第157話 ”甲斐の虎”、動く
伊賀旅行から帰還した俺は織田軍の小規模の戦場を援軍として駆け回っていた。だがこの年は大きく戦況が変わることはなく、織田とその他勢力との境界線はほぼ動かなかった。これは尾張を統一してから落ちることのなかった織田信長の勢いが多少なりとも落ちていることの表れであった。これは今後、今まで勢いのあった信長に対して明確に敵対行動をとらなかった者たちも信長に対して兵をあげる可能性が出てきた。さらには裏切りということも考えられる。
「面倒な状況になったな」
「姉川の直後に浅井朝倉を滅ぼせなかったことがここで効いてくるとは。せめて浅井は今年《1572年》中には滅ぼしたかったが……」
「小谷城の近くに築いている小城が浅井の妨害でなかなかうまく進んでないからな。あれでは小谷城攻めに踏み切れん」
信長、奇妙丸改め信忠、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、柴田勝家、前田利家、俺、平手汎秀、佐久間信盛、稲葉良通、安藤守就という織田家臣団の主要メンバーが岐阜城に集まり今後の方針について議論していた。
「まずは浅井だ。浅井を滅ぼさなければ近江が安定しない。近江が安定しないと越前や長島、本願寺を攻めることが出来ん」
「概ね、異論はありません。ですが昨年、関東の支配者であった北条氏康が死にその後継者である氏政は武田の駿河侵攻で決裂していた甲相同盟を復活させました。これで東に憂いが無くなった武田の動きを注視しなくてはならないと考えます」
「武田とは同盟があるが?」
「武田は同盟関係である家康殿と駿河遠江の境で偶然出会った時、家康殿が少数と見るや否や襲い掛かってきたと報告がありました。あまり信頼していい相手ではないと考えます」
信長が浅井に対する方針を示したのに対し、丹羽長秀が武田に対しての警戒を強めるように進言する。
「大助はどう思う?」
「なんで俺?」
「お前は武田信玄と面識があるだろ」
そう利家が俺に意見を求める。武田信玄とは川中島の戦いの時数回話しただけで、そこまで長く話したわけではないのだが。
武田信玄か……居るだけで圧がすごい人だったのを覚えている。
「信頼できる、と言い切ることは出来ないと思います。ですが形だけでも友好的な関係である今の状況を保った方がいいと思います。武田信玄との戦は絶対に避けた方がいい」
「それは、大助殿は武田と我らが戦をしたら我らが負けると言いたいのか?」
柴田勝家の強い視線が俺を捉える。ここまで金ケ崎以外ほぼ負けていない織田軍の将たちだ。負けると言われてそんな筈がないと思ってしまうのも理解できる。
だが俺は臆さずにはっきりと言い切った。
「間違いなく負けます。10回やって10回、必ず」
「なんだと!!」
勝家をはじめとする何人かが激昂する。だが事実だ。
「大助、なぜそう思う?」
黙って俺の言うことを聞いていた信長が静かに問いかける。
「武田信玄は人の扱い方がとてもうまい武将です。そして武田軍の士気の高さは常時、今川義元を討った時の俺たちくらいあると思っていいです。もちろん、信玄が一声上げれば何倍にも跳ね上がります。そして兵一人一人もきちんと練兵されているうえ、5人組という制度があり脱走も裏切りもほとんどない。間者を入れることすら難しいでしょう」
いま言ったこと、すべて織田軍ではできていない。しかも武田は甲斐・信濃・駿河という大国を治める大名だ。兵も多い。
「そうか、勝てんか」
信長はそう静かにこぼす。
「こうなるならばもっと贈り物でもしておけばよかったかもな。なあ大助?」
「というか今でも遅くないのでは? 屏風や茶器なんかは喜んでくれるかもしれませんよ」
武田との関係悪化は今の状況的にも俺たちの天下に致命的な打撃を与える。贈り物で改善できるなら100個でも200個でも贈るべきだろう。
