淡く澄みきる瞳から
昼下がり浮かぶ白雲に、死んだ形見を思い出す。バラバラ砕けて散りゆく欠片、さまざまパーツはあるけれど、よくよく焼きついているのは秒針刃だった。
どうしてそんなことを思い出したのか、理由ははっきりとしている。
時間と場所だ。
この淡く澄みきる夏空の、幽玄とも憂鬱ともつかない判然としない昼下がりの時間に、全ての始まりとなった路地裏の前で立ち止まっているからだ(休暇の昼間に買い物へ出たことも原因である)。
陽だまりの中にいる私と、雑居ビルの影中に丸まった猫。この一空間に、私の青春を覗くことができる。
ソラ、と声をかけると、目の前で丸まっていた黒猫の首が上がる。のそのそとこちらに近づき、慣れた様子で首をこちらに差し出す。しゃがんで喉をくるくる撫でてやると、ゴロゴロ、と気持ちよさそうに喉を鳴らす。ついでに頭と背中も撫でてやる。さらさらしていて、しかし歳を感じる。はっきりとした年齢はわからないが、すでに高齢猫なのだろう。そのことははっきりとわかる。
そんな風にじゃれていると、突然ソラは私を見つめる。空色した目はくまなく澄み切り、相変わらず華奢で黒々した身体に似合っているなぁと思っていると、ソラは前足と背筋をゆっくり伸ばし、もういいよ、という合図を私にする。そして背を向けいつものように路地裏の影に溶けてゆく。
この時間、この季節、そしてソラと路地裏……あの日を彷彿とさせるものたちが集まる。唯一足りないのは、あの日の私である。白銀色のセミロングだった私(現在はボブカットである)、制服を着て通学鞄を持っていた私、形見の懐中時計を持っていた私、あの時から随分と遠ざかってしまったように思ってしまう。
まあ、本当は数えきれないぐらいの相違点は存在する。漂う雲の形、路地裏に生える雑草、背後を走る自動車の数々、ビルの空室広告、室外機に絡まる蔦の模様……たくさん、ある。しかしここまで、あの日が克明に脳裏へ浮かんだことはあっただろうか?記憶を辿ろうにもよく思い出せない。やはり思い出すのは形見と……約束。
そう、約束だ。私は確かにあの時、約束をした。忘れられない青春の、離れてはならぬ口約束。
私は強く思い出し、路地裏をゆっくりと離れ、帰路へ着く。変わらず空には白雲が、淡く澄みきる昼下がりの空に漂っている。音がようやく帰ってきたようで、横切る自動車の走行音や街に留まる鳥や蝉の鳴き声、カタリカタリと電車の音やうるさいぐらいの生活音のそれぞれが鼓膜に響く。
歩道の響き、ひっそりと下がる眉、やたら鋭敏になった耳、ぼんやりとした輪郭に映る街並み。胸の内からなにやら、耐えがたい蒸気が噴き出してしまいそうだ。夏のせい……いや、違うだろう。
……ならば、少し思い出してみようか。揺蕩う昼下がり、その奇妙で曖昧な、青春として私の中に確立されてしまった時間に。忘れえぬ、私たちの物語を。