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第一章:召喚と適応 — 失敗作と呼ばれた存在 2

 第2節. 魔族の城と召喚の意義



 石造りの廊下に足を踏み出した瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。まだ身体にはだるさが残っているが、寝台の中にいるよりはよほど気が紛れる。

 先ほどまで横になっていた部屋から続く通路の先は、軽く曲がりくねっていて、壁には奇妙な文様が彫り込まれている。魔力を灯すランプの淡い光が照らすそれらの模様は、まるで生き物のようにゆらぎ、見るだけで幻惑されそうだ。


「しっかり掴まってくださいね、シオンさん」


 横を歩くミアが、私の腕を軽く支えてくれる。青みがかった長い髪をツインテールにまとめた彼女は、やはりどこか楽しげな表情を浮かべている。

 私が倒れ込みそうになるたび、彼女はすかさず手を伸ばし、支えてくれた。身体がまだ完全に慣れていないのは痛感するけれど、それでもこうして歩けるようになっただけでも大きな進歩だと思う。


「……ありがとう。まだ少しフラつくけど、大丈夫……」


 一歩踏み出すたびに、筋肉や関節が軋むような感触がある。ただの筋肉痛なのか、あるいは“魔力適応”とやらの影響なのか、自分でもよくわからない。少しずつ息を吐きながら、廊下の奥へと進んでいく。


「そのまま真っすぐ行けば、中央ホールです。そこで魔族たちが日常業務をしているので、シオンさんも少し見ておくといいですよ」


 ミアが指さす方向には、ぼんやりと明るい空間が広がっているらしい。私は前に進むたび、石壁に触れ、指先でその質感を確かめていた。

 ここは、いわゆる“城”らしい。私が最初に目覚めた寝台の部屋も、少し簡素とはいえ城の一室だとミアが説明してくれた。


「っていうか、そもそも……本当にここ、城なの? 石造りだけど、ちょっと違う感じがする……」


 率直な疑問を口にすると、ミアは「ふふっ」と微笑む。


「そうですね。私たち魔族の中でも“拠点”に近い場所なんです。……昔はもっと広大な城だったらしいんですけど、神との戦いが激化してからは、一部が崩壊してしまって……」


 神、という言葉を聞くたびに、どこか胸がざわつく。私にとって“神”とはただ宗教上の存在くらいの認識だったはずだが、ここの世界ではまるで切実な実在のように話される。


「どこからお話しすればいいか、難しいんですよね」


 ミアは困ったように笑い、私の歩調に合わせてゆっくり進む。通路の先、少し開けた場所に出ると、天井が高くなり、陽の光のような柔らかな明かりが差し込んでいた。ただし、外からの光というよりは、天井に埋め込まれた魔導ランプの強力な光に近いらしい。


 中央ホール。そこは思った以上に広々としていて、円形の空間に複数の通路が繋がっている。魔族たちが行き交い、何かの資料を抱えた者が急ぎ足で通り過ぎたり、鎧をまとった兵士が警戒するように壁際に立っていたりする。


「……本当に“人間”じゃないんだね」


 私の口からつぶやきが漏れる。角を持つ者、尻尾を持つ者、肌の色が灰色や紫、青みがかった者など、明らかに私が知っている“人”とは別種族。でも、どことなく人間に近い仕草や表情をしているのが不思議で、逆に安心感もある。


