第一章:召喚と適応 — 失敗作と呼ばれた存在 4
第四節 魔族の民との交流と隔たり
部屋を出た瞬間、いつもより暖かい空気が頬を撫でた。城内での生活に慣れ始めたといっても、実のところ、まだ私はこの世界で何が普通で何が異常なのか、よく分かっていない。廊下を歩いているとエルザが先導する形で、後ろからミアが「行ってらっしゃいませ」と笑顔を送ってくれた。
「初めての外出になるな。ついて来い、迷わないように。」
エルザは相変わらず素っ気ない口調だが、私が魔族の街へ出ることを許されたのは、ひとえに彼女の取りなしによるものだとミアから聞かされている。少なくとも、エルザ自身は“私に見込みがあるかどうかを確かめたい”らしい。
廊下を抜け、城の正面玄関へ。城……といっても、私がイメージしていた煌びやかな宮殿とは違い、どこか無骨な造りだ。赤黒い石材で組まれた壁面には魔力の走路がくっきりと刻まれ、そこを流れる微かな光が、全体を包み込むかのようにうねっている。魔族の技術だろうか、これが城の防衛や結界に関わっているのだとミアは言っていた。
巨大な扉を開けると、外の風が一気に流れ込んできた。以前にも中庭へ出たことはあったが、城の正面口から出るのは初めてだ。身体を前に乗り出すと――
「……これが、魔族の街……?」
思わず息を呑んだ。城の正面口は少し高い位置にあり、そこから石段を降りて行くと、広場が広がっている。そこから先は、大小さまざまな建物が密集する街並みが見える。人間の世界とは違い、色合いがやや暗く、建材も黒や濃灰の石をメインに使っているようだ。屋根には獣の骨っぽい装飾が施されていたり、壁の一部が魔力の紋様で補強されていたり、ひと目で“普通の街”じゃないと分かる。
「どうした、口を開けたままだぞ。」
エルザがにやりと口元を歪める。私は慌てて唇を閉じた。そこまで呆けた顔をしていたのかもしれない。
「いや……すごいね。思ったよりも……なんていうか、街、なんだな……」
「当たり前だろう。私たちとて、神話の怪物とは違うのだ。生活を営んでいる。」
そりゃそうか、と頷きつつも、この世界では“魔族”というのは人間からすれば怪物扱いらしく、私も先入観で“ダンジョン的な空間に住んでいる”イメージを抱いていた。けれど、こうして見ると街並みがちゃんと形を成している。露店らしきものもあるし、何やら荷車を押して歩く魔族の姿も見える。思ったより“日常”しているのだ、と妙に感心してしまった。
階段を下りると、すぐに広場がある。中央には噴水のような構造物が設置され、黒い石造りの獣の口から水が流れ落ちていた。そこかしこに魔族たちが行き交い、時折、角や尻尾を持つ姿が見える。“明らかに人間じゃない”見た目の者も多数いるが、みんな普通に言葉を交わしながら商取引をしたり、子供を連れて散歩したりしている。私はその光景にまるで観光客のように目を奪われた。
「おい、立ち止まるな。邪魔になる。」
エルザが横を通り抜ける魔族にぶつからないよう、私の腕を軽く引っ張った。どこか気まずそうな彼らの顔が、一瞬私に向けられる。視線には警戒心や不審が混じっていたが、特に何かを言われることはなく、そのまま通り過ぎていった。
「もしかして……私、浮いてるかな……」
周囲を見回すと、やっぱり人間に近い私の姿は特異なのだろうか。肌の色も角も尻尾もないし、髪も無難に黒寄り。魔族には見えないはずだ。ミアのように人間の形にかなり近い魔族もいれば、エルザもほぼ人間と変わらない容姿だが、それでも角や獣耳など、どこかしら特徴がある。
「ああ、当然だ。お前の姿はほとんど人間だからな。魔族にとって、人間は敵……それも神に従う輩が多い以上、“人間みたいな見た目”はどうしたって疑われる。ましてお前は城で保護されているらしいからな。」
まるで自業自得だとでも言わんばかりに、エルザは口を尖らせる。
「でも、一応、城が許可しているから攻撃されることはない。むしろ好奇心を向ける奴もいるだろうさ。」
