第一章:召喚と適応 — 失敗作と呼ばれた存在 6
第九節 戦争の現実を知る
部屋の窓を開け放つと、乾いた風が頬を撫でていった。外の空はどこか赤味を帯び、淡く揺らめく結界が遠目に見える。ここは魔族の城――私は、異世界から召喚された“失敗作”と呼ばれながらも、何とか身体を馴染ませつつある。
数日前には外での訓練でボロボロになったが、今はなんとか階段を上り下りできるくらいには回復した。けれど、まだまだ魔力適応は完璧じゃないし、戦闘力もお世辞にも高いとは言えない。
そんな私のもとに、“魔族の戦線がどうなっているか”を教えてくれる知らせが来るとは思っていなかった。今日、エルザが部屋にやってきて開口一番、「ちょっと来い」と言ったのだ。最初はまた訓練かと構えていたが、彼女の表情は訓練のとき以上に硬かった。
「どうしたの? また訓練場に行くの?」
私が尋ねると、エルザは首を振る。
「違う。……前線からの報告が入り、王(魔族長)がお前も一緒に話を聞くべきだと言っている。お前は“召喚された者”として一応扱われているからな。」
“扱われている”。その言葉だけで、私がまだ本格的に仲間と見なされていないことを痛感する。けれど、少なくとも魔族長――あの城を支配しているトップが、私を完全に排除する気はないらしい。
私は心臓が高鳴るのを感じながら、エルザの後をついて城内を歩いた。向かう先は、前に行った「研究区域」ではなく、城の中でもさらに警護が厳しい一角だ。そこにある大きな扉をくぐると、広い部屋が広がっていた。壁には魔族の紋章が幾重にも刻まれ、中央に大きな円卓が設置されている。ここが“戦略会議室”なのだろう。
円卓にはすでに何人もの魔族が座っている。どの顔も険しく、ある者は重厚な鎧をまとい、ある者は長い外套を羽織っている。中には私より年若そうに見える魔族もいるが、その瞳には強い意志が宿っているようだ。
彼らの視線が一斉に私へ向けられ、私は思わず身を硬くする。正面の奥には、“王”と呼ばれる人物が堂々と椅子に座っていた。角は長く、威圧感のある体格をしているが、歳はそこまで高くはないようにも見える。その瞳だけが白金色に光り、静かな闘志を示していた。
エルザが軽く頭を下げると、王はうなずき、私に視線を移した。
「そいつが……召喚体、シオンか。」
深く響く声に、私はぎこちなく頭を下げる。ここでの礼儀作法なんてわからないが、少なくとも失礼のないようにと気をつけるしかない。
「はい、シオンです。……よろしくお願いします。」
緊張で声が上ずる。王は私を見据えて数秒黙ったが、やがて興味を失ったかのように視線を外し、円卓に広げられた地図へ意識を戻す。
その地図は、前にガルザの研究室で見た全体図と似ているが、より細かい地形や部隊配置が記入されているようだ。そこには魔族の拠点や人間軍の侵攻ルートらしき矢印が複雑に描かれていた。
「では、続きを。前線からの報告では、人間軍がここ数日で動きを活発化させていると。」
王が呟くと、一人の魔族――鎧を着た将軍風の男が地図上の一点を指さす。
「はい、ここの辺境拠点に人間軍が集結し始めています。すでに数百規模とのことで、しかも“勇者の加護”を受けている精鋭部隊だとか……。我々の斥候がかなりの被害を被りました。」
勇者の加護……それは私が直接見たことはないが、エルザから聞いた話では絶大な力だという。人間の兵士が、勇者の力で強化され、魔族を圧倒するのだとか。つまり、魔族にとっては最悪の脅威だ。
別の魔族が険しい声をあげる。
「数百規模……それだけいれば、我々の辺境支部は持たない可能性が高い。増援を送るにも兵が足りぬ。神の祝福を受けた兵たちに対抗するには、こちらも精鋭が必要だ。」
しかしその“精鋭”自体がそう多くない。長きにわたる戦争で魔族の主戦力は失われ続け、今ではいくつかの城や要塞に分かれて必死に抵抗している状態らしい。
私はその会話を半分呆然と聞くだけだった。“神の祝福”とか、“勇者の加護”とか、まるでゲームやファンタジーの設定だと感じる。けれど、ここでは紛れもない現実……魔族が追い詰められ、人間が勢力を拡大しているという事実だ。
「奴らが攻めてくるのは時間の問題だろう。勇者自身が動くかどうかは分からないが、あまり悠長にもしていられん。」
王が静かに言い放つ。部屋に緊迫した空気が流れ、誰もが口を噤んだ。