「はい。私たちは“魔族”……神に抗い、生きてきた種族です。……もっとも、抗う力なんて、ほとんど残されていませんが」


 ミアの声には、わずかな悲しみが滲む。彼女が微笑んでいても、その奥にある苦労を思うと胸が痛む。


 神に従う人間 がこの世界を支配し、魔族たちは追い詰められ続けている。私はまだ詳細を知らないが、戦争が長引いていることだけは確からしい。


「おい、ミア。案内はそこまでだ」


 鋭い声がして、振り向くとエルザが立っていた。腕を組み、私とミアを交互に見ている。彼女は口を開くと、ゆっくりと説明を始めた。


「ガルザ様がお呼びだ。召喚術の老魔族だ。おシオンの状態を確認すると言っている」


「ガルザ……」

 どうやら重要人物らしい。エルザが“様”をつけるくらいだ。ミアも「ガルザ様なら、いろいろお話ししてもらえると思います」と明るい顔をする。


「じゃあ、行きましょうか。ガルザ様は城の最上階付近の研究室にいることが多いんです」


 最上階。短い会話でもう移動が決まり、私はまた歩みを進めることになる。中央ホールを抜け、今度は大きな階段を登る。


 階段を何段も上るたびに息が上がってくる。身体が思いのほか重いが、ミアが隣で支えてくれるので何とか踏ん張れる。エルザは先に行くでもなく、私たちの数段前をゆったりと歩くペースを保ち、ちらちらと振り返っては焦れるように舌打ちしている。急ぎたいのかもしれないが、私に合わせてくれているのだろう。ちょっと気まずい。


「ここが、研究区域ですよ」


 階段を登りきり、しばらく長い廊下を進むと、そこは先ほどまでの質素な石造りとはまた違った雰囲気だった。壁一面に魔導的な装置やパイプが取り付けられ、ゴウンゴウンと低い振動音が響いている。空気が少し温かく感じるのは、これらの装置が熱を発しているからだろうか。


「ガルザ様はこの先の部屋にいらっしゃるかと……」


 ミアが扉の前で立ち止まる。大きな鉄の扉があり、赤い封印のような紋章が描かれている。指先で扉をノックするというよりは、紋章の部分を軽く叩くと、扉がガチャンと重々しい音を立てて開いた。


 その瞬間、むわっとした熱気と、薬草のような独特の匂いが私の鼻を突き刺す。


「失礼します、ガルザ様。お連れしました」


 ミアが一歩踏み込むと、部屋の奥からしわがれた声が聞こえた。


「おお……来たか。そこにいるのが、例の“失敗召喚”と呼ばれている子か……?」


 そこには背中が丸まった老魔族が座していた。長い白髪を束ね、肌の皺は深く刻まれている。両目の周りにも黒ずんだ模様があり、それが年齢をさらに強調しているようだ。

 だが、その赤い瞳は鋭く、まるで虎視眈々と獲物を見据えるかのごとき力を感じる。老人特有の衰えというよりは、むしろ何か強大な“魔力”を秘めているような雰囲気がある。


「失礼します。私はシオンといいます……」


 軽く頭を下げると、老魔族……ガルザはゆっくりと頷き、腰を上げた。周囲を見ると、書棚や薬瓶がぎっしり詰まっており、机の上には魔導書や巻物が乱雑に積まれている。所々から白い蒸気が立ち上る装置もあって、いかにも“研究室”らしい混沌とした空間だ。


「よくぞ歩けるまでに回復したな。あの様子では死んでもおかしくなかったが……ほう、身体の定着率はまだ六割程度か……」


 ガルザがこちらを見つめた瞬間、まるで内臓まで透かされるような感覚がした。私の魔力を、瞳で直接読み取っているのだろうか。背筋が冷えるが、彼は続ける。


「お前は“異世界”から来た存在。その証拠に、通常の魔族や人間とは魔力の波長が異なる。……定着が不完全だったせいで、三日も昏睡していたのだよ」


 “定着”……確かにミアもそんな話をしていた。私は眉をひそめ、ガルザを見返す。


「それって、やっぱり私……失敗作ってこと、なんですか……?」


 エルザが先に言っていた“失敗”という言葉が胸に引っかかる。ガルザは眉を寄せ、杖をトントンと床に突き立てた。


「ふん、誰かがそう呼んでいるのか? まぁ、確かに『禁忌の召喚』を成功させるなら、もっと完全に魂と身体を定着させなければならん。だが、お前が死なずにここにこうしている以上、完全なる失敗ではない。」