好奇心――その言葉を理解する間もなく、小さな子供の声が聞こえた。
「ねえ、あの人……耳がない! 角もないね?」
くるぶしほどの短い尻尾がある魔族の男の子が、母親らしき女性の腰からひょいと顔を出して私を指差している。彼の目は好奇心に輝いていて、恐れの色はあまりない。母親のほうは慌てたように男の子の口をふさぎ、「失礼だよ!」と諫めるが、私をちらりと見ると、すぐに目を伏せる。「すみません」と一言おぼつかない声を残して逃げるように去っていった。
なんとも言えない気まずさと、少しの切なさが胸を突く。「失礼」というほどのことはされていないと思うが、この世界では“角や尻尾がない姿”が不思議なのだろうか。
そんな私の複雑な心境を見透かすように、エルザは「ほら、行くぞ」と先を促した。広場の中央を横切り、奥へ続く石畳の道に踏み込む。両脇には店舗のような建物が並んでいて、果物らしきものや奇妙な肉の塊を売る露店が見える。生臭い匂いと、ハーブのような匂いが混ざり合って、どこか異世界の異国情緒を感じさせる。私の頭は一気に情報過多でクラクラするほどだった。
「初めて見るか? 魔族の食文化ってやつを。」
エルザが足を止め、露店を指差す。そこではちょうど、大きな竜のような生物の鱗付き肉を切り分けて売っている。赤黒い汁が滴り、売り手の魔族が大声で何かを呼びかけていた。
「竜……なのか分からないけど、すごく……ワイルドだね。」
言葉を失いそうになる。人間の市場では見たことのない光景だ。客の魔族たちが当たり前のように大きな肉塊を買い、それを抱えて帰っていく。尻尾や角を持つ者同士が会話を交わし、笑い合い、生活を営んでいる。
「私たち魔族にとっては日常の光景だ。お前の世界では違うのか?」
「うん、まったく違うね……。こんな大きな肉、なかなか見ないし……竜みたいなのって、本当にいるんだ……」
エルザが鼻で笑う。よく考えれば、私はいずれこういった生物とも戦わなきゃならないかもしれない。自分は本当にやっていけるんだろうかと不安になる。
露店をいくつか回る間にも、こちらを横目で見る魔族は多い。「あの子が……?」「城に保護されているとか……」という小声が聞こえる。私の耳は人間基準なので、魔族より聴覚が優れていないと思いきや、意外と聞こえてしまうあたり、召喚適応のせいだろうか。「異質な存在」という評価がヒシヒシと伝わってくる。
「にしても、お前、やけに言葉が自然になっているな。」
エルザがふと口を開く。先刻の男の子や露店の会話も聞き取れていたし、私自身も普通に受け答えしている。これは召喚術の翻訳機能――のようなものが働いているらしく、最初から違和感なく彼らと話せる。魔族の文字まで読めるかはまだ試していないが、少なくとも言葉は普通に通じる。
「自分じゃよくわからないんだけど、確かに不自由しないよね……」
「本来なら、もっとぎこちなかったり、魔法による翻訳が切れたりすることもあるんだが……お前はもう“魔族の言葉”を普通に理解しているようだ。」
エルザの言う通り、すでに私は魔族の言語を自然に話せている。老魔族ガルザによれば、“召喚適応”というやつが想像以上に進んでいるらしい。身体への負担は大きいが、そのぶん言語面では恵まれているのかもしれない。
「……便利と言えば便利だけど、みんなからは怪しまれる要因になるのかも」
「まあ、そうだろうな。普通なら魔族の言葉を習得するまでに数カ月はかかるはずだ。お前の場合、すでに身体に“魔力経路”が埋め込まれている形だとか。」
エルザの説明も半分くらいしか理解できないが、とにかく私の身体にはこの世界の魔力が通っていて、さらにその魔力が言語理解を促進しているらしい。魔族から見れば不気味かもしれない。「この子は何者だ?」と警戒されるのも分かる。