そのとき、私が思わず一歩前に出てしまったのは、何か言わなくてはならないと感じたからだ。だが、何を言えばいいのかも分からない。困惑しているうちに、王が私の存在を思い出したように顔を上げる。
「……シオンとやら、お前は人間の世界から来たそうだな。だが、神には属していないと聞いている。……この戦争をどう思う?」
いきなり振られた私は、唇を震わせる。皆の視線が集まる。魔族たちの中には、明らかに“余計なことを言うな”と牽制するような者もいれば、興味深そうな視線の者もいる。とにかく全員が私を注視している。
言葉が出ないまま数秒が過ぎる。心臓が跳ね上がるほど緊張するが、何とか口を開いた。
「えっと……私も、つい最近まで普通の暮らしをしていて、ここの世界が戦争中だとは思わなかったので……驚いてます。人間……神の軍が、そんなにも……」
「普通の暮らし、か。神に縛られない世界が本当にあるのかは知らんが、少なくともここはそうじゃない。」
王の言葉が重く響く。私は痛感する。ここの魔族にとって、“戦争をしていない生活”など夢物語のようなものなのかもしれない。
しかし、私が言えることは何もない。自分が召喚された理由だって分からないし、勇者に対抗する力を持っているかも分からない。ただ、“人間に似た存在”として魔族の中にいるだけ。あまりに無力だ。
そのとき、一人の古参魔族が声を上げる。
「だが、王。この娘が何か役に立つという保証はあるのか? 話によれば、戦士の素質も乏しいとか……」
私が思わず息を呑む。そうだ、確かにエルザにも“戦士向きじゃない”と言われたし、周囲にも“失敗作”と囁かれている。厳しい現実だ。
「いや、まだ分からん。だが、彼女の“異質な魔力”が神の干渉を狂わせる可能性は十分にある。ガルザもそう判断しているし、私もそれに賭けてみたい。」
王が短く答える。その言葉には不確かな期待が滲む。私は“異質な魔力”なんて言われてもピンと来ない。けれど、そのおかげで彼らは私をすぐに排除する気はないらしい。
会議は続く。私は隅で黙って立ち尽くすしかない。人間の軍勢がどう配置されているとか、どの要塞が落ちそうになっているとか、悲惨な報告が容赦なく飛び交う。魔族が長年築いてきた拠点が次々と陥落した話、勇者がわずか数人の精鋭を率いて大群を撃破した話……どれもが私にはまるで物語のようだが、魔族たちにとっては切実な現実なのだ。
「――このままでは北の防衛線が崩壊する可能性が高い。我々としては部隊を回したいが、ここが手薄になるリスクも大きい。」
「人間軍の狙いが南か北か定かでない以上、どちらにも大軍は送れない。勇者が動けば、それだけで魔族の大将が必要だ。」
次々と出る悲観的な意見に、王は厳しい表情で指示を出す。少しでも犠牲を減らし、かつ守るべきラインは死守する方針らしいが、それが実現できるのか誰も確信がないように見える。部屋の空気が重苦しい沈黙をはらんでいた。
結局、会議は一時間ほどで切り上げられ、それぞれが持ち場へ戻っていく。王も立ち上がり、私に一瞬だけ視線をくれた。
「お前の力がどうこう言うより、今はまだ状況を知るだけでいい。だが、お前がもし“勇者に対抗できる力”を持つなら、一日も早く覚醒させてくれ。こちらも悠長にはしていられんのだ。」
そう言い放ち、王は部屋を出て行く。取り残された私はやるせない気持ちに駆られる。こうして戦況を聞いただけでも、神や勇者の存在がどれほど絶対的で、そして恐れられているかを理解するには十分だった。人間軍は神の名のもとに魔族を駆逐し、この大陸をほぼ掌握している。魔族はほんの一部の地域を死守しながら、なんとか生き延びている。それがこの世界のリアル。
(……私も、その一人として数えられているんだ。)
召喚された存在として、魔族たちに期待されている。でも私自身、なぜ戦わなければならないのか見えていない。彼らが危機にあることは理解できるが、“人間と勇者”が本当に悪いのか、まだ判断できない部分もある。
私がいた世界の“人間”とは、ここの人間とは違う存在なのかもしれないが、同じ種族と思うと複雑だ。神の支配を受けているのは人間全体なのか、一部なのかも分からない。
会議室を後にし、私は廊下を一人で歩いていた。途中でミアやエルザの姿は見えない。皆、忙しく動き回っているのだろう。重苦しい報告があった以上、各自やるべきことが山積みだ。
(戦争……本当に、こんなに厳しい状況なの?)
