05 消失
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話しの流れはそのままに
描写を変更しました。
ゴキッ!
おそらく、他者から能力を奪う時にはいつもそうしてきたのだろう、ハブリシンは目を瞑りながら右手に力を込めた。
こうやって大した抵抗も出来ない相手の首を折る感触が、ハブリシンは堪らなく興奮するのだ。
……だが、自身の右手の感触と、何度も聞き慣れたその音の出どころに違和感を覚えたハブリシンは、瞼を開いた先に見えた光景に、すぐには理解が追いつかないでいた。
「……折れていますねぇ」
女神田中を掴んでいたはずの右手は、手首と肘の中程から何者かの手で掴まれ、その箇所から折れていた。
折れた事によって、だらんとしている腕自体はさほど気にした様子も無く、ハブリシンは目を瞑る前と、開いた後で違う部屋の様子に思考を加速させる。
先程まで居なかった男が急に右側に現れ、自身の右腕を掴んだままこちらを睨みつけていたのだ。
ドサッ!
その横にはハブリシンの腕が折れた事によって、右手の拘束から外れた女神田中が、床に崩れるようにして座りこんで両手で喉を押さえ咳き込みながら、やっとまともに吸えた酸素を必死で取り込んでいた。
掴まれた腕に込められた相手の力が強すぎて千切れそうになっている自身の腕から、右側にいる男にハブリシンは視線を移す。
今にも怒りに身を任せて向かって来そうな表情をしたこの男が、おそらくハブリシンが女神田中の首を折ろうと右手に力を込めるその一瞬の内に現れ、自分の右腕を折ったのだろうと推測する。
同時にその男の顔がハブリシンが記憶している中で、1番面倒臭い相手の顔であった事に内心で溜め息をこぼしてしまう。
その内心を表すような口ぶりでハブリシンはその男に声をかける。
「またアナタですか……」
「それはこっちのセリフだ、姉御に気安く触んじゃねぇよ」
ハブリシンの気怠げな態度に、その男は怒りを込めたその目とは裏腹に、冷静な低い声で返す。
バッ!
「アナタのお知り合いでしたか! なぁんだ先におっしゃっていただけていたら、……もっと楽しんで嬲ってあげましたのに」
その男の努めて冷静にいようとする態度が分かったのか、ハブリシンは掴まれていた腕を振り解き、男から少し距離を取ってから驚いたように声を上げ、後半の言葉を敢えて楽しそうに、愉悦に満ちた笑顔で煽るように口にする。
「クソが……、姉御、大丈夫ッスか?」
ハブリシンのわざと煽る口調にすぐにでも顔面に一発入れたい男はその気持ちを必死に抑え、ハブリシンの動きを警戒しながら、横目でチラリと女神田中に視線を向け声をかける。
「ガハッ、ゲホッ、ヒューハァハァハァ、《テト》、おま、え、ハァハァ、おせぇん、だよ」
「すんません、もっと早く来たかったんですが、なんせ急に姉御から場所も告げずに呼びだされたもんで、《空間転移》するにしても姉御の場所が分からねぇんで、探すのに時間かかっちまいました」
彼女の恨み節に素直に謝りながら、《テト》と呼ばれた男は、ハブリシンに向けた声より少し高い声色で、そっちにも原因があると遠回しに口にする。
「俺が来いっつったら2秒で来るんだよ」
「さすが姉御、久しぶりだってのに暴君ぶりは変わってねぇや」
ギロリと聞こえてきそうな目で女神田中が放った言葉を聞いて、テトは久しぶりに会った知り合いが以前と変わらない事に、今までハブリシンを睨みつけていたその顔に少しだけ優しい笑みを浮かべた。
「感動の再会ですねぇ、涙が出てきそうです」
「邪魔すんじゃねぇよ、ちゃんと相手してやるからそこで突っ立ってろ〝大地の精霊よ、この愚か者に不自由を〟《ディスカムフォート》」
その優しい笑みも、ハブリシンのニタリとした笑みから出たわざとらしい言葉で、一瞬にして睨みつける顔に戻したテトは精霊に語りかけ、対象を拘束させる詠唱を唱えた。
「こんな意味の無い拘束で私を縛れるとでも?」
テトが精霊に語りかけた詠唱によって部屋の床板から蔦が伸び、一瞬でハブリシンを拘束するように全身に絡みつくが、その本人は意味が分からないと言いたげな表情でテトに聞く。
その拘束力はこの世界の魔法使いにとっては上級に位置するような威力なのだが……。
「ちょっとした時間稼ぎだ、流石のチート満載なオマエでもその拘束はすぐには解けねぇだろ、……〝癒しの神パナケアよ、この者らに少しばかりの貴方の愛を〟《エクストラ•ヒール》」
「確かに……、一瞬で、とはいきませんねぇ」
ハブリシンの言葉にテトは、当然だとでも言うように返し、拘束された事でさすがにすぐには動けない彼を横目に、この部屋にいる全員を回復させる。