 私としては、ほとんど“失敗”も同然では……と思うが、ガルザは「それが問題なのだ」と続ける。


「本来、我々が求めたのは“勇者と対等に渡り合える存在”だ。だが、お前の身体に流れる魔力は確かに大きいが、制御はからきしだろう? しかも、魂の定着がいびつなまま、無理やり身体を保っている。」


 その言葉にどう返せばいいかわからない。確かに自分が強いかと言われれば、まったく自信がない。魔族のみんなからは“救世の切り札”とか言われているらしいが、今の私は普通の女の子と変わらないはずだ。


「しかし、まだ可能性はある。それは……そうだな、お前の“異質さ”が鍵になるかもしれん。」


 ガルザは杖を片手にこちらへと歩み寄り、私の目の前に立つ。彼の瞳は赤く、底知れぬ闇を孕んでいるようだ。私は思わず息を呑む。


「異質、ですか……?」


「そうとも。魔族にも人間にもない波長を持つ魔力。……噂によれば、“神の祝福を受けない魂”は、神の計算を狂わせる可能性を秘めるという。」


 神の計算……。意味を飲み込めず首を傾げると、ガルザは杖で机の上の巻物を示した。そこには複雑な魔法陣の図が描かれている。


「我々が神に抗うために“禁忌”を犯してまで、異世界から魂を呼び込んだのは、神の干渉が及ばない存在を求めたからだ。……だが実際にこうして姿を現したのは、お前一人だけなのだよ。」


 そう言われると、なんだか重大な責任を背負わされた気がして落ち込む。私なんかでいいのかと思うが、ガルザはさらに言葉を続ける。


「勇者は神の意志で作られた存在。人間の形をしていても、中身は神の力の代行だ。そして人間もまた、神に祝福され洗脳されている者が多い。……だが、お前は違う。お前は“神の祝福”を受けない異世界の者なのだから。」


 なるほど、そういうことか。私が“神に従わない”という前提だからこそ、神の天敵になり得る……という理屈かもしれない。

 ただ、ガルザは言い捨てるように補足する。


「だが、それがお前を強くするかどうかは別問題だ。定着率が低ければ、まともに魔力を使うことすら危うい。死にたくなければ、ミアやエルザの指導を受けて、身体を作り直すがいい。」


 脅すような口調だが、どうやらアドバイスでもあるらしい。私は「はい……」と弱々しく返事をする。どうにかやっていくしかないのだろう。


 ガルザは唸るように息を吐き、「さて、召喚の意義とやらをお前に話してやる」と杖を持ち上げた。魔力の光が杖先に灯り、そのまま宙空に紋様が広がる。

 それは簡素な図形で、大陸のような輪郭が描かれている。どうやらこの世界地図らしい。大陸の中央付近は黒く塗りつぶされ、東側や北側の一部は赤い色で示されている。


「……これが、我々の生き残っている領土だ。見ての通り、中央から南にかけてはほぼ人間軍に支配されている。……勇者の力が増すたびに、魔族の領土は狭まる一方なのだ。」


 その言葉に、私は地図を見つめる。なるほど、黒く塗られた部分はほんの僅かだ。全体の一割にも満たないように見える。


「勇者って……そんなに強いんですか?」


「ああ。神の力の代行者……実際、まともに戦える魔族はほとんどいない。かつては“魔王”と呼ばれるほどの強大な指導者がいたらしいが、とっくに命を落としたよ。……その後、我々はいくつかの拠点で細々と生き延びているだけだ。」


 ガルザの口調は悲壮感を帯びている。戦い抜いてきた歴史の重みを感じ、胸が締め付けられるようだった。どうしてここまで追い詰められているのに、まだ戦いを続けるのだろう。そう疑問に思ったが、彼らにとっては生存のための当然の行為なのかもしれない。


「それでも、神に跪くことはできないんですね……」


 思わずそんな言葉が漏れる。もし私だったら、助かるために従う道を選ぶかもしれない。けれど、魔族はそれを拒否している。その理由は何なのだろう。

 ガルザはほんの少し目を伏せ、低い声で答える。


「神は我々を“不要な存在”として排除してきた。それは……もう長い歴史に根差していてな。ここで詳しく語ると長くなるが、奴らに屈したところで、魔族には“未来”なんぞない。そんなのは生きながら死ぬのと同じだ。」