頭が混乱している。足元を見つめながら歩いていると、誰かと衝突しそうになった。
「あ……ごめんなさい!」
顔を上げると、中年の魔族が書類の束を抱えており、こちらを睨むような視線を送ってくる。私に驚いた様子で一瞬身構えたが、すぐに舌打ちして先を急いでいった。私も謝ったものの、それどころではないらしい。城内がやや慌ただしく、人の行き来が増えている。戦線の報告を受けて、何か大きな動きがあるのだろう。
「……どうしよう、私、何もできないまま……」
自分の存在理由が見つからない。もし本当に“対勇者”の切り札になるなら、今の私は弱すぎるし、時間がかかりすぎる。魔法の基礎はまだ習得中で、戦士としても全然素質がない。
そんな気持ちが渦巻く中、とりあえず部屋に戻ろうと思い、階段を上りかけたときだった。
「シオンさん!」
呼び止める声。振り返ると、ミアが駆け寄ってきた。息を切らせているところを見ると、急いで私を探していたのだろうか。彼女は私の手を取り、安堵したように微笑んだ。
「ミア……? どうしたの?」
「よかった、すぐに捕まって。……会議を覗いていたんですね? おつかれさまです。きっと驚かれたでしょう、戦争の話。」
その笑顔は優しいが、裏には緊迫した空気を感じる。ミアもこの状況に内心焦っているのかもしれない。私は視線を落とす。
「うん……正直、思ったより酷いんだね。人間軍がこんなに攻めてきてて……」
ミアは申し訳なさそうに目を伏せる。
「はい。私たちは長い間ずっと戦争状態で……神や勇者から逃げたり、時には抵抗したり。それでも少しずつ領土が奪われて……。今回の報告で、また大きな動きがありそうなんです。」
そうだ、これは他人事ではなく、私も巻き込まれている現実だ。召喚された以上、城に住まう立場である以上、敵が攻めてきたら戦わざるを得ないかもしれない。だけど、私には「戦う理由」がまだ見当たらない。単に“魔族だから助ける”というだけでは納得できない自分もいるのだ。
「ミア……私、どうして戦わなきゃいけないのかな……?」
呟いた瞬間、ミアは寂しげな表情を浮かべた。彼女は私の気持ちを察したのか、廊下の端に誘導し、静かに語り始める。
「……正直に言って、私も確かな答えはありません。私たちは魔族で、神に従う人間とは敵対しています。でも、もしシオンさんが“元は人間の立場”だと思うと、辛いですよね。」
私は頷く。元はと言うか、実際に人間の世界で生きてきた身だし、異世界に来るまで戦争とは無縁だった。だから、いきなり“人間を倒せ”と言われても、気持ちが追いつかない。
「私がもし、勇者と戦って勝ったとして……その先に何があるんだろう。魔族が救われるのはいいけど、人間はどうなるの?」
その問いを聞いて、ミアは小さく息を吐く。彼女も考え込んでいるのだろう。やがて、穏やかながらもはっきりとした口調で答えた。
「私も全ての人間が悪だとは思っていません。でも、神の支配に盲信した人間は、私たちを憎んで攻めてきますし、勇者はその象徴……。倒さなければ、魔族は生き延びることすらできない状況です。世界が変わるためには、神の力が弱まらないといけない……と思うんです。」
世界が変わる――それは魔族にとって“神の支配を外す”ことを意味するが、人間にとってはどうなのか。私にはまだわからない。だが、ミアの瞳には確固たる決意が宿っていた。
「私、神がいなくなれば、人間と魔族が手を取り合う未来があるって信じてるんです。きっと、シオンさんみたいに優しい人間(もしくは人間に近い存在)が現れてくれるから……」
その言葉に、心が少し揺れる。信じたいけれど、本当にそんな未来があるのか確かめる術はない。ただ、少なくとも目の前の戦争を止めるには、勇者と神の支配構造を崩さなければならない……というのが魔族たちの考えなのだろう。