「(……助かった、のか?)」
「ッバカ! 全員にかけてどうすんだよ!」
テトによる回復でパニック状態になりかけていたミヤビは少しずつ冷静さを取り戻すが、女神田中は焦ったようにテトを責める。
「(敵まで回復させてる!?)」
女神田中の焦ったような言葉に、ミヤビは回復の光がハブリシンにも降り注いでいるのを目にして同じく焦ってしまう。
途中からパニックになりかけながらも視線は女神田中の方を見ていたミヤビは、せっかく不意打ちでテトが折ったハブリシンの腕が回復してしまう事を想像する。
……因みにだが、夫婦2人もテトの回復で気が付いていたのだが、あまりにも理解を超えた状況をすぐ様読み取り、気を失ったフリを続行していた。
「だーいじょうぶっスよ」
「ふむ、確かに光が降り注いだはずですがやはりかかりませんか」
テトの軽い口調に、ハブリシンもまるで知っていたようにそう言うが、女神田中もミヤビも分けが分からずに思考が止まる。
「そらそうだろ、オマエ自分のやってきた事分かってんのか? あれだけこの世界で好き勝手にやってりゃぁ天界の神達にも嫌われるって、神だって人を選ぶんだよバァカ!」
知っていた事を再確認したようなハブリシンの言葉にテトは、先程のお返しとばかりにザマァとでも言うように煽る。
そんなテトを見て女神田中は意味が分からず質問した。
「なんで回復しねぇんだテト?」
「ちょっと前に天界の方で決まったんスよ、特定の対象にだけ神や女神の恩恵が適用されないようにって、好き勝手やってるこのバケモンに少しでも嫌がらせしたくて、ちょっと前に天界に《空間転移》してガチで色んな神達に土下座して頼み込んだっス」
嫌がらせが成功した事に嬉しそうな表情でテトは女神田中にそう返す。
「いやぁ、時間かかったッスよー、500年前ぐらいにこっちの世界へ任務で降りてきてからしばらく天界に行ってなかったんで、知り合いがいる場所とか忘れてて会うのにめっちゃ苦労したんスよー」
凄く苦労した事を姉御と慕う女性に労ってもらいたそうにテトは、先程からは見せなかった人懐っこい笑みで女神田中に報告する。
「なるほど、ここ何年かアナタを見かけなかったのはそのせいでしたか、…まぁ無駄な努力ですが」
そんな苦労したテトを嘲笑うかのように、なにも問題は無いとでも言いたげなハブリシンはそう言って……、
ブチッ!
テトによって千切れかけた右腕を何の感情もこもらない表情で左手で引きちぎりながら言葉を続ける。
「ここ何年か普段使用している回復術が機能しなくなりましてね、可笑しいとは思っていたのですが別に天界の神等に頼らなくても傷は治せるのですよ? このようにね、……〝戻せ、現存する不可逆に異を唱える〟《反転》」
引きちぎった自分の右腕を、まるで何かに捧げるような仕草でハブリシンは詠唱した。
その瞬間、ハブリシンの左手に掴まれた千切れた右腕はどす黒いモヤのようなモノに包まれ、そのモヤがハブリシンの残った右腕に移動すると、千切れた腕が元通りに再生されていく。
「予想通りなそのチートうぜぇわぁ、ほんっとマジでめんどくせぇ奴だなオマエって、オレの土下座返しやがれ!」
「(ガチの化け物じゃねぇか!)」
対峙する相手の異常ぶりに、分かってたと言わんばかりにテトは悔しそうに頭をかきながら叫び返すが、詠唱によって再生されていく右腕を見たミヤビはあまりのハブリシンの異常ぶりに驚愕した。
だが、アニメや漫画では見知ったようなチカラを現実で目の当たりにしてミヤビは先程とは違い、至って冷静な状態で自身のこれからを少し諦めかけていた。
「(完全に詰んでね?)」
ミヤビは、テトによる詠唱でパニック状態から回復してから、何かに抱えて守られるような安心感が湧いてきていた。
ハブリシンが腕を再生させるまでは、女神田中が呼んだテトのおかげでこの窮地を乗り切れるかもと淡い期待を抱いていたのだ。
だが、空想の物語の中でしか見なかった腕が再生すると言う状況に、ある意味悟ったような心境になっていた。
奇跡でも起きなければ、こんな物語の最初にラスボスが現れる様な絶望的状況はひっくり返す事は不可能だと。
「返せ、ですか……、アナタが勝手にやった事です、……まぁご苦労様とだけ言っておきましょうか」
そんなミヤビの心境等は無視されたようにハブリシンとテトの会話は続く。
「まぁこういうのは後々ボディブローの様に効いてくるもんだから、せいぜい今のうちに余裕こいておけ」
拘束されながらも余裕なハブリシンの態度に負けじとテトも言い返す。
「今のうちじゃなく私はずっと余裕なんですよ、ただこれ以上邪魔されたくはないので本来の目的を遂行しましょうか、……〝停まれ、その流れ流るる事能わず〟《停止》」
ピキッ!
