第173話 誇り高き生き様
「んあ、ここは?」
「馬場信春様の部屋ですよ。全く、あれほど動いてはならぬと言ったのに」
「ああ、治久殿か」
「全く、何があったというのですか。信春様があなたが倒れているというから駆け付けて治療したのですよ」
「ああ、悪い。いろいろあってな」
「全く……」
凄腕ドクター治久に情報は共有されていないようだ。でなければ俺を治療するどころか処刑していただろうし。誰かが俺が信玄を殺しに行ったことの情報を止めたってことだ。そしてその誰かとは十中八九、この屋敷の主である馬場信春だろう。信春がわざわざ俺を助けた理由はなんだ?
「あなたが以前捕らわれていた屋敷の見張りの方もやられていましたし,
あなたを狙った犯行だと……」
そう話す治久。見張りのおっさん失神させたの俺だわ。そして俺が騒ぎを起こした犯人ってことは本格的に隠蔽されているようだ。
「絶対に動いてはいけませんよ!! 前の傷も開いていましたし、新しい足の傷も深いんですから」
「わかった。そんなこと言われなくても、またしばらく動けなさそうだし」
昨日失敗し、それだけならまだしも傷まで負ったのはまずかったな。これじゃあまたしばらく逃げられない。
「ま、生きてるのも不思議なくらいだし」
本来、脱出した後に気を失った時点で殺されているはずなのだ。運がいいと思っておくことにしよう。
「やっと目を覚ましたか」
「お前が俺を助けたんだって? 馬場信春」
話し声を聞きつけたのか、部屋に入ってきたのは馬場信春。顔を会わせたのは三方ヶ原の戦場、信玄との面会の時でこれが3回目。つまりほぼ他人。
「何で俺を助けた?」
「……治久、席を外せ。こいつと話をする」
治久が部屋から追い出される。部屋には二人だけ。他人に聞かれたくない話ってことね。
「で、なんだよ?」
「端的に言う。俺に仕えろ」
「断る」
はい、話終了。ってわけにはいかないらしい。
「貴様がいれば俺は武田家臣団の中で上に立てる」
「知るか。お前、交渉下手か? 俺のメリットを提示しろよ。あ、メリットってのは利点のことな」
「ふむ、利点か。・・・・・・思いつかん。信玄様に家臣になるよう言われて断った貴様を納得させられる利点は俺には提示できん」
まあ、そりゃあそうだよね。万の軍以上の利点なんてそうそうない。ましてや信玄の一配下にすぎないコイツが信玄以上の条件を出せるとも思えない。
「だが貴様に不利益になる事なら提示できる」
「は?」
「断れば貴様の首を刎ねる。今、ここでな」
コイツっ! 脅しに出やがった! 確かに今俺は動けない。この体でコイツを相手にするのは流石に手に余る。確かに最善手と言える。
「お前は俺に何をさせたいんだよ」
「言っただろう。武田家臣団の中で上に立つのだ」
しょうもない夢だな。馬鹿馬鹿しい。小物だな。傷を治したら隙を見て逃げよう。
「いいよ。付き合ってやるよ。報酬は現金でしっかり払えよな」
「約束しよう」
こうして馬場信春と俺の主従関係が成立したのだった。ま、どうせすぐ逃げるけど。
「信春様、信玄さまがお呼びです」
「行けよ。詳しい話は後で聞いてやる」
「ああ。あと貴様、言葉遣いは俺が戻るまでに直しておけ」
「はいはい。行ってらっしゃいませ、ご主人様」
信春は不満そうな顔をしたがさすがに信玄に呼ばれているとあらばすぐに行かなくてはならないようで、足早に治久と共に屋敷を出て行った。
場所は変わり、駒場にある武田信玄の仮館。昨日、大助が侵入した屋敷だ。その最奥の部屋に横たわる人物がいた。武田信玄だ。そしてその周りに多くの人が集まっている。
枕元に控えるのは七屋治久、武田家一の名医。そしてその反対に控えるのは武田家の次代の当主、武田勝頼。彼は父である信玄の手を握っている。この2人が今にも消えそうな信玄の命の灯を何とか繋ぎ止めている。