「私は……まだ覚悟ができてない。人間を倒すとか、勇者を倒すとか、想像もつかない。でも、今のままじゃ……魔族は滅びるかもしれないんだよね。」
「はい。だからこそ、王やエルザさんは、シオンさんに期待しているんです。“異質な魔力”が神の干渉を断ち切るかもしれないって。」
ミアの声には微かな希望が感じられる。私はそれを重く受け止める。私の存在が彼女たちにとっての救いになり得るかもしれない――でも、そのためには“戦う”ことが前提だ。
その後、ミアに連れられて王の執務室に行き、人間軍の侵攻状況を示す地図を改めて見せられた。あの会議室にあった大きな地図の簡易版らしく、ここにはさらに詳しいメモが付箋のように貼られている。
「ここから南下してくるのが精鋭部隊、ここにいるのが一般兵……勇者が直接指揮しているかどうかは不明ですが、少なくとも“神の加護”を受けた者たちが中心にいるはずです。」
私は地図を凝視する。魔族の城がある地点を中心に、矢印が何本も迫っている。その先に点在する拠点や砦は、すでにいくつも落とされているようだ。外にいた魔族兵がどれほど苦しんでいるのか――想像するだけで背筋が寒い。
自分には関係のない戦いだと思えたら楽かもしれない。でも、この城で生きる以上、逃げられない運命だ。少なくとも私を殺そうとする相手がいるなら、対処しなければならない。
「……神の祝福がどういうものかは、私も詳しくは知らないんですけど、要は“絶対に人間が疑わないようにされている”みたいなんです。神への忠誠を疑問に思うことすらなく、勇者に従っているとか。」
疑問に思うことすらない――洗脳のようなものだろうか。私は思わず震えが走る。もしそうなら、話し合いで和解するのは極めて難しい。私の中には“人間同士、分かり合える可能性がある”という淡い希望が残っていたが、その前提が崩れかける。
「今の状況を見て、シオンさんはどう感じますか……? まだ“戦い”に抵抗がありますか?」
不意にミアが尋ねた。私は言葉に詰まる。彼女としては、私が「戦う」と決意するのを期待しているのかもしれない。だけど、正直なところまだ踏み切れないのが本音だ。
「抵抗……ないわけじゃないけど、でも、このまま黙っていれば魔族が滅びるのも事実なんだよね。……私にできることはまだ少ないけど、放っておくのは嫌だ。」
口にしながら、胸が痛む。結局、私は明確な“戦う理由”を見出せていない。ただ、ここで出会ったミアやエルザたちが危機に陥るのを眺めているだけなんて嫌だ。それが私の心の支えかもしれない。
「だったら、少しずつでいいんです。無理に“戦おう”って決め込むより、まずは“助けたい人がいるから動く”という形でも。シオンさんがここにいてくれるだけで、きっとみんな心強いと思いますよ。」
ミアの励ましに、少しだけ救われる。そうだ、完璧な理由がなくても、今はそれでいいのかもしれない。私はうなずき、地図を見つめながら心の中で誓った。“いつか私がこの状況を変えられる力を身につけたら、彼らのために戦う”――と。
数時間後。自室に戻った私は、ベッドに腰掛けて静かにため息をつく。今日は“戦争の現実”を嫌というほど思い知らされた。人間軍の圧倒的な数と神の加護、そして勇者の存在。魔族がどれほど苦しい立場にあるかも理解した。そうして思うのは、“私に何ができるんだろう”という終わりなき問いだ。
エルザに徹底的に叩きのめされたあの訓練を思い出せば、今の私に大きな貢献は無理だとわかる。ましてや勇者に挑むなんて論外だろう。でも、訓練しないまま時が過ぎれば、魔族はさらに追い詰められるに違いない。時間が欲しいが、敵は待ってくれない。
(……どうして私が召喚されたんだろう。勇者と戦うため? それとも、ただの偶然?)