結局信長は数点の屏風なんかを武田信玄に贈ったらしい。信玄から感謝の手紙が届いていた。
だが、その数か月後の1572年10月、武田軍が駿河・信濃より徳川家康領である三河・遠江に侵攻を開始した。
「徳川領、遠江・三河に武田が侵攻し要所である長篠城が落とされた。またこれも重要な拠点である二俣城が武田に現在包囲されている。家康から援軍要請が届いている。この軍議で誰を行かせるか決めるぞ」
厳しい顔つきの信長がそう言い軍議が始まった。
「武田は通常一月かかるような城攻めをわずか3日で落とし家康殿の居城である浜松城に向かっている」
「以前大助殿の言っていた武田の強さというのは本当だったのか」
「いや、思ってたよりかなりヤバいな。このままじゃあっという間に三河遠江が武田領になるぞ」
このままでは織田の東側、主に北条武田方面の強力な同盟者である家康を失うことになる。織田軍だけで他方面の敵全てを相手することは不可能なため家康を救うことは絶対だ。
そして問題は誰が行くかということ。前回の軍議で散々俺が脅したうえに現在進行形で武田は猛烈な勢いで徳川の重要な城を落としまくっている。そりゃあ怖いよ。俺だって嫌だ。だが誰が行くかという話題になったとき、最初に矛先が向くのは……
「大助、行ってくれるか?」
はい、俺ですよね。武田軍を直で見たことあるの俺しかいないし。さらに徳川軍と一緒に戦うことになるため、家康に信頼されていて模擬戦などで徳川家臣団の面々とも多少なりとも顔が広い俺はこの任務に最適というわけだ。
「わかりました。ですが2つ条件が」
「言ってみろ」
「家康殿への援軍は俺を総大将にして、最低でも2万の軍をつけてください」
ゆっくりと浜松城に迫っている軍と二俣城を囲んでいる軍を合わせると武田軍はほぼ3万。二俣城を落とした後に合流すると考えられる。
正直、武田に勝つにはこちらは4万は欲しい所だ。家康も兵を集めているが精々8000ほどだろう。だがさすがに援軍で3万も出せる余裕は今の織田軍にはない。妥協の2万。最低でも織田から2万、徳川の8000合わせて28000、この兵力で浜松城に籠城すればなんとか戦になるだろう。それでしばらく耐えている間にもう一つの条件が達成されれば織田から更なる援軍が送ることが出来る。その軍と合わせて4万ほどで武田と全力の勝負を挑めば、勝機はある。
「厳しいが、なんとかしよう。もう一つは?」
「越後の上杉に同盟の使者を送ってください。武田と敵対している上杉と同盟すれば武田には後方に憂いが出来ます。しかも越中や加賀の一揆衆も無視はできない。その方面にいる織田軍の兵を減らして、籠城する浜松城に更なる援軍を送ってください。そうすれば、勝機はあるかと」
俺が出した勝ちという言葉に信長がハッと顔を上げる。絶望的な状況に一筋のわずかな光が差し込む。
「よし、わかった。条件はすべてのむ。お前の隊は4000ほどだったな。ならあとは……佐久間信盛、平手汎秀、水野信元でどうだ?」
「問題ありません。信盛殿、副将をお任せしたいのですが」
「任されよ。大助殿、この戦、勝ちましょうぞ!!」
「はい、信盛殿!!」
今まであまり関わりの無かった将だが実力があることは間違いない。平手も織田家代々の家老の家系だし、水野も尾張・三河の広い地域を支配する有力武将である。数もほぼ2万。戦力的には問題ないはずだ。
「上杉への使者は……」
「俺は利家を指名します。いいだろ、利家?」
「ああ、俺は上杉輝虎殿と面識があるからな。信長様、よろしいですか?」
「あ、ああ。というかなぜお前らは各国の大名と面識があるのだ、おかしいだろうが」
あれ、あの時のことはあまり詳しく話してないんだっけ。ざっくりとは話したつもりだったんだけどなぁ。
とにかく、援軍も使者も決まり、ついに織田・徳川と”甲斐の虎”武田信玄の戦が始まろうとしていた。