そう考えていると、道の端でちょこんと座り込んだ子供が私を凝視しているのに気づいた。小柄な女の子で、角は短く、肌は青みを帯びている。怯えているようにも見えるが、視線は私を外そうとしない。
私は少し勇気を出して近づこうとしたが、エルザが「やめとけ」と手を伸ばして止める。
「子供でも、こちらを敵視している可能性はある。変に近づいて噛まれでもしたら厄介だ。」
「そ、そうだね……」
せっかく交流しようと思ったのに。……でも、確かに私が近づけば、その子の親が飛んできて叱るかもしれない。周囲には私を見てコソコソと話す大人たちがいるし、トラブルになってもおかしくない。
少し離れた場所で、私は子供の姿を見つめる。女の子はじっとこちらを見返している。目が合った。彼女の赤い瞳に、ほんの少しの好奇心らしきものが浮かんでいる。それが「怖さ」なのか「興味」なのか私には分からない。それでも、敵意はなさそうだ。
そうして見つめ合ったまま数秒――女の子がすっと立ち上がり、小走りで母親らしき女性の元へ駆け寄る。母親は私を警戒するような視線を向け、素早く子供を抱き寄せる。申し訳ないと思いつつ、深く息を吐くしかなかった。
(……やっぱり、警戒されてるんだな。)
エルザが、それを見て「まあ、仕方ない」と呟く。
「私たちだって、もし街の中に人間兵士が普通にいたら嫌だろう。お前は人間みたいな見た目なんだ。周りが警戒するのは当然だろうさ。」
確かにそうかもしれない。お互いに敵対関係にあるのだから。私はまだ何もしていないが、彼らにとって“人間”は神の尖兵であり、勇者の配下。つまり、魔族を殺しに来る恐ろしい存在のはずだ。私がそうじゃないと言い張っても、すぐには信じてもらえないだろう。
「でも……子供の視線って、こっちがなんだかよく分からないからじっと見ているだけにも思えるけど。」
「子供は大人より正直に興味を示す。それが恐怖か興味かは、本人にも分かっていないだろう。……ま、下手に触れ合おうとするな。トラブルになってからでは遅い。」
エルザの忠告は分かるが、私は少し悲しい気持ちになる。せっかく異世界に来て、こんなに面白い街を見つけたのに、あまり自由に動き回れないのだ。周りに警戒されるのは仕方ないとしても、誰とも仲良くなれないまま終わるのは虚しい。
しかし、そんな私の心境を察したのか、エルザは「……まあ、気長にやれよ」と少しだけ声のトーンを和らげた。
「一日や二日で溶け込めるわけがないんだ。現に、私だってお前を信用してるわけじゃない。けど、お前が少しでも私たちに利益をもたらしてくれるなら、少しは態度を和らげる者も出てくるだろう。」
「利益……か。戦いとか、そういう意味で?」
「それもあるし、“魔族”と“人間”を繋ぐ架け橋になれるかもしれない。私はそこまで楽観視してないが、ミアは期待してるようだぞ。お前の存在が、なんらかの形で“神に逆らう”可能性を広げるって。」
エルザがそこまで言うのは珍しく思える。彼女自身、割と私に冷たい態度だが、私の役割については否定していない。むしろ観察しているといった感じか。
――そんなことを考えていると、道の先からガラガラと荷車を引く魔族の男性が近づいてきた。金色の瞳で、やや長い角を持ち、顎に小さな髭がある。地元の民と思われ、私とエルザの姿を認めると足を止めた。
「エルザか……その隣の子が、城に住まわせている……噂の?」
会話の矛先が私に向いた。彼はじろりと私を見つめ、少し眉をひそめる。ただ、敵意というよりは好奇心と警戒が入り混じったような表情だ。
「……噂、というほどですか?」
私が恐る恐る口を開くと、男性は苦笑めいた表情を浮かべる。
「まあな。城に“人間に似た姿の娘”がいると聞いて、皆そわそわしてる。中には“人間のスパイじゃないのか”って言う者もいるが、王(魔族長)のお墨付きらしいからな。俺たちは軽々しくは手を出さんよ。」
その言葉に胸が痛む。やはり疑いは強いのか。それでも、理不尽に襲われることはないらしいが……。