 その言葉を聞いて、ハッとする。生きながら死んでいる……なんて、どこかで聞いたようなフレーズ。この世界だけの話じゃない。私は自分自身の過去を思い出しかけるが、記憶はもやの中に沈み、輪郭を結ばない。


「だからこそ、我々は“異世界の力”に賭けたんだよ。……お前を呼んだのは、そのためだ。」


 ガルザの瞳が私を射抜く。まるで「お前はここでどうする?」と問われているようだった。

 私は唇を結ぶ。答えが見つからない。いきなりそんな重い運命を背負わせるなんて、私はたまったものじゃない……と思う一方で、ここで逃げても行く場所などないのも事実。


「…………」


 黙り込む私の横で、ミアがそっと肩に手を置いてくれた。彼女の温もりが救いだった。


「シオンさん……焦らなくていいんですよ。まずは身体を慣らして、この世界で生きていく術を知ってください。その上で、私たちを助ける力になってくれたら……それでいいんです。」


 優しく微笑む彼女を見て、私は少しだけ心が和らぐ。そうだ、いきなり結論を出す必要はない。エルザやガルザ、ミアたちと過ごす中で、自分の立ち位置を見極めていくしかないのだ。


 ガルザは杖を置き、ゆっくりと椅子に腰掛けた。机には膨大な魔導書が積まれている。


「さて……もしお前が本気で勇者に対抗したいなら、私の研究にも手を貸してくれ。異世界の科学知識というやつが、何かしら“神”の法則を揺るがす糸口になるかもしれん。ミアから聞いているが、お前が“化学”とやらを少し知っているとか?」


 彼に問いかけられ、私は眉を寄せる。「少し」どころか、正直大して詳しくない一般人レベルの知識だと思うが、世界によってはそれでも革新的な可能性があるのかもしれない。


「化学っていうか……普通の学校で習った程度だし……役に立つかはわからないです。でも……できる限り協力はします。」


「ふむ。それでいい。私の研究所では様々な実験を行っている。しばらくはミアの誘導で簡単な実験を見学してみろ。魔力理論と、お前の“化学”なる理屈がどう融合するか見極めたいからな。」


 ガルザは満足げに頷き、エルザを振り返った。エルザは腕を組んだまま、少し不満そうに鼻を鳴らす。


「研究なんかしてる時間があるのか? 人間軍の動きは激しくなる一方だろう……まあ、どのみちこいつはまだ戦力にならんか。好きにやればいい。」


 冷たい言葉だが、そこには「今は戦闘よりも基礎を固めろ」という意図も感じられる。私は「そうするしかないよね……」と肩をすくめるしかなかった。


 ガルザは目を細め、私を見つめる。その視線はどこか懐疑的だが、同時に一筋の期待も見えるような気がする。


「お前がどんな運命を抱えているかは知らん。しかし、お前がここに来たという事実が、我々の希望であることは間違いない。……死ぬなよ。せっかくの“救い”の芽を無駄にされても困るからな。」