ハブリシンがその詠唱をし終えた瞬間に、彼以外の刻が停まる。
その静寂に包まれ停まった世界で、ハブリシンは埃でも掃うかのように再生した右手をパンパンと自身の着ている服に打ち付けると、全身に絡まっていた蔦が簡単に取り除かれていく。
そして蔦による拘束を脱したハブリシンは、自分以外は停止したその空間で、誰に聞かせるでもなく1人呟きながらゆっくりとミヤビに歩み寄っていく。
「最初からこうしておけば良かったですね、ついつい好奇心が勝ってしまって、私もまだまだですね、……アナタが居ない間に編み出した高位の詠唱です、何度も何度も邪魔して来たアナタでも、停まってしまってはそれも叶わないでしょう」
独り言だからなのか少し饒舌に語りながら、テトの横を通り過ぎようとしたハブリシンはまた何かに腕を掴まれ、歩みを止める。
「アナタも十分に私からすれば面倒くさいですよ、……はぁ」
自らの腕を掴んだ相手を確認したハブリシンは、脱力した様子でそう言いながら溜め息をつく。
何故自分の詠唱によって停まったこの空間の中で、この男が動けるなんていう疑問は抱かなかった。
ハブリシンがこれまでに何度も邪魔をされてきた経験から、それぐらいはするだろうと言うある種の信頼めいたものがあったからだ。
「そらどうも、褒め言葉としてもらっとくぜ! ……(さすがに焦ったけどな)」
ニカッと笑みを浮かべたテトは、自分とハブリシン以外は停まった2人きりの空間で、顔には出さないように背中で冷や汗をかきながら、この場所に《空間転移》してくる前に、相手から放たれる空間系の攻撃を一度だけ無効化出来る指輪を、装備していた自分を内心で褒め称えた。
パキッ!
役目を終えたその指輪はそんな音を響かせ壊れていく。
「うぉぉーらぁぁっ! 〝起きよ、始まりの鐘を打ち鳴らせ、夜明けはここに舞い降りる〟《リスタート•ベル》」
それと同時にテトは、掴んでいた手に力を込めたまま思いっきり部屋の入り口の方に振りかぶってハブリシン投げながら強引に距離を取り、この停まった空間を打ち破る詠唱を唱える。
「なるほど……無効化のアイテムに起動の詠唱ですか、相変わらず手を変え品を変え、よく毎回邪魔をしてくれるものです」
まるでテトが何をするかを最初から分かっているかのように、テトに投げられたハブリシンは、入り口の扉に身体が打ち付けられる事もなく、紙が空中に舞うような身軽さでストンッと着地しながら愚痴をこぼす。
「オマエ相手に使えるモンはなんでも使った方がイイってこの500年で嫌と言うほど分からされたからな!」
先程からのテトとハブリシンの会話から、長い間の因縁めいたモノを感じていたが、どうやら相手の思考がある程度読めるくらいには、この2人は相対してきたのだろう。
「(……?)」
「……?」
テトの詠唱によって動き出した空間で、ミヤビと女神田中は瞬きをするよりも短い刹那の間に、テトとハブリシンの居た位置が変わっている事に困惑する。
「「……」」
……夫婦は、目を瞑って気絶したフリをしていたおかげか、何が起こったかよく分かっていなかった。
「テト? 俺の知らない一瞬で何かあったのか?」
「ちょっとだけみんな停まってたッス、余裕で解除したんでもう大丈夫っすけど」
目に映る状況から何かを察した女神田中はテトにそう聞くと、無効化のアイテムが無かったら詰んでいた状況は置いといて、安心させる為にそう報告する。
そして不意打ちやアイテム等でなんとか対応しているこの状況に、テトはもしもの時用にもう一つ用意してきた切り札の事を考えるが、そのカードを切るにはギャンブル性が高過ぎて使うのを躊躇っていた。
★