エルザが一歩前に出て、荷車の男性に断言する。
「こいつは我々の敵じゃない。今はまだ頼りないが、戦力になりそうなら育てる。それだけだ。」
男性は肩をすくめ、「あんたが言うならそうなんだろう」と納得したように首を振った。そして私を見据える。
「ま、せいぜいこの世界に慣れることだな。……お前が本当に“救世の切り札”なのかどうかは知らんが、我々ももう後がない状況だ。もしお前に力があるなら、期待してやる。」
そう言い残し、荷車を引いて去って行く。どこか投げやりな言い方だったが、敵意はそれほど感じなかった。むしろ懐疑と期待が入り混じった複雑な感情を抱いているのだろう。
「期待してやる、ね……」
呟きながら、その背中を見送る。彼の言葉には、疲弊した魔族たちの本音が滲んでいるようだった。“後がない”という現実を生きながら、でも必死に闘い続けている彼ら。私は少し胸が苦しくなる。
「どうした、さっきから顔が冴えないぞ。」
エルザが怪訝な声で問いかけるが、私は「大丈夫」と首を振る。頭の中は、魔族の境遇を知るほどに申し訳なさと無力感でいっぱいだ。私に何かできるのか分からないけれど、少なくとも彼らを裏切るわけにはいかない。そんな気持ちだけは芽生え始めている。
道を進むと、やがて小さな広場に出た。先ほどの大きな中央広場ほどではないが、周囲には住居や商店が立ち並び、人々が行き交っている。子供たちが走り回り、大人たちが何やら言い合ったり笑いあったり。
しかし、私の姿に気づくと、まるで警笛が鳴ったかのように子供たちは動きを止め、大人たちは怪訝な表情を浮かべる者が多い。やがて何事もなかったかのように再び会話が始まるが、その空気にはわずかに緊張が混じるのを感じた。
突然、小さな男の子が走り寄ってきて、私を指さし叫ぶ。
「ねえ、あれが“しょーかんしゃま”ってやつ? 人間……なのに角がないし、でも魔力感じるよ……」
近くにいた大人が「こら」と注意し、すぐに抱き上げて走り去ってしまう。私もどう対応すればいいか分からず、ただ苦笑いするしかない。エルザは「気にするな」と無関心を装う。
「しょーかん……しゃま、か。」
滑稽な呼び方だが、魔族の子供が覚えたての言葉で私を称しているのだろう。私は苦笑し、なんとも言えない感情がこみ上げる。まだ正体不明の存在である私を、子供たちなりに解釈しているのかもしれない。
「この辺は住民が多い地域だ。飯屋や防具屋、雑貨屋なんかがある。よかったら見て回るか?」
エルザの提案に頷き、私はゆっくり歩き始めた。食材や日用品を売る店を覗き込み、どんなものが並んでいるのか興味津々。奇妙な果物や、緑色に光る鉱石、魔獣の毛皮など、人間界の市場ではまず見かけない品々が多い。店先で笑いながら客引きをする魔族の店主を見て、少しほっとする。敵国だとか種族が違うとか言っても、こうして商売をして生活を営んでいる普通の人たちなのだ――いや、“人”とは言えないかもしれないけれど。
が、私が興味を示すたび、店主や周囲の客たちは怪訝な顔をすることが多い。「売ってくれますか?」などと声をかけようとすると、「……お、おまえに売るかどうかは、王の許可が……」と困惑され、うやむやのまま終わる。まだ公式に“城で保護された客人”として認知されきっていないのだろう。あるいは、王(魔族長)から直接の許可が下りればスムーズになるのかもしれないが、今はそうした手続きも踏んでいない。
「こんな感じだ。今は外を歩けるだけマシと思え。」
エルザも苦い顔でそう言う。歩き続けるうちに、喉が渇いてきたが、売店で何かを買うのも気が引ける。仕方なく私は水筒を持参すればよかったと後悔する。
やがて小道を抜けると、大きな堀が現れた。城の外壁が遠くに見える。ここがどうやら市街地の端なのだろう。堀の向こう側は畑のような場所になっていて、魔族たちが野菜らしきものを栽培している姿が見える。灌漑のためか、川から引いた水路が通っており、魔法で流れをコントロールしているようだ。
