第177話 犀川の逃走劇
馬で信濃の広大な土地を駆ける。松本盆地から犀川沿いに北上していく。このままいけば現代で言う長野市、そして川中島に入る。そこさえ越えれば武田領を抜け越後はすぐそこだ。
「ま、そこが最大の難所なんだけど」
川中島はこれまで5回、武田と上杉の戦いの舞台になった言わずと知れた重要地点だ。川中島には海津城があり、そこには多くの武田兵が駐屯しているだろう。出来れば見つからないように抜けたいが、見つかったら……その時はその時だな。
「もうすぐ日が暮れるな。今日はこの辺にしておくか」
俺は馬を近くの木につなぐ。馬が川で水を飲めるくらいに調整する。そして俺自身は火をおこし、川から魚を刀で突いて捕る。なんかキャンプみたいでちょっとテンション上がるぜ。
川沿いに点在する小さな村で買った米をこれまた小さな村で買った小さな鍋で煮込み、それと焼き魚で今日の夕食の完成だ。
「いただきます」
魚の味付けは目分量、いやテキトーに振った塩だけだがこれがなかなかに美味い。俺の目分量も捨てたもんじゃないな。ご飯は本当は炊きたかったが炊飯器がないので仕方ない。祈はかまどで上手くやるんだがその技術は俺にはない。それでも十分美味かった。
「ご馳走様でした」
あっという間にご飯を食べ終える。寝る場所はどうしようかと思ったが適当な木の下で眠ることにした。梅雨時だというのに屋根がないのは不安だが仕方ないだろう。火薬類だけは濡れたら困るので偶然見つけた木の穴の中に隠しておいた。
そして俺も眠ろうと横になった時、微かに音が聞こえた。周りが静かだからこそ、聞こえた音。横になって目を瞑ると急にこういう小さい音が気になったりするよね。馬が数騎、段々とこちらに近づいてきている。いや、その後ろにもっといそうだな。深志城から俺を追ってきたのかもしれない。
「逃げるか」
俺はすぐにそう判断する。いずれここのキャンプ跡は見つかるだろう。そうなれば俺がこっちに逃げたことに確信を持たれてしまう。昨日の夜から一回村に寄った以外はほぼ休まずに走り続けてきた。こうも早く追いつかれるとは思わなかった。
俺は火の燃えかすを川に落とし、黒く焦げた地面を周囲の石で適当に隠す。夜だし多少の痕跡が残っていても気づかれない可能性が高い。今はここから離れることが先決だ。急いで荷物をまとめ、馬に載せる。馬は丸一日走って相当疲れているが荷物を運んで歩くくらいなら問題ないだろう。馬をここで休ませたかったが仕方ない。
俺は馬を引き、さらに川沿いに北上したのち、森の中で一晩を明かした。眠っている間に捕まったなら仕方ない、その時は諦めようと思っていたのだが賭けに勝ったのだ。結構分が悪い賭けだったが、どうせ馬も俺も休めなければ明日に疲れが出て捕まっていただろうしね。
さらに2日ほどかけて俺はついに川中島の手前まで移動した。追手が来ているのかはわからないが少なくともここ2日は姿を見なかったし来ているとしてもまだかなり後ろにいるはずだ。
「それよりも問題は川中島の海津城を守る高坂昌信だな」
川中島は武田軍が厳重に警戒体制を敷いていた。もちろん俺を警戒しているんじゃなくて上杉への警戒なんだけど、それでも俺にとっても脅威になることは間違いない。
そしてここを守るのは武田四天王の高坂昌信。三方ヶ原の時、俺に頭を撃たれてワンパンされた彼だ。一度倒したからと言って侮っていい相手ではない。そもそも武将の強さとは腕っぷしの強さなんかよりどれだけ上手く人を扱えるかという点にお向きが置かれる。そういう視点で見れば三方ヶ原で右翼を率いていた高坂昌信がどれだけ厄介なやつかわかるというものだ。俺よりも将としてやってきた期間は長いわけだし武将としては格上とも言えるだろう。まあ武田四天王だしね。