ここで少し物語の時を止め、読者だけにテトの話をしよう。
そんなの要らないと言う方は黒い星マークがある所までスクロールすれば続きから読んでいただけるので飛ばしてもいいのだが、出来ればテトの話を知って欲しい。
この世界 《メリウス》の全ての種族と比べれば、並ぶ者がいないくらいに圧倒的な強さを持つテトなのだが、今までに《転移》•《転生》で送られてきた人のほぼ全てと言えるチートを持ったこの相手には、苦渋を舐めさせられてきた。
テトが天界からの任務でこの世界に降り立ってきた時は、まだ今よりは善戦していたが、その当時は今回のミヤビの状況とは違い、同時に《転移者》と《転生者》が別々の場所に送り込まれていた。
《空間転移》を使えるからこの任務に選ばれたとは言え、同時に別の場所に出現する2人の保護対象に、1人で対処しなければいけなかったテトは、毎回用意周到に計画を練ってくるハブリシンにしてやられていたのだ。
徐々に力を増していくハブリシンにテトは天界に対して、しばらく人を送るなと抗議したが、何故かその意見は未だに通らないでいる、仕方ないので送る時期だけはズラして欲しいとお願いしてからはなんとか防げているのだが、それも受理されて実行されたのは、ここ10年ぐらいの話で、……色々と手遅れであった。
増援すら無しでワンオペで戦ってきたテトは、地球のブラック企業も真っ青な職場環境でなんとかハブリシンに対抗していた。
★
そんなテトだが、ふと思い出した事があったのでその確認の為に、ハブリシンが何をしてきても対応出来るように警戒しつつ、女神田中に質問する。
「姉御ちょっと聞きたいんだけど、精霊女王さんと神のロキってさ、まだ仲悪い?」
「急になんだ? ……確かにあの《豪滅の精霊女王》と《神ロキ》はよく喧嘩してるが今そんな事言ってる場合じゃねぇだろ」
「いや、それが今大事なんだって」
急にこの状況に関係無い、古い友である精霊女王と、小学生男子が、好きな女の子にちょっかいを出すような悪戯をして、その女王とよく喧嘩している神ロキの事を聞かれ、女神田中は困惑する。
その女神田中の言葉に、テトは用意していた切り札を使用する決意を固める。
「……お話は終わりましたか? また何か企んでるようですが、こちらも早く目的を達成して帰りたいんでね、……少し本気でいきますよ!!」
「〝いたずら好きな精霊よ、君達のロキはここに居る〟《コンフューズ•ルーム》」
「な!?」
「ちょーっと遅かったなハブリシン」
テトと女神田中の会話から何か企んでると察したハブリシンは、お遊びはここまでと言わんばかりに身体にチカラを込めてミヤビに向けて飛び掛かろうとするが、その寸前で聞こえたテトの詠唱に足を止め、それを見たテトは勝ち誇るような笑みでハブリシンにそう言う。
「? ……お、おま、おまえ今の詠唱って、それがどういう事象を引き起こすか分かってんのか!?」
詠唱を聞いた女神田中が慌てたようにテトを責めるが、責められた当の本人はこれから起こる現象に全身にダラダラと冷や汗を流しながら、無理矢理な笑顔で女神田中に笑いかける。
「だ、大丈夫ッスよ、……たぶん」
「流石にこれは想定の範疇を超えてますね、……たかが《転生者》1人の為にまさかここまでの事をするとは、前から思っていましたがアナタ意外と馬鹿ですよね」
「バカだろうがアホだろうが、俺様は任務を達成出来ればそれでいいんだよ!」
やってしまった感が満載の引き攣った笑顔で女神田中に大丈夫と言うテトを見て、ハブリシンは心底馬鹿にした様にテトに言葉を吐くが、言われた本人は開き直った顔で叫び返す。
ガタッ!
ガタガタガタ!
