命あっての物種
夕食後、「今日は疲れただろうしゆっくり休んでほしい」というラルフの言葉に甘える形で先に二階の部屋へ引き取ったクレは、部屋の灯りを消してすぐ床の上にしゃがみ込み、床板にピッタリ耳を当ててじっと階下の様子を伺った。
やがてラルフも部屋に戻ったのか一階の気配がしんと静まった頃、クレは暗闇の中そそくさと立ち上がり、早速行動を開始した。
――よし! 逃げよう!
ラルフの力になりたいと言ったクレの決意は今や完全に挫けていた……。
「こ、怖すぎる……」
クレはぶるりと身震いした。
まさかあれほどの怒りを買っていようとは……予想外だ。
ラルフはおっとりしてそうだし、なんならこちらの考え過ぎでクレに兎を逃がされた一件自体ほとんど忘れてるんじゃないかくらいに考えていたのに、甘かった。
クレをぶち殺したいと言っていたときの目が、あまりにもマジだった。……へーこらして許してもらおうなんて甘い考えが通じる相手ではない。
今もしも狐の姿で彼の前にノコノコ出て行ったりしたら、一瞬で毛皮にされてしまうことだろう。
「流石にストールにされるのはごめんだっ……」
幸い、二階ほどの高さなら人の姿のままで問題ない。クレは裏手の窓を慎重に開け、外へするりと飛び降りた。
――今のところ、ラルフはクレハの正体こそ彼の憎む紅毛狐であることには少しも気が付いていない様子だ。そもそも人間に化ける狐がいること自体この辺りの人にはあまり知られていないのだと母は言っていたし、クレにしても自分と母親以外では同じ化け狐を見かけたことはなかった。
ならば、このままある程度離れるまでクレハの姿でやり過ごし、林に入ったところで狐に戻ってさっさと住処へ戻る。
それでもう、こんな危険とはおさらばだ。
駆け出そうとして、ふとクレは足を止め、ラルフの家を振り返った。
明かりの消えた一軒家。村の外れにぽつんと建つ、寂しい水車小屋……。
――結局自分はラルフをまた一人ぼっちにするのだ。
――助けになりたいなどとのたまっておきながら、シチューだけ食べてすたこら逃げ出すのだ。
「……」
ありがとう、そう言ったラルフの、救われたような笑顔が脳裏に蘇る。その言葉をもらったとき、クレはかつて感じたことのない、胸の底から込み上げてくるような喜びを確かに感じたのだ。
それは悪戯がうまくいったときの得意な気持ちとはまた違う、もっと素直な、心からの嬉しさだった。
………………。
「――い、いやっ! やっぱり命あっての物種だっ!」
クレは思い切ってラルフの家に背を向けた。
ラルフには申し訳ないが、許してもらいたくてストールにされていたのでは産んでくれた母にあの世で合わせる顔がない。
……それに、そう、これでどうしようもなくなったわけではないのだ。
これからは山菜を採って毎朝玄関の前に届けるとか、そういうことをしよう。……というか絶対そっちの方が良い。なんでその発想がこれまで自分に生まれなかったのか謎だ。
ラルフが何やら大変そうにしていたので、仕事を手伝ったらすごく喜んでもらえるんじゃないか、そしたら兎を逃した一件も全部水に流してもらえちゃうんじゃないか……などと単純に考えたわけだが、狐の自分が人の家に入り込もうなど土台無理な計画だったのだ……。
「……むぅ」
林へ向かいながら、自分でも驚くくらいクレは打ちひしがれた気持ちだった。
本当、この頃何もかもうまくいかない……。
クレは重い溜息を吐いた。
と、突然横の草むらから何か黒い影が飛び出し、クレの前を俊敏な動きで横切って行った。
「!」
見れば、影の正体は兎だった。まだ親元を離れたばかりだろう、若い野兎だ。
兎はクレの見ている前をぴょんぴょん跳ねるように駆けていくと、そのままの勢いで元気良く林の中へ飛び込んでいった。
「び、びっくりした……」
クレは胸を押さえて呟いた。
心臓がまだドキドキいっていた。いや、兎くらいで怖がり過ぎなのだが……。
……でも、一瞬、ラルフが来たかと思った……。
クレは自分の恐怖心を振り払うようにぶんぶん頭を振ると、獣の領域である林の闇の中へ、そっと足を踏み入れていった。
「あれ、クレハさん?」
――林へ入ってすぐのところで、クレは猟銃を携えたラルフとバッタリ出くわした。
「きゃあああああああぁああっ!!??」