川中島には広い場所に等間隔で見張りの兵が立っていた。戦中でもないのにこの人数。厄介だ。
さて、どうしたものか。いや、どうしたも何も見つからないで抜けるのが最善だ。そんなことは最初からわかっている。1人や2人になら見つかっても声をあげられる間もなく倒せばいい。だが、それ以上は厳しい。もちろん3人倒すのが厳しいわけではない、3人を声をあげさせることなく倒すのが厳しいのだ。一度声をあげられたら最後、わらわらと人が集まってきて無限組手が始まってしまう。それは勘弁してもらいたい。弾薬にも体力にも限りがあるからな。
「夜になるのを待って、バレないように行くしかないか。川が見える範囲にいれば道には迷わないし」
迂回すれば道に迷うし、このくらいしか手はないだろう。
ということで俺は夜になるまで近くの林に身を潜めることにする。そう思って歩き出したところ、
「見つけたぞ!! 坂井大助だ!!」
「は!?」
なんと後ろからそう叫ばれた。後ろからってことは深志城からの追手の奴らか! 忘れてたわけではない、断じて忘れてたわけではないのだがちょっと意識から外れていた。
「ヤバい。マジでヤッバい」
こんなところで大声を上げられたら……
「なんだ!? 賊か!?」
川中島の奴らまで反応しちゃうじゃん。思っていた通り、わらわらと集まって来る武田勢。その様子は奈良公園で鹿せんべいを持った人を追いかける鹿のように無数に集まって来るがごとく。ごめんもみじ、あの時助けなくて。
いつかの奈良旅行の時にもみじを見捨てたことを頭の中で詫びつつ、俺は咄嗟に馬に跨り、駆け出した。
「こうなったら今行くしかねえ。力技で突破する!」
一度見つかってしまったら最後、地の果て(武田領の端)まで追いかけて来るだろう。鹿せんべいを投げたら見逃してくれる奈良の鹿とは違う。コイツらの狙いは俺の命、投げ捨てるわけにはいかない。
俺は川沿いを馬に乗って駆け抜ける。正面に立ち塞がる邪魔者は銃で撃ち殺した。たまに近づいて来るアホは剣で斬り殺した。それ以外は全部無視。左側は川があるため敵は来ない。正面と右にだけ注意していれば大丈夫。
「待てェェ!! 織田の将よ!!」
後ろから死ぬ気で追ってきてるのは馬場信春だな。本人がこんなところまで追ってきていいのか? 暇人かよ。ってあいつの馬クソ速え!!
後ろに意識が向き、前の警戒が一瞬疎かになった瞬間、鋭い殺気を感じ慌てて頭を下げると、スレスレのところを斬撃が走った。
「お久しぶりです。そしてさようなら。あの時の借りを返しにきました!!」
「高坂昌信……!!」
俺を一時的とはいえ家臣にしたことがバレたらまずい馬場信春はここで俺を殺すつもりだ。高坂昌信も三方ヶ原で俺に敗れ、無様に気絶させられた屈辱を晴らそうと意気込んでいる。そして兵もどんどん集まってきている。ここでこの2人をまともに相手にすると兵に囲まれて逃げ場を失う。
とはいえ、この2人も逃がしてくれる気はないらしい。面倒だ。
「はーーーっ、仕方ないな。相手してやるよ。ちょっとだけだぞ?」
適当にあしらって、さっさと脱出しよう。俺は刀を抜くと、馬場信春の方に構える。高坂昌信からも目を離さない。リボルバーはいつでも抜ける。
「武田四天王・高坂昌信」
「武田四天王・馬場信春」
「織田家家臣にして伊賀の上忍・坂井大助」
「「参るッ!!」」
「来いっ!!」
武田四天王の2人を相手にした戦いが始まった。