 私は静かに頷くしかなかった。救いの芽……そんな言葉を向けられても、自分は一体何ができるのだろうか。今はまだ心許ないが、とにかく生き延びるしかない。


「……わかりました。頑張ってみます。」


 そう答える私の背後で、ミアが微笑んでいるのを感じる。彼女の優しさに救われる思いだが、エルザの視線はまだ冷たいまま。

 こうして、私はガルザの研究所を後にする。頭の中は疑問だらけ。神と勇者、そしてこの世界の行く末。それらにどう関わっていくのか、何も確定していない。


 だが、少なくとも今は“魔族の城”で暮らし、“戦うための力”を身につける。それが私に与えられた現時点の義務なのだろう——そう自分に言い聞かせる。


 通路に出ると、ミアが「一度お部屋に戻りますか? それとも、もう少し案内しましょうか」と小首を傾げる。私は「少し散歩したいかも」と答えた。

 研究所のむわっとした空気から外に出て、できれば涼しい風を感じたい気分だった。まだ身体は本調子じゃないものの、寝てばかりでは気が滅入るだけだ。


「じゃあ、この先にある中庭に行きましょう。風が気持ちいいですよ。」


 ミアが笑顔で私の手を引く。城の中庭……そう聞くだけで“ファンタジー世界”っぽくて胸が躍る。なんだかんだ言って、私はやっぱり普通の女の子なのだろう。憧れの異世界生活が始まっている……と言えなくもない。でも、憧れるには状況が重すぎるのも事実。


 あれこれ考えながら長い廊下を進む。壁には魔族の紋章らしきレリーフが刻まれている。二本の角を持つ竜のような生物……それが魔族の象徴なのだろうか。所々で兵士が立ち番をしているが、私と目が合うたびに怪訝な表情を浮かべたり、警戒するように身構えたり。まだ認められていないのだと痛感する。


 中庭への扉を開けた瞬間、ほんのりとした陽光のような明るさが視界に広がった。頭上を見上げると、城壁に囲まれた空は、やや赤みを帯びた薄い空色。これがこの世界の日光なのだろうか。外から差し込む本物の日差し……かと思ったが、見上げれば空には奇妙な魔力の結界があり、そこから光が注いでいるように見える。


「これは……空、なのかな……?」


 不思議そうに呟くと、ミアが少し申し訳なさそうに笑う。


「ここは地下に近い部分も多いので、本当の空ではないんです……防御結界で覆われた擬似的な空間みたいなもので。神や勇者の侵攻に備えて、外側を結界で閉じているんですよ。」


 なるほど。魔族が籠城状態で生活しているのだと思えば納得もいく。城というよりは要塞……と言ったほうがしっくりくるかもしれない。


 中庭の中央には、小さな池があり、池の周囲には魔力で強化したらしい石畳が敷かれていた。そこには数人の魔族が談笑しており、花らしき植物も植えられている。見た目はトゲのある奇妙な花だが、近づくとほんのり甘い香りがして、一瞬「綺麗だな」と思う。


「ここの花は、魔力を吸収して成長する特殊種なんです。人間の世界ではまず育たないらしいですよ。」


 ミアが指先で花びらを撫でる。それは淡い紫色で、独特の形をしていた。人間界の花では見たことがないが、こういうファンタジー要素満載の空間にいるのだと再認識させられる。


「……凄いね、何もかもが違う……」


 呆れるほどの違いに、私は苦笑する。ミアは「ふふ」と小さく笑ってから、座れる場所を探し、私を促した。


「無理しないで、ここで少し休みましょう。ガルザ様のところでも言われましたけど、今はまだ身体を慣らすことが大事ですからね。」


 言われるまでもなく、さっきまで歩き回っただけで、足がガクガクしている。私は石畳に腰を下ろし、深呼吸した。身体中に魔力が流れているようなむず痒い感覚があるけれど、意外と不快ではない。慣れるまでは時間がかかりそうだ。


「ねえ、ミア。……私がここにいる理由って、まだわからないままだよね。」


 その言葉に、ミアは少し困ったような顔で首をかしげた。


「そうですね。ガルザ様がおっしゃるように、“神の祝福を受けない異質な魂”……という意味では、一筋の希望かもしれません。でも、それをどう活かすかは、シオンさん次第かな……」


「私次第、か……。」


 正直、自信がない。普通の女の子として生きてきた私が、いきなり魔族を救う救世主になれるわけがない。しかも、勇者と呼ばれる化け物が相手。


「ただ……シオンさんがここに来たことは、きっと意味があると思います。私たちが、このまま神に負ける運命ならば、こんな希望すら与えられなかったはず……」


 ミアの言葉はどこか詩的で、私はうまく答えられない。しばし沈黙が降りる。遠くで魔族たちの話し声が聞こえ、ぴりりと張り詰めた空気が中庭に漂う。


 そうだ、彼らは戦争のただ中にいるのだ。人間や勇者に追われ、領土を失い、籠城状態を続けている。そんな極限状況で、私は何も知らないまま召喚され、戸惑いながらここにいる。


