第165話 三方ヶ原の戦い 弐
敵の第一陣(真田)、第二陣(馬場信春)に防陣を抜かれた。後ろには平手殿も家康の近衛兵もいるから大丈夫だと思うが、この失敗は痛い。家康に脅威を近づけてしまっただけで俺は役割を果たせていない。だがそうなってしまっては仕方ない。さっきの敵は平手殿に任せて俺たちは敵の第三陣を止めることに全力を注ぐ。
「大助殿、家康様の命令でこの中根正照とその配下青木貞治、参上いたしました。家康様に大助殿に従えと言われております。何なりとお申し付けください」
「きてやったぜェ、俺はテメェの下なんてごめんだがなァ」
「おい! 指揮系統の乱れは戦の勝敗に直結する。いやでも従え!!」
家康は援軍として二俣城の2人と井伊直政、そしてその飼い主を送ってくれた。飼い主もセットなんて家康もさすが、わかってるな。
「よし、お前の暴れる場所は向こうだ。武田の第三陣の敵将を討ち取ってこい!!」
「命令すんなッ、だがまあここでテメエといるよりはマシだァ。行ってやるよ」
「鳥居忠広殿も直政殿と一緒に行ってください」
「かしこまりました」
「なんだァ、その態度の差はァ!!」
忠広が直政を引っ張って連れていく。その様子を尻目に俺は二俣城の2人に指示を出す。
「2人はこの防陣の前線をお願いします。そろそろうちの二、四、五番隊が崩そうなので、一度休ませますからその間だけ」
「お任せを」
あの武田の猛攻を前線で止めた3隊はそろそろ疲れて兵たちの集中力が切れてくる頃だ。一度下げて被害を減らす。
「彦三郎、常道は下がれ。この戦場じゃあお前らはもう役立てない。遠距離部隊の彦三郎は右翼の水野信元殿のところへ。常道は家康のところへ行って今後の戦略を一緒に練ってこい。俺の代役ってことでな」
そう理由をつけ一、三番隊を戦場から脱出させる。近距離部隊の邪魔になるからね。
あとは大吾たちの休憩が終わり次第、敵の第三陣と決戦だな。そう思った矢先に事態が急変する。
「織田の将、平手汎秀を討ち取ったぞォォ!!」
「「オオオォォォ!!」」
俺たちの後方から武田の歓声が上がる。平手殿が討たれた? マジで? ヤバくね?
「あるじ様、まずい。平手殿が討たれた。平手殿の隊は崩壊して逃亡してる」
「ああ、歓声が聞こえた。平手殿の隊をまとめられる奴はいないのか?」
「あるじ様しかいない、と思う」
「無理だ、ここから離れたらここが崩壊する。長利ならなんとかできるんじゃないか?」
「ん、もしかしたら」
「長利になんとかしろって言ってこい。……結構危うくなってきたな」
長利ならなんとかしてくれるだろうと思いつつ、俺は家康本陣の方の空を見上げてそう嘆息した。
「第三陣、来ます!!」
「なんとしても止めろ!! 家康様の元へ行かせるな!!」
前線は青木貞治が頑張ってくれているようだ。そこに井伊直政も側面から攻撃を仕掛ける。横撃で敵将の首を取るつもりか。これならいける。敵の首は取れなくても第三陣は確実にここで止められる。
「急報!! 敵将・馬場信春と真田の軍により本陣が崩壊!! 家康殿は敗走でございます!!」
「はぁ!? 今なんて?」
「家康殿が敗走でございます!!」
聞き返しても返事は同じ。家康が敗走したらしい。一体何があったってんだ。
《徳川家康》
「敵の第一陣と二陣が大助殿の防陣を突破!! 援軍に駆けつけた平手汎秀殿の部隊が応戦しています!!」
「大助でも流石に厳しかったのかな。まあ大丈夫でしょ」