「勝頼、起こせ」
「は、父上?」
「起こせと、言っている」
「は、ハハッ!!」
先程まで力無く横たわっていた信玄が唐突に言った言葉に勝頼は動揺しつつも、慌てて言われた通りに背中を支え、体を起こす。
「勝頼、そして家臣団の者たちよ。聞け。我が最期の言葉じゃ」
その言葉に勝頼は息をのむ。信玄がもうすぐに死ぬことを何とか否定したいが、とても否定できる状態ではないことをここしばらくの信玄の容態を見ていた勝頼には理解できた。彼に今できるのは父の最後の言葉をただ聞くのみ。
「まず、この信玄の後を継ぐのは、勝頼。そなたに今後の武田を託す。甲斐・信濃・駿河に遠江・上野の一部という広大な土地。そこにいる多くの民。そのすべてを背負うのだ。……頼んだぞ」
「お任せを!! 必ずや父上の期待に応えてみせまする!!」
「そなたは我に認められようとよく励んでいたな。だが我はそなたの才能も、実力も、その努力もとうに認めている。自信を持て。我ら武田は源氏の血を引く高貴な武士の家系。そなたも源氏の武士として、源義家公や頼朝公のような誇り高い武士となれ」
「ハ! 必ずや父上のような誇り高き武田の頭領になってみせます!!」
別に信玄のようになれと言ったわけではないのだが、信玄はその言葉に満足したように頷いた。続いた話かけるのは武田四天王筆頭、今は片腕を失い休養中の山県昌景。
「昌景、明日は瀬田に旗を立てよ。他国に我の死を悟られぬよう、3年、3年は我の死を隠すのじゃ」
「万事、心得ました」
「勝頼を他の家臣と共に支えよ。もし、力不足だと感じたら輝虎に頼れ。あやつは頼ってきた者を見捨てることは決してない。思う存分利用してやれ」
「……ハ。心得ました」
まさか因縁の相手、上杉輝虎に頼れと言われるとは思わなかった昌景と勝頼。だがこの世で一番上杉輝虎を調べ上げた男がこの武田信玄。その戦略性や個人の武力、そして当然、その性格まで。輝虎のことを知り尽くした信玄だからこそ出てくる考えなのだろう。
「ああ、そうだ。坂井大助を逃すでないぞ、あれは危険な男だ。信長の元へあれが戻ればもう手が付けられん。武田領にいる、しかも手負いの今、必ず殺すのだ」
昌景はなくした腕の傷口を押さえて、悔しさをあらわにしながら強くうなずく。勝頼は父が死の間際にたかが織田の一家臣の名を上げることに少々驚きつつも、三方ヶ原で対面した鬼のような強さの男を思い出す。父がそういうのも納得の強さだが、勝頼は明らかに自分より力を認められている坂井大助という男に若干の嫉妬と苛立ちを感じた。
「そなたらには長い間、苦労をかけた。我が親友たちよ」
「何を申されますか」
「我ら全員、望んで信玄さまに仕えてきたのです。苦労などと思う者は一人も!!」
武田家臣団の面々が口を揃えてそう言う。信玄は一瞬、驚きと戸惑いの表情を見せた後、少し口元を緩ませる。
「深く、深く、感謝を申し上げる。そして、これからの武田を、頼んだぞ。我が頼もしき、生涯の親友たちよ」
「「ハハッ」」
「勝頼、お前は我を越えよ。そなたにはそれができる」
「父上っ……」
勝頼は信玄の手を強く握り、目には涙がうかんでいる。
「泣くな。さっきも言ったであろう。そなたの才能は我はちゃんと認めておるわ」
「はい、父上……」
武田勝頼はこれから大きく成長していくことになる。父に認められようとこれまで戦ってきた勝頼は、その呪縛から解放されその才能で甲信周辺地域の覇者となる。武田勝頼という武将が今、偉大な父・武田信玄の死によって完成する。
「では、さらばじゃ。親友たち、そして勝頼、強く、誇り高く生きよ」
1573年5月13日
”甲斐の虎”武田信玄 死去 享年53