神に支配された人間を解放する道があるのか、そこはまだ不明だ。ただ、私が異世界の者だからこそ、神の呪縛を受けないという仮説があるとすれば、もしかすると……と思う気持ちもゼロではない。
窓の外を見やる。結界の向こうには赤みの強い空が広がり、魔族の街が見下ろせる。そこには人々が暮らしている。子供たちが走り回り、大人たちが店を営み、畑で作物を育てている。彼らが普通に平和を望んでいるなら、助けたい気持ちはある。
「でも、私にはまだ“戦う理由”がないんだ。」
呟いて、その言葉にわずかな悲しみが宿る。人間側に知り合いがいるわけでもないし、勇者と怨恨があるわけでもない。ならばなぜ私はここで“神の敵”になるのか? ただ召喚されたから……それだけで覚悟を決められるほど強くはない。
思い悩むうちに、ドアがノックされた。
「シオンさん、起きていますか?」
ミアの声だ。「どうぞ」と返すと、彼女がそっと扉を開け、控えめに中へ入ってくる。手には何やら書簡のようなものを持っている。
「ちょっと資料を持ってきたんです。……もしよければ、神や勇者に関する過去の記録とか、戦争の背景についての書かれたものを、読んでみませんか?」
差し出されたそれは、何枚かの紙や古い巻物が束ねられたものだった。表紙には魔族の文字が踊り、部分的に人間の文字……らしき記号も混ざっているように見える。ミアが言うには、この国(魔族の王国)で独自に翻訳した歴史文書の抜粋らしい。
私は戸惑いながらも資料を受け取る。読むのには時間がかかりそうだが、神と人間の対立の根源を知る手がかりかもしれない。
「ありがとうございます。……やっぱり、“どうして戦っているか”を知るべき、かな。」
ミアは頷く。
「はい。今のシオンさんには、知るという行為が大事だと思います。無理に戦おうとしなくても、まずは状況を理解し、“自分がなぜここにいるのか”を見つめ直してほしいですから。」
やはり彼女は優しい。私の立場を理解し、無理に戦いの最前線に駆り出そうとはしない。けれど、資料を読み、歴史を理解した結果、私はどう動くのだろう。勇者に挑む覚悟を持つのか、あるいは逃げ出すのか――自分でもわからない。
心の中が混乱している状態で、ミアは小さく微笑み、私の肩に手を置く。
「それでも、シオンさんがここにいてくれるだけで、私たちは少し心強いんですよ。……いつか、お互いに納得のいく形で一緒に戦ってくれたら、嬉しいです。」
「……うん、ありがとう。」
その言葉が妙に胸に沁みた。彼女たちは決して私を無理やり戦場に引きずり出すのではなく、“一緒に戦ってくれる日が来る”ことを望んでいるのだ。
私は資料の束を抱きしめるようにして深呼吸した。これを読めば、神と人間軍がどんなことをしてきたのか、ある程度理解できるはずだ。そして、もしかすると私が何をすべきか見えてくるかもしれない。
その夜、私は寝台に腰掛けたまま、資料を読み耽る。古い紙に記された文字は魔族語と人間語が入り混じり、翻訳メモが書き込まれているため、解読に時間がかかる。でも、ミアの協力もあり何とか内容を把握できる部分が多かった。
――神が人間を祝福し、勇者を生み出したのは何十年も前から だと言う。
――最初は人間と魔族の間にも一定の交流があったが、“神の教義”が広まるにつれ、魔族は異端とされ、排除されるようになった。
――勇者は複数存在し、時代ごとに神が力を与えている。今は“エリシア”という名の少女が最強の勇者らしい。
――魔族が必死に抵抗しても、神の力は絶大。多くの拠点が陥落し、今では数か所の城と要塞を維持するのみとなった。
