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約束

「ぐぇぇ……疲れた……」

 夕方、クレはラルフから自由に使って良いと言われた二階の部屋で狐の耳も尻尾も露わにベッドの上にぐったりと横たわっていた。

 労働はクレにとって初めての経験だった。作業中は張り切っていたが、長い時間身体を酷使したお陰で全身がヘトヘトだ。尻尾の先まで疲れ切っている。

「……むぅ」

 ……その割に、意外と晴れやかな気持ちなのが何とも不思議な感覚だった。

 クレはごろりと寝返りを打ち、頭の下で腕を組んで天井を見上げた。

「意外とうまくいってしまった……」

 ……それもこれも、母さんから色々教わっていたお陰だ。

 人としての振る舞いをクレに仕込んだのは母親だった。クレの母は人に化けるとき常に敬語で話し、人当たりの良い瀟洒な振る舞いを心掛けていた。そうすることで人間の警戒心を解くことができるというのが彼女の考えで、そのために母はクレにも人間社会の作法について厳しく教え込んだ。クレにとっては退屈なだけの授業だったし、当時は将来に意味のあることとも正直思えなかったのだが、現状を見るに、本当に母の言う通りだったと言える。

 真面目で瀟洒なメイドなんて狐の自分からは想像もつかないが、中々役にはまれていたと思う。心のあり方が外面に顕れるのと同様、精神もまた器である肉体のかたちに引っ張られる、などという話も母から教えられていたが、そうした特性も働いてくれたのかもしれない。

 何にせよお陰で、我ながら無策で押し入った割にすんなりラルフに近付くことができた。他に、ラルフの母に関する何らかの事情も絡んでいるようではあるけれど、まあ、そちらはおいおい分かることだろう。

 ……うまいこと住み込みで働く方向に話を持っていけたのも好都合だった。ここから山の住処へは微妙に遠いし、通うとなれば中々に大変だったはずだ。狐の姿を忘れてしまわないように定期的に元の姿へ戻る必要はあるが……その際はラルフに疑われないよう、くれぐれも注意しないといけない。

「!」

 クレの耳がピコンと跳ねる。

 廊下をこちらへ近づいてくる足音が聴こえた。歩幅の大きな、背の高い男の足音……などと普段の癖でつい相手の大きさをはかってしまったが、普通にラルフだ。

 クレは寝台から起き上がると、髪飾りで狐の耳を隠し、尻尾をスカートの中へ丸め込んだ(人化の術が母ほど上手くないためにそれら狐の名残をまだ完全に消すことはできないが、気付かれない程度に目立たなくすることはできる)。間もなく戸がノックされた。

「クレハさん。ご飯、用意できたよ」

「はい! いま行きますね!」

 クレがそう返事すると、ラルフはゆっくりで良いからと言って去っていった。

 ――成程。晩御飯か。

 そういえば、何やら美味しそうな匂いが下の階からずっと漂ってきていた。

 人間の食べ物。冷たい固いパンなら何度かくすねて食べたことがあるけれど――昼の軽食にラルフと食べたのもそのパンだった――調理されたもので一丁前にもてなしを受けるのは、言うまでもなくクレにとっては生まれて初めてのことだ。

「……」

 実は村に降りるたび、家々から立ち上る芳しい匂いの正体がずっと気になっていたのだ。

 人間の料理というのは、一体どんな味なのだろう? と。

 ――前々からの望みの一つが、思わぬところで叶いそうだった。

 クレはペロリと舌なめずりすると、早速部屋を出てラルフの待つ階下へと下りていった。




 ラルフの手料理――兎肉のビーフシチューだった――は、クレの想像の十倍くらい美味だった。

 あまりに美味しすぎて、一口ひとくち口に含んだ瞬間、まるで舌に電流が走ったようだった。

 ――お、美味しい!!??

 ――何と言えば良いのか、とにかく、美味しい! 美味しすぎる!

