怪物、現る
轟音、同時に炸裂する赤橙の光。音は後方、リンという少女が走って行った道であった。空気の一部を汚すような土煙色が立ち昇っている。
「あれなに!?」
私は慌ててシャルルに訊く。すると横にいた彼はポケットに手を突っ込み、目を細めてぼんやり眺めている。
私の声にようやく気がついたのか、まるで寝起きのように、気だるげに言った。
「あー……よくあることよ、この街じゃ、ね」
「よくあることって……大丈夫なの、あれ!?」
私は現場を指差し訴えた。しかしシャルルの態度は変わらず、遠方の海鳥を見るような目つきで、おーおー今日はやたらでっけぇなぁ〜、と見物気分で感想を言った。
しかしシャルルの態度は、数秒後に起こった悲鳴や二度目の爆発音、遠方から駆ける人の波によって一変した。
やがて彼は目を見開いてゆっくりと道端の方へ寄った。私は状況をよく飲み込めていなかったが咄嗟に、シャルルの後に続いてはけた。
爆発は先ほどの残響をかき消す音と土煙によってなされた。
ビリビリと震える大気、吹き荒ぶ爆風、焦げ臭い。光はあまりにも速く、焦点に収まることなく消え去った。加えて、見る光景には一抹ならぬ不安と日常の乖離を想像させ、さきほどこの世界に来た時より大きな狂気を思わせた。
私が呆然と人波を見ていると、シャルルはそこから顔見知りらしき人物を捕まえなにごとかと尋ねた。網にかかったその人物は、スポイトで水を一つずつ肌へ垂らしたような汗をいくつも顔につけ、動転の色を隠さずガラガラと答えた。
「またあの事件だッ!!おめぇらも早く逃げなっ」
話し終える前にどさどさと走ってゆく、腹についた無垢な脂肪を揺らして。
そして彼はあっという間に人波へまた消えていった。
あの事件……?発言の意図を理解していない私はまたも呆然としつつ、サッとシャルルへ視線を向けた。しかし次に映ったシャルルの顔色はあまりにも険しいものであった。
先ほどまであれほど陽気であった人物がして良い表情をしていない。さながら快晴の折、スコールが突然襲ったかのごとく……。
「ねぇあの事件って!?」
すかさず訊く。しかしシャルルの耳には届いていないらしい。彼は小さくボソボソとなにやら呟いている。何度訊こうともびくともせず、顎に手を添え思考に耽っている。
私は途方に暮れた。このまま彼の言うであろう指示を待つべきとわかってはいたが、それ以上に不安と混乱の圧力によって押しつぶされてしまいそうであった。
絶えず寄せる人波、三度目の爆発、一人黙り込み辺りを見回すシャルル……そして、何者でもない私。なにもわからない、私。
私はよくよく爆発のした場所を見た。昔から目の良い私は、凝らせば現場の状況がよく見えるだろうことをそのとき、思い出したからである。ジッとジッと、見た。
土埃と瓦礫の先になにか大きな、機械とも妖怪とも見れるものがのっそり、時折素早く身体を動かしている。一目見てその姿は異形であり、僅かに残った思考力に疑問が生じたが、直感的に、端的にある文字列が浮かび上がった。
化け物だ。
おおよそ私のもと住んでいた世界では見ることはない、熊とも象とも表現しがたい、創作物からそっくりそのまま飛び出してきたかのような体躯。この街に住んで慣れ親しんでいる人々がそれからわらわらと逃げている様子から、きっとこの世界でも例外的存在であることは瞬時に理解できた。
二足歩行の、人間と同じ歩行方法。しかし体格は非常で、まさに巨人と言える。黒腕の先には鉤爪と指が一体化したような拳をつけ、肌は浅黒く、ちらちらと光沢のような煌めきをのぞかせる。身体のいたるところに穴があり、そこから静かに煙が上がっている。大口からはさらに蒸気が漂わせている。燃費の悪くガソリン臭い自動車が同様に蒸気を排泄している状況に、似ている、と感じた。目の焦点……そもそも目からは一層強い光沢。見えているのか感知しているのか、こちらからでは、わからない。
「なに……あれ」
呟くと同時に私は、視線の先、黒色異形の怪物のほんの少し先に小さな影を見た。
先ほどの少女である。
否――確信はなかったがそう直感した。
悟ると同時に私は――駆け出していた。無意識のうちにというのはこのことか、と後に私は感心したものだが……とにかく人波をスルスルと避け、韋駄天のごとく風となって走った。遅れて聴こえたシャルルの制止はなんの意味も持たなかった。
鼓動をはやらせ必死に駆けている最中、私はよくよく自身に疑問を抱いていた。どうして自身が今この時困難に乗じている最中、さらなる混乱の中であっても少女らしき影を視認した途端走り出したのか。
わからない。その一言が脳裏を支配した。かといって、身体は止まらなかった。なにか根源的な、私の魂と呼べる代物がそう動かしたのだ。
化け物との距離が近づく。人波は消え、硝煙と瓦礫にまみれた状況に、少しばかり足がすくんだ。化け物はなにやらうめき声を上げ、やたらめったら腕を振り回している。私は不安と後悔の結露を全身に纏わせながらも、小さくうずくまり咽び泣く少女へ声を上げた。
「走ってッ!!!」
少女は汚れと涙を混ぜた顔を上げた。しかしここで声を上げたことは、大きな間違いであった。
それまで少女に気がつかなかった怪物が、ハッキリと少女を視認したのである。
怪物は奇妙な、しかし恐ろしい雄叫びを上げながら少女へのそのそ近づき、腕を振り上げる。私は自身のあやまちに気がつき、走りながらその瞬間を見ていた。
視界はスローモーションとなり、ゆっくり振り下ろされる黒腕の妖しげな光が残像となって――
そんな時、突如として万力を思わせる躍動を自身の内に感じた。視界は一気に移動し、少女へ向けて走っていたかと思いきや――私は少女を抱えて飛んでいた。遅れて怪物の腕が振り下ろされたのを、背後の爆発音によって知った。私は少女を抱えたまま、怪物の背後へ胴体から着陸した。
「いったぁ……あ、大丈夫っ!?」
「う、うん……」
少女は混乱状態であったが、目立った怪我はなかった。助けることができた。そう安堵しつつ身を起こし、背後に目線を向けた時――私は戦慄した。
怪物はすでに、凄まじい形相と黒腕を私に向けていた。
二度目のスローモーション。私の思考は一挙に働き、白昼夢は眼前へと、差し迫る黒腕の鉤爪を差し置いて現れた……。