第122話 似た者父子と唐葵
その日は唐突に来た。外がまだ薄暗い時間に隣で寝ている祈が唸り声をあげていた。
「ど、どうした、祈!?」
「お、お腹……」
祈はかなり大きくなったお腹を押さえている。それを見て、俺は冷静に何が起ころうとしているか理解した。いや、精神状態は冷静とは程遠い状態だったのだが不思議と頭は何をすればいいのか理解していた。以前からこうなったらこうする、という想定していた甲斐があっただろうか。
「お宮!! お宮!! 祈を少しの間だけ頼む!! 俺は産婆さんを呼びに行く!!」
「は、はいっ!!」
住み込みのお手伝いさんに祈のことを少しだけ頼み、俺は産婆さんを呼びに家を飛び出した。岐阜城下町の中心あたりに腕がよいと評判で、妊娠中の祈の検診をしている産婆がいるのだ。そこまで全速力で走る。この時間は人がおらず、ぶつかる心配がないため本気で走れる。
「すみません!! 嫁の陣痛が来たようでして!!」
「あ、お武士様!! すみません、今立て込んでまして!! ちょっとそこの手ぬぐいを取ってください!!」
「え? あ、はい……」
かけてあった手ぬぐいを取ってカーテンで仕切られたところから出ている手に渡すのとほぼ同時に奥から女性のうめき声と一瞬遅れて赤ん坊の産声が聞こえてきた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ!!」
それから5分ほど待たされたのち、産婆さんが俺の前に現れた。
「お待たせしました。それで、祈さまの陣痛が来たと?」
「はい、今すぐ……」
「今すぐ行きましょう」
俺が言うより先にそう宣言し、産婆さんが先に部屋を出る。
「ちょっと待って、俺の家、知ってるのか?」
「ここらじゃ有名ですよ。信長様の次に大きな屋敷だって」
「そうなのか……」
「ラブラブ夫婦が住んでるって有名ですよ」
「え”ッ!? ……なんでそんな噂が……?」
「お武士様がお嫁さんを連れて街歩きなんて滅多にないことですよ」
「そうか……そうなのか……」
この世界の常識にもだいぶ慣れたと思ってたけど、まだそんなところに穴があったか……。
「さ、急ぎましょう」
「ああ、急がないと」
産婆さんを担いで全力ダッシュ。産婆さんはちょっとだけ気持ち悪そうにしていたが祈の方が大変なので勘弁してもらおう。
「今戻った!! お宮、祈は?」
「今も苦しそうです」
「そうか、産婆さんを連れてきた。案内しろ」
「はい。って、えええ!?」
お宮が驚きに声を上げる。お宮が見ている方を見ると産婆さんが目を回していた。
「あ」
なんとか復活させ、祈を見てもらう。男子禁制と言われて部屋を追い出された俺は部屋の外でおろおろしながら待つことしかできない。
10分ほどで産婆さんが出てきた。
「あの、祈は?」
「産まれるのはまだまだ先です。今からそんな様子じゃもちませんよ。少し落ち着いてください」
そう言われても落ち着けないものは落ち着けない。そんな俺を見かねてか産婆さんは俺に指示を出してきた。
「お武士様、申し訳ありませんが手ぬぐいとお湯を用意していただけますか? 私はこの家のことをよく知りませんので」
「あ、ああ。わかった」
慌てて湯を沸かし、手ぬぐいを渡すとその後は次から次へと雑用を任せられた。何もしないでオロオロしていても邪魔なだけだろうしこの方がいいだろう。それに動いている方が気が紛れた。これも産婆さんなりの気遣いなのだろう。
午前中は食事を作ったり、消毒したりなど仕事があったが、午後になり日が傾いているのがわかるころになると仕事がぱったりとなくなった。もうすぐだということなのだろう。俺は彦三郎と自室で報告が来るのを待っていた。
「なあ、彦三郎」
「なんですか?」
「無事に生まれてくるよな?」
「はい。大丈夫ですよ。信じて待ちましょう」
「ああ、そうだな……」
ここまで来たら俺のできることはない。祈と産婆さんを信じて待つだけだ。そう頭ではわかっているのにさっきから俺はソワソワして部屋を歩き回り、手は手汗でびちょびちょだ。なんてたって前世も含めて初めての経験だ。しかもここは戦国時代。何かあっても救急車は来ないし、緊急オペだってできない。現代でいろいろなリスクがあることを知っているからこその不安感もあるんだと思う。それに対して彦三郎は落ち着いている。
「なあ、彦三郎」
「なんですか?」
「無事に生まれてくるよな? 祈も大丈夫だよな?」
もう何度目かもわからない俺の質問に彦三郎は「大丈夫ですよ」と笑いながら答える。
「おい、何笑ってんだ。こっちの気も知らずに」
「すみません。我が主の様子が我が主の生まれる日の大膳様そっくりだったもので」
「父上に?」
「ええ。あの時の大膳様もこうして部屋の中をぐるぐる回って座ったと思えば大助様と同じ質問をなされるのですよ。子は無事産まれるか、梅は大丈夫か、と」
オロオロする父上の姿が容易に想像できる。その想像上の父上の姿に俺の口からふっと笑みがこぼれる。
「ありがとな、彦三郎。少し、落ち着いた」
「よかったです」
坂井大助邸に赤ん坊の産声が響き渡ったのは、それから小一時間たった頃だった。俺は報告が来るより早く自室を飛び出し、祈たちがいる寝室に向かった。途中で報告に来るお宮とすれ違ったが大した問題ではない。寝室の襖を勢いよく開ける。
「旦那様」
「祈、赤子は?」
「ほら、ここですよ」
祈の腕にとてつもなく可愛い赤子が見える。そうか、この子が俺達の子か。
「おめでとうございます、祈様、大助様。とても元気な男の子ですよ」
「旦那様、抱いてみますか?」
「あ、ああ」
生まれたばかりの赤子をそっと抱える。軽いけど、重い。
「可愛いな」
「でしょう? お名前はどうするのですか? 幼名、決めねばならないでしょう?」
「ああ、そうだな」
赤子の顔をじっくりと見る。もっとよく見ようと外の光が入る場所へ行った。初めて見る陽の光に赤子は驚きながらも、まだ不自由な右手を太陽の方にかざした。
「あう」
庭にはたくさんの唐葵が咲いていた。たくさんの唐葵は太陽に照らされてキラキラと輝いていた。たしか葵の花言葉は……
「決めた」
「教えてください」
「葵丸」
「え?」
「唐葵のように、空にまっすぐ伸びるように成長して欲しい。それに葵の花言葉は”豊かな実り”。自分の願いや夢を実現できる子になってほしい。だから、葵丸」
祈は少し考え、俺から返された赤子の顔をみると深くうなずいた。
「いい名前だと思います。よかったですね、葵丸? お父様が名前を付けてくださりましたよ」
「あうあ~」
祈がそう葵丸に笑いかけると、葵丸も上機嫌そうに天使のような笑みを見せた。