 どちらが被害者かとか、誰が正義なのかはまだ見えてこない。それでも私は、人間だと思う。少なくとも、この姿は。

 けれど、ここの魔族たちにとって、人間は“神に支配された敵”なのだ。それでも敵が憎いだけじゃなく、こうして優しく接してくれるミアみたいな子もいる。違和感しかないが、これが現実らしい。


「……ねえ、ミア。」


 私はそっと目を上げ、彼女を見つめる。


「私……あなたたちの役に立てるかな。……正直、自信なんかないんだけど。」


 ミアは一瞬驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。


「大丈夫ですよ。わからないのは、みんな同じです。私たちだって、神に勝てるかどうか分からないまま戦っているんですから。」


 その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。そうか、彼女たちも恐怖や不安を抱えながら、でも自分の生き方を決めているのだ。私だけが迷っているわけじゃない。


 ゆっくりと息を吐き、周囲の空気を感じる。――確かに、ここは人間の世界じゃない。壁に囲まれた中庭、奇妙な花、角を持つ魔族たち……すべてが未知数。でも、未知には“可能性”もある。


「分かった。私、頑張ってみるよ……まずは、ちゃんと身体を慣らして、それから魔法とか、戦い方も学んで……」


「はい。そうしてくださると、私も嬉しいです。」


 ミアが明るく微笑み、私の手をそっと握る。力強いというよりは、優しい温もり。私はその温もりにひとときの安心を覚えた。


 それから数十分、中庭でぼんやりと休憩をとった。城内にはまだ見ていない場所が多いが、あまり無理をすると倒れそうなので、今日はここまでにしようということになる。


 ミアが先導し、私は自室(いわゆる“仮宿泊室”)へと戻った。部屋に入る前、ミアは「しっかり休んでくださいね」と言い、「何か必要なら呼んでください」と微笑んで去っていった。


 ドアを閉めて一人になると、途端に心細さがこみ上げてくる。現実感のない空間で、背後に戦争の影がちらついている。私はこれからどうなるのだろうか……。


 ベッドに腰掛け、ぼんやりと手のひらを見る。肌の感触は、前にいた世界とまったく変わらない。自分が確かに生きているという実感はあるのに、周囲がファンタジーに溢れている。

 そして何より、“勇者を倒す力”を求められているという重圧。


「神……勇者……。」


 口に出すだけで、息苦しくなる。でも、逃げられないのだ。この城に来るまでに知った通り、魔族が人間に追い詰められているのは事実らしい。このままだと、彼らは滅びるか、あるいは神に屈して奴隷のように扱われることになる。エルザやガルザの苛立ちは、それだけ追い込まれている証拠。


 私は再びベッドに横になり、天井を見つめた。脳裏に先ほどのガルザの言葉が蘇る。

「お前は異世界の者。神の干渉を受けない存在だ。」

 ——だから、勇者に対抗できるかもしれない。


 ――でも、本当にそんなことがあるのだろうか。所詮はただの一般人だった私が、すぐに戦士になれるわけがない。だけど、何もせずにここを追い出されたら、それこそ行く場所もなく死ぬだけかもしれない。


 ここにいるのは、私の生きる道になるのだ。ならば、今は必死に“居場所”を作るしかないだろう。

 そう考えて、私は静かに目を閉じる。今日一日だけでも、随分と身体に負担をかけた。早く休まないと、明日もきっと動けなくなる。


 ベッドの硬さはあまり心地よくないが、なんとか横になると、すぐに疲労が襲ってくる。頭の中ではまだ色々な思考が渦巻いているが、身体が先に眠りを求めた。


「ここが……私の物語の始まり——」


 意識が薄れる中、そんな微かな独白が浮かぶ。自分で何を口にしているのか、もうわからない。それでも、明日こそはもう少し動けるように……そう願いながら、私は再び浅い眠りへと沈んでいった。



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