ再び向き直った。
「ルナ、頭だッ!頭を狙えッ!!」
シャルルの叫び、私に伝わって目を怪物の頭部に向ける。怪物はくるりとこちらを向き、裂けていないもう片方の腕を振り上げ、その鋭利な鉤爪を私に立てている。
深呼吸、そして跳躍。
両足の熱も置き去りにし、私は刀をめいっぱい振るった。刀は共鳴し、大きく熱く、強く震えた。
一閃――。私は刀とともに化け物の後方へ転がり、立ち上がって怪物を見た。
確かな手応え。私はジッと怪物を見た。
怪物はやがて首元から蒸気を勢いよく吹き出し、絶命のうめき声とともに街路へゆっくり倒れた。
倒した……倒した。
一挙に現実が戻ってくる。肩を上下させながら私はゆっくり手元を見る。
「はぁはぁっ……あれ?」
手元には刀などなく、懐中時計が握られていた。
先ほどの経験や懐中時計を困惑の中訝しんでいると、少女をどこか別の場所へ置いてきたらしいシャルルがこちらに駆けてきた。
「いろいろとわかんねぇことはあるが……ひとまずここに留まるのは危険だ。奴らが来る前に……ずらかるぞ!!」
「う……うん!」
私はシャルルの後を追うように走った。去り際、怪物だったものを見た。その禍々しさは消え失せ、先ほどよりも小さくなって、街路に虚しく倒れていた。
……ごめんなさい。
私はなぜか、その遺骸に謝罪をした。