思いがけない幸運
クレが目を覚ますと、太陽は既に東の空高くへのぼっていた。
眩い陽光がまくらもとの窓から差し込んでいる。外ではもうラルフが作業を始めているらしく、ゆったりと回る水車と、粉挽き用の器械の立てる小気味の良い音が聴こえてきていた。
クレは寝台の上に身を起こし、大きく伸びをしてみた。腰の痛みはだいぶおさまったが、今のうちから調子づいて重いものを持ち上げたりしてはまたすぐぎっくりやってしまうから、とラルフに今日までは様子を見るよう言われている。確かに、思ったより腰の違和感は長引いていた。人体の構造は欠陥だらけだ。ある程度人の姿に慣れた今もやはり生き物は四足で動いた方が楽だと思う。
「……今日も遅く起きてしまった……」
口に出してから、そのことを真面目に申し訳なく思っている自分にクレは気付き、嘆息した。
クレがラルフの家に来てから三日目の朝だった。
昨日はほとんどの時間を寝台の上で過ごした。クレとしては多少腰の痛みがあっても動き回っていたかったのだが、ラルフがそれを許さなかった。結局、ラルフの剥いてくれた林檎を食べ、ラルフの用意してくれた湯で身体を洗い、ラルフの母のお古だという服に着替えたりしているうち、とうとう家から一歩も出ずに一日が終わっていた。
窓から身を乗り出し、クレはラルフが作業しているはずの水車小屋の方を眺めてみた。器械の傍で作業しているはずの彼の姿は、小屋の屋根に隠れていて母屋のこちらからは見えない。
クレは大きく息を吸って新鮮な空気で肺を満たし、それからゆっくりと吐き出した。
「……」
ここへ来たとき、クレは力になりたいと彼に言った。
それは『クレハ』としての言葉だったが、ラルフにそう言った気持ちに偽りはない。悪戯狐の自分らしくないとは思うけれど、しかし本心だ。あの日、部屋で一人泣いているラルフを見たとき、クレは心から彼の力になりたいと思った。母を亡くしてから天涯孤独の身である自分と、境遇をつい重ねたのもある。……それに、夢の中のひとりぼっちの男の子のことも、思い出さないわけにいかなかった。
一人で辛そうにしていたラルフに寄り添うことが罪滅ぼしになると思った。だからある程度ラルフの生活が落ち着くまでは、奴の支えになってやろうと考えていた。
しかし想定していた以上に恨みを買っていたことがわかり、しかも毛皮を剥ぐとかものすごいことを言われて、あの夜は流石に気が動転してしまった。
何もまだ致命的な状況に陥ったわけではない。おっとりしていて何をされても怒りそうにない印象だっただけに、新しく知ったラルフの一面がクレにとってかなり衝撃的だったというだけだ。
ラルフがクレハの正体に気付いた様子も、今のところはない。そうでなければ腰をやって動けない仇を前ににこにこしながら林檎を剥いていたりなんてしないだろう。
……疑念を持たれている風でもないし、よほどのヘマをやらかさない限りはまだ大丈夫なはずだ。
「でもこのままここにいるのは、良くないよなぁ……」
クレはぼやいた。
ラルフの力になりたいという気持ちは今も変わらない。一応、腰をやってからも料理以外の家の中の家事を手伝ってはいる。しかしあまり役に立てている気がしないどころかどちらかといえば面倒をかけてしまっている現状を顧みるに、このままここに居座ることが必ずしも良い結果を招くわけではないはずだ。一旦住処に帰って、そう、態勢を立て直そう。
「しかし林の中は奴が仕掛けた罠があって危険だし、かと言って人の姿のまま出掛けるのも理由がいる……」
クレは大きくため息を吐いた。そのとき、突然背後の戸がバンと勢い良く開かれた。
「クレハさん!」
「ななな何事でしょう?」
焦って振り向いたクレに向かって、ラルフがただことではない様子で真っ直ぐに詰め寄ってきた。
まさか今の独り言を聞かれたのかと縮み上がるクレの肩越しに、ラルフは外の様子を確かめ、それから窓を閉じてネジ式の鍵をきつく締めた。
「村の近くに熊が出たみたいなんだ」
ラルフはクレの方を向き、深刻そうにそう切り出した。
「村のそばを通り掛かった行商人の一団が襲われたらしい。幸い死人は出ていないそうだけど、馬みたいに大きな熊だったって。猟銃を持った村の連中に召集がかかったから、僕も行ってくるよ」
「あっ、はい。お気を付けて」
独り言を聞かれたのではなかったらしい……クレは胸中でほっと一息吐いた。
「一応、窓も戸も全部閉めたし鍵も厳重に掛けていくけど、僕が戻るまで絶対に外に出ちゃ駄目だからね。熊が今どこをうろついてるか分からないから」
「あっ、はい」
「じゃあ、行ってくるよ」
そう言ってラルフは部屋を出て行こうとしたが、ドアノブに手を掛けたところでふと立ち止まり、クレの方を振り返った。
「……その、腰は良くなったかい?」
「え? あっ、はい!」
「良かった! ……ああでも、まだ無理はしないようにね!」
ラルフはそう言うと、じゃあ! と手を振って今度こそ扉を閉めて部屋を出ていった。
一人取り残されたクレは、閉じた戸に向かって微笑みながら軽く手を振った。
そうか、今日ラルフ居ないのか……。
「……」
……ん? ……んん? んんん!?
――もしかして、今なら簡単に抜け出せちゃうのでは?
思いがけなく舞い込んできていた幸運に、クレは訳もわからないまま、とりあえず胸の前で拳をグッと握り締めた。