「大丈夫? 味付け濃かったりしない?」

 あまりの衝撃に驚いた顔をしていたのだろう。テーブルの向かいからラルフが心配そうに尋ねてきた。

「いえ! 全然! むしろ……美味しいです。こんな美味しいの、生まれて初めて食べました……」

「そんな……でもお世辞でもそう言ってもらえて嬉しいよ」

「いえっ! 本当にっ……」

 もっとこの感動を、余すところなく言葉で伝えることができたら良いのに……! クレは本気でもどかしい思いだった。

「でも、良かった……」

 とほっとしたようにラルフ。

「実は、シチューは僕の得意料理なんだ。これがダメだったらどうしようって思って。クレハさん、美味しいものたくさん知ってそうだし……」

「成程! いえ全く、本当に美味しい……」

 これも母に昔使い方を教えられていたスプーンを駆使し、クレはパクパクとシチューを食べ進んだ。

 うまいうまい。

「気に入ってもらえたなら、嬉しいな」

 向かいで、ラルフが昔を懐かしむように目を細める。

「母もこれが大好物だったんだ」

 おおおおお、とクレは唐突に胃袋を締め上げられたような思いだった。

 罪悪感が凄まじすぎて、舌に乗った肉の味が一瞬わからなくなる。

 ――そ、そうかっ……。

 ――ラルフが兎を獲ってお母さんに食べさせたがってた料理がっ、これかっ……。

 それを自分が食べて良いのかと激しく自問するが、しかし今更残すわけにもいかない。美味しい美味しいとは思いながらも、胃袋をギリギリ締め上げられるような思いで何とかクレはシチューの残りを完食した。

「ご、ごちそうさまでした!」

 空になった器にスプーンを置き、急いで食べたために少々胸焼けしたお腹のあたりをさすりながらクレは言った。

「とても……美味しかったです!」

「良い食べっぷりだったね。作った甲斐があったな」

 と、嬉しそうにラルフ。

「一人だと簡単に済ましてしまうから……やっぱり食べてくれる相手が居てこそだね。こちらこそ、久々に料理に手間をかけられたのはクレハさんが仕事を手伝ってくれたからだよ。改めて……ありがとう。今後とも、その、是非よろしく」

「いえ……えへへ」

 クレは照れて頭をかいた。

 ――それからふと、あることが気になった。

「そういえば、シチューに入っていた兎の肉は、どうしたんです?」

 例の罠をまた仕掛けて自分で獲ったのだろうか?

 でも、あのときのラルフはお母さんに食べさせたくてそうしたわけで、普段から罠を仕掛けて兎獲りをしているわけではないはずだ。

「人から貰ったものですか?」

 クレが尋ねると、ラルフは「ああ」と、少し得意そうにはにかんだ。

「兎は、たまたま獲ったんだ。まあ、本当に狙っていたのは別の獲物なんだけど」

 どうしてか分からないが、クレはすごく嫌な予感がしてきた。

「……獲物?」

「うん。そうだな、持ってくるよ」

 ラルフは席を立つと、自分の部屋へと何かを取りに向かった。

 戻ってきたとき、彼の胸の前には黒々したものが引っ提げられていた。

 見間違えようもない。それは猟銃だった。

「どうしてもぶち殺したい狐がいてさ」

 そう言って手元の猟銃に目を落とすラルフ。口調こそ穏やかなままだが、眼鏡の奥の淡いブルーの瞳には闇のように光がない。

 胸の中で、心臓がドクドクと鼓動を打ち始めるのがクレはわかった。

「……間抜けな話なんだけど、母が最期にそのビーフシチューを食べたがったとき、兎を獲るのをその狐に邪魔されちゃってさ。……最期に好物を口にしたいっていう、本当にささやかな願いのはずだったのに、僕はそれを叶えてあげることができなかった。結局、母に心残りを抱かせたまま逝かせてしまった。……不甲斐ない限りだよ。せめて奴をぐちゃぐちゃにぶち殺してやらないと、天国の母に面目ないし、僕としても気が休まらない……」

 そう言ってから、自嘲気味に薄笑いを浮かべるラルフ。

「ただの畜生にこんな感情を抱くのも変な話だとは思うんだけど。でも、憎くて憎くて――憎くて憎くて、堪らないんだ。奴をぶち殺さないと、本当の意味で僕自身が母さんを弔えない気がする……って、クレハさんには退屈な話だよね……」

 クレは、今すぐにでも逃げ出したい衝動を必死に抑えて、口を開いた。

「ぶちっ、ぶち殺したい……狐、ですか……」

「うん? ……うん。性悪なのと、毛皮の色に特徴があるので、村でも有名な奴なんだ。何件も被害が出てる。害獣だよ」

 でも……とラルフはここで、少し複雑な表情を見せた。

「奴の毛皮だけは、美しくてね。秋の紅葉のように綺麗な紅なんだけど……そうだ!」

 と不意にラルフが顔を上げてこちらを見たので、クレはびくりと身体をこわばらせた。

「奴を狩ったら、その毛皮をクレハさんにプレゼントするよ! ストールにして首に巻いたら、クレハさんの綺麗な紅髪にきっとよく似合うと思うな!」

「はっ、はい……」

 クレは、恐怖に引きつりそうになる顔の筋肉を必死に動かし、にこやかに微笑む努力をしようとした。

「それは……楽しみですね」

 そう答えるしかなかった。

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