「あそこが農場地帯だ。神に支配された地域じゃ、魔族が農業なんかできるわけないが、ここは我々が守り抜いてきた土地だからな。」
エルザの言葉にハッとする。そうか、戦争状態でも食料を自給する場所が必要なのだ。だからこそ、この街を“拠点”として必死に守っているわけか。
ふと見ると、畑で作業中の魔族がこちらに気づき、一瞬手を止める。慌ててこちらに駆け寄ってくる様子はないが、遠巻きに「誰だあれ?」という感じで見ているのがわかる。大半が大人の農夫で、角や尻尾を持った者が土を耕している。何頭かの魔獣のような家畜も見える。牛に似ているが、背中に棘がある。
私を連れてエルザが“見回り”のような雰囲気で歩いているためか、周囲は警戒を崩さない。エルザは軽く手を挙げて「なんだ、作業の邪魔はしないぞ」と合図する。魔族の農夫たちは納得したように頷き、再び作業に戻った。私は少し申し訳ない気持ちになる。
「……私がいるだけで、みんな警戒しちゃうんだね。」
「当たり前だろ。大事な農場なんだ。下手に荒らされては困る。お前がまだ何者か確定していない以上、こうなるのは仕方ない。」
確かにそうだ。私が仮に“人間のスパイ”だったら、ここにいることは大きな脅威だろうし……。私はそこまでして魔族を裏切る気はないが、彼らから見れば分かりはしない。
一周して、また街の中心部へ戻る頃には、思った以上に時間が経っていた。足も疲れてきたし、精神的にも緊張の連続でクタクタだ。だけど、これで“魔族の街”というものが少し分かった気がする。彼らが普通に日常を営んでいること、人間に従わないまま独自の文化を育んできたこと――そして、私を警戒しつつも、完全に排除しようとはしない微妙な空気を感じる。
「この辺で戻るか。お前もだいぶ歩いたし、身体のほうも限界だろう。」
エルザが問いかける。私も疲労感をひしひしと感じていた。肩で息をしながら「そうだね……」と頷く。初めての街歩きは刺激的だったが、思った以上に消耗が激しい。
広場を通り過ぎ、城へ続く石段を上り始めると、後ろからか細い声が聞こえた。
「ねえ、あなたは……本当に人間なの?」
驚いて振り返ると、一人の少女――いや、私よりも少し年上か同い年くらいの魔族が立っていた。角は短く、肌は薄紫。尻尾が控えめに揺れている。目は赤く、こちらをじっと見つめているが、敵意はあまり感じない。
「え……と」
言葉に詰まる私を、魔族の少女はまっすぐに見つめ続ける。エルザが警戒するように肩に手をかけてくるが、少女は「大丈夫。私は戦うつもりはない」と両手を示してアピール。
「私……人間に興味があって。昔は、人間とも仲良くできる世界があったって聞いたことがあるけど、今は戦争で……。あなたは神の手先じゃないの?」
声には不安が滲む。どう答えるべきか迷うが、ここで逃げるのも逆に怪しまれる気がする。私はごくりと唾を飲み込み、ゆっくり首を振った。
「私は……よくわからないけど、人間の世界から来たらしい。でも、神に従うつもりはないよ。魔族の皆を傷つける理由なんかないし……」
言葉が断片的になってしまう。少女は一瞬瞳を揺らし、しかしすぐに微笑んだ。まるで安堵したようにも見える。
「そう……なら、よかった。ごめんね、変なこと聞いて。」
「ううん……気にしないで。私こそ、まだ何も分かってないけど、迷惑をかける気はないから。」
二人のやり取りを見守っていたエルザは、小さく鼻を鳴らす。
「これ以上の雑談は不要だ。シオン、行くぞ。倒れられても困る。」
私が「うん」と頷くと、少女は少し寂しそうな表情を浮かべ、「またね」とだけ言って去っていった。あれは“また会いたい”という意味なのか、“もう会わない”という意味なのか。どちらとも取れる曖昧な別れだったが、少なくとも今のところ害意はないように感じた。
城の石段を上りきる頃には、足が棒のようになっていた。エルザはまだ余裕そうだが、私は息が荒い。魔力適応の影響もあってか、一日中外を歩き回るだけでヘトヘトだ。
