第172話 暗殺計画と心理術
目的の部屋は屋敷の最奥にあった。部屋の前に側近が控えているが部屋の中には信玄が1人布団に横になっている。俺は屋根裏から部屋に降り立つ。
「来たか……」
信玄は寝たまま俺の姿を確認すると、弱々しい声でそう言った。明らかに病人といった感じだ。もう結構なお爺だからな。
「おう。お前の家臣になるって言いに来たわけじゃないのはわかってるよな?」
「ああ。我を殺しに来たのだろう? 遅かったくらいではないか」
「捕虜としての生活が案外快適だったからな。つい長居しちゃったぜ。そんなことよりお前、俺が殺すまでもなく死にかけじゃねえか」
俺の見立てではもう信玄の命は長くない。とはいっても俺に医療知識なんて無いに等しいのであくまでも顔色とかからの勝手な推測に過ぎないのだが。とにかくそんな医療知識もない一般人から見てもいつ死んでもおかしくないと思えるくらいには武田信玄は衰弱していた。
「お前が死にかけだから武田軍は西上作戦を切り上げて領国にもどってるわけか」
「然り。せめて織田の岐阜・京都は攻め落としておきたかったのだが」
「そんなことになる前に俺がお前と武田四天王を皆殺しにするところだった」
「はっは、ならこれでよかったかもしれんな」
力なくそう笑う信玄。続けて俺の目を真剣な顔で見つめ、強い声音で俺に話しかける。
「坂井大助、武田家臣団に入れ。我のいない武田を支える一助となれ」
「断る」
「……では、せめて勝頼が一人前になるまで、1年だけでも……」
「断る。こういうの『ドア・イン・ザ・フェイス』って言うんだろ? 有名な心理術だ」
『ドア・イン・ザ・フェイス』。俺も詳しくは知らないけど、ざっくり説明すると大きなお願いごとの後に本命のお願いを言うと通りやすいという心理術だ。一度断ってしまった罪悪感を相手に無理やり押し付けそれを利用するというちょっとずるい技だ。
武田信玄が心理術を使うというのはわかっていた。事実、同じことを俺はやられたことがある。川中島の時、家臣団に入るのを断った後、上杉のスパイをさせられた。あとでユナに話したら心理術だと判明したのだ。信玄はこういう心理術を多用して配下、あるいは敵も自在に操る。それが武田家臣団の士気の高さの理由のひとつだった。
「気づかれていたか。我も落ちたな」
「いや、最初にやられたときは全く気付かなかったわけだし。見事なもんだよ」
心理術なんて使われたら戦う以前に戦意すら持てない。ある意味最強の手段ともいえるかも。
「さ、雑談はこんくらいでいいか。遺言は? 俺もさっさと殺して逃げないといけないからな」
「こんな老い先短い老人を殺すことも無いだろう。どうせあと数日の命じゃ」
「ま、そうなんだよな。無理に殺さなくてもすぐ死にそうだ。でも明日にはケロッとしてる可能性もないわけじゃない。不安要素は取り除いておかないとな」
「奇遇だな。我も不安要素は取り除いておく主義じゃ」
信玄はそう言うと布団にもぐっていた右手を抜く。その手には短刀が握られている。流れるような動作で短刀が俺の胸を貫こうとする。
「なッ!? てめッ!!」
突きを何とか躱し、とっさにリボルバーを抜く。だが俺がリボルバーの引き金を引くより早く、信玄の投擲した短刀が俺の太ももを貫いた。直後、弾丸が放たれるが、弾丸は信玄の寝ている布団の端を貫通する。
「クソッ!!」
油断した。こんな死にかけのジジイなんていつでも殺せる、そう高を括っていた。まさか手傷を負わされるとは。いや、手傷どころか足から血が噴き出ている。
「信玄さま、何か大きな音が!!」
「ご無事ですか!?」
「クソッ!!」
銃声を聞きつけた見張りが部屋に入ってくる。逃げないと。いや、この見張り2人を殺して信玄も殺してから逃げる。それが最善。リボルバーを構え、引き金を引く。カチ、カチと頼りない音が響いた。
「弾が……」
「覚悟!!」
「ッ!! ”半月之小太刀”!!」
とっさに俺の知る僅かな短刀術で一人目の首を刎ねる。続く二人目の攻撃を後ろに下がって避けるが、短刀の刺さっている右足から血があふれ出した。
これ以上は無理か……
「信玄、また来る。次こそお前の首を貰っていく!!」
なんかアニメの噛ませ犬みたいな台詞言っちゃった。俺は屋根裏に何とか逃げ込み、そのまま屋敷から脱出する。
このままだと血痕で追われる。俺は近くの茂みに入り、服をめくる。足を布で巻き、簡易的な応急処置を済ませる。急に動いたから腹の古傷、古傷といえるほど古くないが、も開いてきた。
「これ、結構ヤバいやつ……」
出血がひどくて意識が朦朧としてきた。でもどこかに移動しないと……あ、これ、ダメなやつ……
俺はそのまま、意識を手放してしまった。
信玄の屋敷にて。
「殿、何が!?」
「あ、信春様」
四天王の馬場信春が部屋に入ってくる。残った見張りの1人はそれに気づき頭を下げる。
「信春、屋敷外に血痕があるか探せ。その者を探し、処刑せよ」
「ハ」
馬場信春はそう命じられ状況をすべて察知する。賊が入り、そのものが怪我を負い逃げ出したのだと。
信春は兵を動員し屋敷の周りを探す。だが偶然にもその者を見つけたのは信春自身だった。
「この者か」
坂井大助。三方ヶ原の戦で山県昌景の腕を吹き飛ばし、真田兄弟を圧倒し、信春にも啖呵を切ってきた男だ。さらに信玄本陣に迫り四天王二人と勝頼を相手に渡り合った、織田家最強と呼ばれる男。
処刑しろと言われている、だが信春にはこの男が何よりも魅力的に見えた。こいつを手に入れれば、信玄さま亡き後の武田家臣団で、四天王の中で、頭一つ抜けた立場に立てる。
「治久を俺の屋敷へ呼べ。それと兵たちは解散だ」
信春はこっそりと坂井大助を屋敷へ運ぶ。このことは信玄さまや勝頼さま、それと四天王、特に昌景にばれるわけにはいかない。昌景はこいつに腕一本分の恨みを持っているからな。
「治久、こいつを治せ。絶対に殺すなよ」
そう命じる。これが信春の野望の第一歩だった。