第174話 深志城と信長包囲網
武田信玄が亡くなった。その情報はすぐに俺の耳に入ってきた。あの様子じゃすぐに死ぬと思っていたから正直、驚きがあるわけではない。
予想通り、跡を継いだのは武田勝頼。武田軍はこの後、居城の躑躅ヶ崎館のある甲斐に戻るらしい。馬場信春がペラペラと喋ってくれたわ。
「ってことは西上作戦は終わりってことだろ? 俺を甲斐につれてってどうするんだよ。他の武田家臣を暗殺でもすんのか?」
甲斐で俺にできることはない。以前、信春は俺を利用して手柄を立て序列の上に立つと言っていたし、信春より上の山県昌景なんかの家臣を暗殺させるわけではないだろう。
「いや、貴様は甲斐には行かせん。信玄さまが遺言で貴様を必ず殺すように言っていたからな。甲斐では貴様を隠し切れん」
「じゃあどうするんだ? っていうか信玄の遺言を無視するはいいのか?」
「あの世で怒られるかもしれんな。だが、それだけだ」
「死人に口無し、ってか」
遺言がここまで軽視されることってあるんか。しかも主人の。
「貴様には俺の領国に来てもらう。後のことはそれからだ。だが近頃、上杉と織田の同盟が成立し、越後に対する警戒が必要になっているからな。おそらくその戦線に入ってもらうことになるだろう」
「上杉と織田の同盟……!! 成立したのか」
三方ヶ原で一瞬で決着がついてしまったためすっかり忘れていたが武田に勝つために上杉に同盟を頼んでいたんだった。利家と祈がうまくやったのか。
「これはお前の差し金か?」
「まあな。武田に勝つには必要なことだったんだけど、お前らに見事におびき出されたからな。俺と信長の計画は全部パー、俺は武田に捕らわれてこのザマだ」
「このザマとはなんだ。家臣になってすぐなのにこの待遇だぞ。感謝しろ」
そう言われ俺は自分の格好を見る。そこそこいい服と立派な刀。さすがに銃は返してもらえなかったが、食事も他の家臣と同等。いい待遇と言って差し支えないだろう。
「ああ、感謝してるよ。だから銃を返してくれ」
「馬鹿言うな」
こいつは俺の強さの秘訣を銃だけだと勘違いしてやがるのか。三方ヶ原で俺が刀だけで真田兄弟を軽く叩き潰したのを忘れたか。そんな俺に刀を渡すなんて、馬鹿な奴だ。ま、勘違いしてくれるならそれでいい。能ある鷹は爪を隠す、つってな。
「お前は俺の他の家臣と共に深志城へ向かえ」
「はいよ」
「ああ、そうだ。お前と旧知の仲だという者がいた。それをお前の配下に付けてやる。連れていけ」
「旧知? 武田に知り合いなんて……」
深志城。駒場から真北、信濃のほぼ中心くらいの位置にある城だ。武田信玄の信濃国奪取の際、北信濃の豪族や上杉との戦いの拠点となった信濃の要所。さすが四天王、こんな重要拠点を任されるのか。
「織田方として攻めたら相当厄介な城であることは間違いない。そんな場所にあんたを肩を並べて来ることになるとはな」
俺と馬を並べて歩くこの男。かつて俺が滅ぼし、尾張から追い出した前犬山城主・織田信清。
「あぁ、肩を並べてつってもお前俺の部下になったんだっけか。じゃあ正確に言うと……」
「そんなことはどうでもいい。全く、信春様は何を考えておられるのだ。貴様は信長以外の下につくなどあり得ない。こんな危ないのを懐に入れるなど……」
「おいおい、主人にその口の利き方はないだろ? 敬語、あと様付けせめて殿呼び」
「調子に乗るな。だいたい貴様も信春様にタメ口お前呼びだっただろうが」
そういえばそうだった。主人が主人なら部下も部下ってか。まあ確かに自分がやっていないことを他人に強制するのは筋が通らないな。許してやろう。
「で? 俺たちはこの城で何をするんだっけか」
「貴様、主人の話をちゃんと聞け!! ここで信春様が戻るまで待機だと言われただろう。貴様は傷を癒せとも言われていたな」
「信春はどこへ行った?」
「話を何も聞いてなかったのか!! 信春様は信玄さまの葬儀だ。一度、甲斐に寄ってからここに来ると言っていたであろうが!!」
俺は騒ぎまくる部下を宥めつつ、武田の重要拠点に入城した。
時は武田信玄が亡くなる2月前、三方ヶ原の敗戦の方が届いてから1週間が経った頃まで遡る。
「報告です!! 将軍足利義昭が挙兵!! 多くの幕臣と兵8000と共に二条御所にて籠城しています!!」
今まで信長と協力関係にあった足利義昭が挙兵。三方ヶ原の武田軍の勝報を聞きそれに連動したと思われる。さらに松永久秀が信長を裏切った。浅井朝倉もここぞとばかりに織田家に牙をむいた。関東の北条氏政も武田と同盟し徳川領遠江に侵攻を始めた。以前から対立している石山本願寺と三好三人衆との戦いも継続中だ。
利家や信長は知る由もないことだがこの状況は後世、信長包囲網と呼ばれる、足利義昭が対信長を掲げ、協力を要請した大名の連合だ。今、織田信長は人生至上最悪の窮地に陥っていた。
「どうする!? まずは裏切った松永を……!!」
「馬鹿!! まずは武田だ!! 三河の野田城に駐屯しているがすぐに尾張へ、織田領に侵入するぞ!!」
「いや、まず近場の浅井を……」
家臣たちは全方位から迫る敵軍の対応に追われていた。尾張で武田軍を迎えうつ林秀貞軍。京都で足利義昭や三好に睨みを効かせる明智光秀軍。浅井・朝倉方面は丹羽長秀軍と浜松城から戻った佐久間信盛軍。その他各方面、一揆や反乱軍の対処に当たる軍。
これら以外の全兵力をどこにどう割り当てるか、それを今岐阜城で話し合っていた。
「やはり目下の問題はは武田だろう。林と水野の軍では到底止まるとは思えない。あの軍だけで武田を止められる確率は1割にも満たない」
「いや、浅井も……」
「この大うつけどもが!! まずは将軍だ。この状況を作っているのは将軍の権威により集められた武将たちだ。その現況を最初に叩く」
滝川一益、羽柴秀吉の意見を即座に却下し信長がそう言った。
「行くぞ!! 京都へ向かう!! 足利義昭を捕らるぞ!!」
織田信長と利家、荒木村重の三将は岐阜城を出陣。
信長包囲網を打開するための第一歩。まずは室町幕府を、滅ぼす。