「ふん、これで分かっただろ。お前がどれほど“異質”な存在かと。無闇に外を歩けば、あんなふうに声をかけられたり、警戒されたり……」
エルザは振り返り、「それでもお前はこの世界で生きていくしかないんだ」と言わんばかりに黙り込む。私は唇を噛むが、すぐに力を抜いて息を吐いた。
「……私、一歩ずつだけど、頑張ってみる。まだ怖いけど、ここしかないから。」
最初に会った子供も、さっきの少女も、私を完全には拒絶しなかった。怪しむ大人たちもいたが、誰もが刃を向けてくるわけじゃない。これって、少しだけ希望があるのかもしれない。時間はかかるが、無闇に嫌われるわけではないのだと感じた。
エルザは唇をわずかに歪め、苦笑とも皮肉ともとれる表情で呟く。
「そうか。なら、せいぜい信頼を勝ち取ってみせろ。……私も嫌いじゃないからな、そういう姿勢は。」
その一言が妙に嬉しかった。ツンツンした態度の彼女なりに、私を認めてくれつつあるのかもしれない。
城の門をくぐり、中に入る。衛兵が私たちを一瞥したが、特に何も言わず通してくれた。もう少し強く警戒されるかと思っていたが、エルザが同行しているおかげだろう。
長い廊下を歩きながら、頭の中で今日の出来事を反芻する。魔族の街……私はほんの一部しか見ていないが、それでも彼らが普通に暮らしているのを目にした。子供たちが走り回り、商店で買い物をし、農場で作物を育てる人々がいる。まるで当たり前の日常。しかし、それは神の支配という巨大な脅威に押し潰されそうになっている。だからこそ、彼らは“異世界から来た私”という存在に少しだけ期待し、同時に大きく警戒している。
「もし、私が本当に神のスパイだったら……どうする?」
不意に疑問が浮かぶが、すぐに首を振った。そんなことする理由もないし、私は彼らを裏切る気などない。今のところ、私にはこの世界で生きる道しか残されていないし、死にたくはない。何より、街の中で働く魔族たちの姿を見て、“彼らも普通の人間みたいに暮らしている”のだと感じた。私が協力することで救えるのであれば、それを拒絶する理由はあまりない。
部屋に戻り、ようやく一息つくころ、夕暮れに似た薄暗い光が窓から差し込んできていた。魔族の城内には昼夜を判別する魔力ランプがあるらしいが、実際に“夜”がどう訪れるのかまだ実感がわかない。ミアに聞くと、「神の干渉で世界全体の太陽周期も歪んでいる」とかややこしい話をしていたが、今はそこまで気にしていられない。
ベッドに腰かけ、靴を脱ぐと、足裏がジンと痛む。結構な距離を歩いたせいだろう。けれど、その痛みは心地よい達成感にも通じる気がする。異世界に来てから数日、まだ馴染めない部分ばかりだが、こうして外に出られたことで一歩踏み出した気がする。
「私は“魔族の街”を見た。敵か味方かも分からないまま、でも少しだけ理解できた気がする。」
心の中でそう呟き、自然と笑みがこぼれる。人間に近づくときよりも、ずっと緊張して疲れたけれど、得たものも大きい。子供たちやあの少女との一瞬の視線の交わりは、私にとってこの世界での“生”を実感させる貴重な体験だった。
自室の扉がノックされ、ミアの声が聞こえたので「どうぞ」と言う。彼女はお盆を抱えて入ってきて、微笑む。
「外の空気はどうでしたか? けっこう疲れちゃいましたか?」
「あ……うん、でも面白かったよ。いろんなお店もあって……ただ、やっぱり、私を見て警戒する人が多かったけど。」
ミアは肩をすくめ、「仕方ないですよ」と苦笑する。
「みんな、一度は神に酷い目に遭わされてますから。人間の姿には警戒する習性が染みついているんです。でも、逆に言えば、関わっていけば少しずつ分かり合えるはず。」
そうだろうか、と不安は拭えないが、ミアの言葉にはどこか説得力がある。彼女自身、人間に近い姿をしているものの、角が短く青い髪を持つ魔族という時点で、私とは根本が違う。なのにここまで友好的に接してくれるのだから、他の魔族も関係を築ける可能性はあるだろう。