テトが詠唱をした後、周囲の全てのモノがざわめき出す。
ポルターガイストのような現象に近い状況を見てハブリシンはこの場を離れようと動き出す。
先程からほぼ詰みを確信して諦めモードのミヤビは、転生初日から人外バトルを繰り広げられているこの状況に、現実逃避していた。
「(うわぁ、何これ? すっげぇな)」
女神田中の慌てぶりから、究極魔法みたいな呪文唱えたのかな? と、あまりにも現実離れした目の前の光景にミヤビは語彙力を消失しかけていた。
それはミヤビのこの世界の両親である夫婦もだった、……親子3人の気持ちを代弁するならば、もうどうにでもなれ! である。
「テトお前! 全員殺すつもりか! どうすんだよこの状況!?」
テトが唱えた詠唱の恐ろしさを理解している女神田中は狼狽えながらテトの両肩に手をかけ、目一杯揺すりながら抗議する。
ボソッ
「いや、ちゃんと勝算はあるっスから」
そんな女神田中にだけに聴こえるようにテトは小さな声で呟く。
「さぁ姉御! 全力で結界張って下さい! 後はなんとかなります……50%ぐらいで」
「もうどうなっても知らねぇからな!!」
自信満々に二分の一の確率を提示するテトに、女神田中は叫びながら言われた通りに結界を張る。
「コレは少々どころかかなり厄介ですねぇ」
「ハハ! ちょっとビビってんじゃないの? 化け物相手にこっちも手段は選んでられないからなぁ! ……まぁ後は運次第ってとこだな」
「アナタのその馬鹿さ加減にはビビりますよ、……はぁ、今回は引かせていただくとしましょう」
テトの煽ってくるその言葉に、そう言ってハブリシンは黒いモヤに包まれ一瞬で姿を消す。
そのすぐ後に、周囲がさらにざわめき出す、誰も触れていないはずの食器や家具がひとりでに飛び交い、色彩豊かな様々な光が、今の今までハブリシンが居た場所を中心とするように次々円形に集まり出す。
視える人が見ればその光の一粒一粒が精霊である事が分かるだろう。
テトの詠唱によって周囲から集まった精霊の光の渦はやがてどんどんと大きくなり、徐々に上空に向かって上がっていき、その影響でミヤビ達が居た家の屋根を吹き飛ばした。
「いやぁ、すっげぇ光景ッスねぇ」
「言ってる場合か! この状況のどこに勝算があるんだよ!?」
「まぁ見てれば分かるッスよ」
敵対する相手が目の前から消えた事で、少し余裕が出てきたテトは、目の前に広がる初めて見る光景に感嘆の声を上げるが、女神田中はそれどころでは無かった。
そんな必死な彼女を横目に余裕の表情を崩さないテトはそう言って、すっかり見通しが良くなった家の天井、屋根が吹き飛んで綺麗に見えるようになった空を見上げていた。
「? アレは! そういう事か!」
「そうッス、後は頼んだッスよ姉御!」
テトにつられて空を見た女神田中は、轟々と徐々に、だが確実に上空で大きくなっていくその渦の中にあるモノを見つけ、テトの余裕の原因に行き当たる。
「もしかして最初から分かってやったのかテト?」
「んなわけないじゃないッスか、……ガチで一か八かでした」
そのあるモノを見ながら女神田中はテトに聞くが、返ってきた言葉はゾッとする一言だった。
「結果オーライで済まして良い話じゃねぇからな!? 後で覚えてろよ!」
「こ、小言は後でいくらでも聞くんで、今はなんとかしてください! 精霊がおそらくもう周りの空間を歪める程集まって来てるッス! もう限界のパンパンッスよ!」
本気で命懸けのギャンブルを仕掛けたテトに女神田中は文句を言うが、周囲の状況が限界に近い事をテトが知らせた事で、彼女は結界の維持を手放した。
どんどんと轟音を響かせながら際限なく大きくなる渦によって巻き起こる風に自身の綺麗な淡い金色の髪が激しく揺れるのも気にした様子もなく、凛と佇む彼女が女神のチカラを行使する。
【死と再生の神 《ベルセポネ》の系譜に連なる1柱《レブルナ•田中•アブルグ》】が命ずる、彼の門を開き愛しき我が子達を通し賜え《スピリット•ゲート》
キュイイィーン!
スッ……。
まるで高速で回転する歯医者の道具の様に甲高い音が響いた瞬間、《エルブの森》の中心から半径10km程の規模で、森がドーナツの真ん中の円のように静かに消失した。
それは
テトの唱えた詠唱による精霊のせいなのか
はたまた
女神田中が唱えた詠唱によるせいなのか
どちらの影響か分からないまま、
《エルブの森》の中心は、
《メリウス》に住む、ミヤビ達を除いた全ての種族に気づかれる事なく消え失せた。
それは数十年経った、後の世で《エルブの森消失事件》として当時の考古学者を悩ませたのだが、それはまた別のお話。
「何か企んでると思って見ていましたが、まさかこれほどとは、仕方ありません……次の《転移者》が来るまでのんびり待ちますか」
その場を離脱した様に見せて、あわよくば隙をついてミヤビを奪うつもりだったハブリシンは、誰に聞かせる事もなく、そう1人で呟きながら何処かへ消えていく。
やっと序盤の危機が去った……。