「ええ、抜けてきたのはおそらく一部でしょうし大助殿の隊が崩壊した訳ではございません。十分止められます」
大助のところが一番厳しい戦いになるだろうし多少抜けてしまうのは仕方ない。平手汎秀殿も織田家の家老で3000の兵がいる。まだ大丈夫だ。
「急報、平手汎秀殿、討ち死に!! 討ち死にで御座います!!」
「なんだと?」
「これは、少々危なくなってきましたな。俺が出て止めます。許可を」
「ああ、任せる。頼んだよ、忠勝」
「お任せあれ!!」
忠勝が敵を止めるために本陣を出ていった。忠勝なら大丈夫。忠勝は大助にも負けないくらい強いと僕は思ってる。
だが、忠勝が出ていった少し後のこと。
歓声がだいぶ近づいてきている。忠勝でも苦戦しているのか。そんなことを考えていた時だった。本陣の陣幕が斬られ下半分が落ちる。そして残った上半分が乱暴にどこかへ投げ捨てられた。
「家康様、お逃げを!!」
一瞬何が起きたのかわからなかった。敵が本陣までやってきて僕の首を取りに来たのだと理解するまで数秒かかった。
「家康様!!」
「あ、あ、あ、」
「家康様、お早く!!」
忠次が持ってきた馬に乗ろうとして、焦りで足を踏み外し、馬から落ちた。
「家康様!! うわっ!?」
近臣の1人が僕を庇って槍に突かれて死んだ。
でもその時間のおかげでなんとか馬に乗れた。だがもう本陣は敵に囲まれている。金の扇の馬印が敵に倒された。
「家康様ァ!!」
突如、忠勝が敵を薙ぎ払いながら本陣に乱入して来る。
「家康様、呆けている場合では御座いません!! 今すぐ撤退を!!」
「俺たちが時間を稼ぐ、その間に!!」
忠次と忠勝がそう言うが、ここにはまだ多くの味方がいる。それを大将が見捨てて逃げるなんてあってはならない。
だがそれを言う前に、忠勝が馬の尻を手で叩いた。驚いた馬が僕を乗せたまま走り出す。
「忠次、家康様を任せたぞ!!」
「忠勝……任せろ!! 必ず家康様を浜松城にお連れする!!」
家臣たちだけで勝手に話が進んでいく。
「逃すか!! 我こそは武田四天王・馬場信春!! 家康殿、一騎討ち、受けられよ!!」
「徳川四天王が1人、本多忠勝!! 代わりに御相手しよう!!」
敵将を忠勝が抑えている間に忠次に連れられて陣を出る。浜松城への道だ。武田の兵が追ってきている。
「家康様、ここは私が!!」
「いや、僕がやる」
緊急事態ながらやっと平静を取り戻しつつある。僕は馬を走らせながら弓を引いて追って来る敵兵を射っていく。
「忠次、残された兵士は……」
「大丈夫です。あそこにはまだ大助殿や信盛殿、忠勝や数正もいます。誰かが殿になって浜松城まで連れ帰ってくれます。それよりまずは家康様が安全なところまで退避するのが先決です」
忠次と忠勝のおかげで僕はなんとか浜松城まで逃げ帰った。僕が城に入ると同時に、
「城門を閉めろ!!」
という声が聞こえた。それではまだ外にいる兵が、大助や数正、忠勝が城に入れない。
「駄目だ!! 城門は開けたままにせよ!!」
「しかし……武田が……」
「武田が来たなら撃退せよ!!」
そう怒鳴りつけた。自分が今まさに撃退できずに逃げてきたというのに。
馬から降り、どっと力が抜けた。城の縁側に腰掛けると尻に何か柔らかいものの感触がした。今まで気づかなかったが、逃げながら怖くて脱糞していたらしい。
「は、はは……」
なんて情けない。これが万の軍の率いる大将の姿か。涙が落ちた。武田に負けた悔しさ、これから滅ぼされるかもしれない不安感、そして何よりも自分の情けなさに涙が出た。