「それに、シオンさんが自然に魔族の言葉を話せることは、大きなアドバンテージですよ。普通なら半年とか一年とかかかりますし、魔力消耗が激しい翻訳魔法を使い続けるのも大変ですから。」
「でも逆に、それを不気味がる人もいるような……。」
「そこをどう捉えるかですね。まだあまり深く接触しないうちに、“本当はただの優しい子なんだ”って理解してもらえるといいんですけど。」
そう言って差し出されたお盆には、濃厚なスープとパンのようなものが乗っている。先日までお粥みたいな流動食だったので、これが私にとってまともな食事になるかもしれない。香りは独特だが、悪くない。
「ありがとう……これ、晩ご飯かな?」
「はい。胃に重たいかもですけど、栄養は取らないと。魔力適応も進みますし、体力も戻らなきゃいけないですからね。」
ミアがスープを一口すくい、勧めるように私の前に寄せた。飲んでみるとややトロリとした舌触りで、味はコクがあり、少し塩辛い。どこの生き物の骨や肉を煮込んだのか考えると怖いが、意外に口当たりが良く、体が温まる。
「……おいしい。なんとか食べられるし、香りも思ったより気にならない……」
素直な感想を漏らすと、ミアは嬉しそうに笑う。
「良かった。やっぱり初めて見る食材だと戸惑う人が多いですから。だんだん慣れていきますよ。私だって、昔は別の地方の料理を食べたときに、すごく驚きましたもん。」
魔族といっても、全員が同じ文化圏ではないらしい。複数の地方や部族があり、ここでは“王”が一つの勢力をまとめているという形だと聞いた。いずれは別の地方に行くこともあるのだろうか。そのとき、私はまた“異質”扱いされるのかもしれない。
しかし、この世界に生きる以上、それも運命だろう。スープとパンを平らげながら、私は「今日の街歩きは十分に収穫があった」と自分に言い聞かせる。子供や住民に警戒されたが、同時に初めて“この世界で暮らす魔族”を近くで見れた。それだけでも大きい一歩だ。
「ねえ、ミア。私、このまま街にも慣れていって、いつかは普通に買い物とかできるようになるのかな……?」
食事を終えたあと、そんな問いを投げかける。ミアは笑顔を浮かべて頷いた。
「はい、もちろんですよ。少しずつでもいいから、みんなにシオンさんが危険じゃないって分かってもらえれば。きっと受け入れてくれる人は増えると思います。」
そんなに上手くいくかな……と自嘲気味に思うが、ミアの前向きさに救われる気もする。たとえ時間がかかっても、受け入れられるかもしれない。そう信じて努力するしかないのだ。
夕方が過ぎて夜が来る頃、私は一日の疲れでベッドに倒れ込んだ。寝る前に、ぼんやりと今日を振り返る。魔族の街の光景、子供たちの視線、遠巻きの大人たち、あの青白い少女の「またね」という言葉。どれも鮮明に脳裏に焼き付いている。この世界が“普通の社会”を営んでいることを、私は確かに体感した。
(このまま、もう少しこっちの世界に馴染んでみよう……)
意識が薄れながら、そう考える。まだ神や勇者の実態はよくわからないし、何より私自身が“何”なのかすら曖昧だ。けれど、居場所がないならば、ここに居場所を作るしかない。どんなに警戒されようと、歩き続けるしかないのだ。
角や尻尾を持った人たちと同じ目線で街を歩き、同じ空気を吸う。その当たり前の行動に、私はわずかな胸の高鳴りを覚えている。今は不審者扱いでも、いずれは彼らにとって当たり前の存在になれるといい――そんなささやかな願いが、私の心をほんのり支える。
ゆっくりと瞼を閉じる。明日はもっと広い範囲を歩けるかもしれない。あるいは、また城内での訓練になるかもしれない。いずれにせよ、私はこの世界で生きる道を探していくのだ……そう自分に言い聞かせながら、闇の中へと意識を手放していった。