思わず息が詰まる。これはまさに“じわじわと侵略される”世界の歴史そのもの。しかも、人間側が神に従っている以上、和解の道はほぼ閉ざされている。
私にはまだ信じがたいが、資料には多くの痛ましい記録が載っていた。“魔族を一掃する”という名目で焼き払われた街や、神に逆らう人間すら処分された例もあるらしい。そこには“人間vs魔族”だけでなく、“神に従わない人間は敵”という残酷な構図が確立されていた。
「こんなの、まるで……一方的な支配じゃない……」
呟きながら、薄暗い灯火に照らされる資料をめくる。複数の魔族学者がまとめた文章の一節に目が止まった。
“――異世界からの召喚体は、神が掌握していない魂を持ち、世界の法則に囚われない可能性がある。
もしそうならば、勇者との対抗手段になるかもしれない。
しかし、召喚自体が不完全だと定着率が低く、失敗すればただの犠牲となる。
それでも、我々に選択肢はない――。”
胸がズキリと疼く。つまり私もその“選択肢”のひとつとして呼ばれたわけだ。魔族が背水の陣で挑んだ禁忌の召喚、その結果としてここにいる。大変な期待をかけられているし、もしそれに応えられなければ、ただの犠牲に終わるかもしれない……。
(それでも、彼らにとってはやるしかなかったんだ……。神と人間がこんなにも圧倒的なら、藁にもすがる思いで……)
ペンでメモを取りながら読み進める。ふと、エリシアという名の勇者に関する小さな記述を見つける。
“現在の勇者『エリシア』は、神の意思に最も忠実と噂される。
まだ若い少女だが、その力は歴代でも屈指。
神の祝福に加え、『カルヴァリオン』を自在に操り、魔族の軍勢をいとも簡単に殲滅する。”
カルヴァリオン……神の力、とでも言えばいいのだろうか。エーテスと相反する“汚染のエネルギー”という説明が前にあった。私がもし神に立ち向かうなら、それを打ち消す力が必要になる。でも、今の私には攻撃手段すらない。防御力が高いかもしれないが、それでエリシアに勝てるわけでもない。
(エリシア……彼女は神に洗脳されてるのかな。それとも自分の意志で魔族を滅ぼそうとしているのかな……)
考えても答えは出ない。資料を読み終える頃には夜更け近くなっていた。魔族城の独特の“夜”が静かに訪れ、部屋の灯火を落とすと一気に暗闇が押し寄せる。
布団に潜り込むが、頭の中はぐちゃぐちゃだ。人間として、この世界の人間軍を敵に回すのか? 神を倒すなんて現実離れしている。でも、魔族が苦しむ姿は見ていられない。
「……戦争の現実、か。」
今日はその一端を知っただけで、もう気が塞いでしまう。人間が神に従って魔族を攻め続けている。勇者の力は絶大で、正面から挑めば命を奪われるだけだ……。こんな世界に来てしまったのは運命なのか、それともたまたまなのか――どちらにせよ、私には逃げ道がない。
(もし私が神に従ってしまえば、魔族を裏切ることになる。でも、人間と魔族が共存できる道があるかはわからない。)
うつ伏せに寝転びながら、まぶたを閉じる。胸の奥には漠然とした不安と、ほんの少しの決意が入り混じっていた。私はまだ明確な“戦う理由”を持てないが、少なくとも魔族のために何か力になりたい気持ちは芽生えている――それだけで十分かはわからないけれど。
――戦争の現実を知った今、“勇者が来る前に”私がどこまで成長できるかが鍵となるのだろう。
そんな思いを抱きながら、私は重い瞼を閉じ、暗闇の中へと沈んでいった。この世界の運命が私に委ねられているかもしれないという苦い予感を胸に……。