紅髪の来訪者
その日、ラルフは早朝から作業場で働いていた。
折悪くと言っては何だが、今月は持ち込まれる麦の量が多く、水車小屋は大忙しだった。早くから始めなくては陽の出ているうちに作業を終えられそうもない。実際、一人では手が回らなくなりつつあった。
ラルフは重い穀物の袋を粉挽き用の器械の横に積み終えると、近くの台に腰を下ろし、眼鏡を外して額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「……こりゃ、中々骨が折れるな」
手伝ってくれる人が居れば良いのに……と一瞬弱気になりかけ、頭を振ってその考えを追い出す。
一応、懐は寂しいが人を雇うしかないと思い組合に話を通してもらってはいるものの、人の来てくれる見通しは今のところ立っていなかった。森の傍にある水車小屋は獣たちの領域に近過ぎ、村人から不気味な場所と思われているために製粉を依頼するとき以外は誰も近寄りたがらないのだ。
そういえば、生前、病床の母が、知り合いや、果ては遠くの親類にまで方々手紙を書き送っていたっけ……とラルフはふと思い出した。
――あなたを助けてくれる人が見つかると良いのに。
それが母の口癖だった。自分が死んだら、息子を気にかけてくれるよう手紙で色んな相手に頼んでくれていた。……それに、母が直接そう言ったわけではないが、息子が一人なことを気にして縁談の相手を探していたことも知っている。
ただ、こんなときに頼れる相手が居るかというと、一人も思いつかないわけで……。遠くの親類に至ってはほとんどが顔も知らない相手だし、こちらも当てにはできない。……お嫁さんについては、そもそも自分なんかがといった感じだ。
しばらくは一人で頑張るしかない。
ふう、と一息つき、ラルフは眼鏡をかけ直して台から腰を上げた。
「ラルフさん」
突然、後ろから声を掛けられた。鈴の鳴るような優しい女性の声だった。
振り返ると、若い女のひとが作業場の入り口に立っていた。血に濡れたように鮮やかな紅い髪が印象的な、物語から飛び出て来たように綺麗なひとだった。東洋の血が混じっているのか、クリッとした明るい瞳をしている。給仕服を着ていて大きな風呂敷包みを背負っているのを見るに、どこかのお屋敷へお勤めへ行く途中のメイドかもしれない。こんな別嬪さんに世話を焼いてもらう男はきっと幸せ者だろう、とラルフは思った。
ラルフが見惚れていると、相手が怪訝そうな表情で首を傾げた。
「あ……すみません。ええと、どちら様で?」
女性は微笑むと、胸に片手を当ててプリーツスカートの裾を摘み、軽やかに会釈してみせた。とても美しい所作だった。急にそんな上品な挨拶をされるのは初めてだったから、ラルフは些か面食らった。
「わたくし、クレハと申します。ここで働かせてください」
「あ、初めまして……え?」
釣られて会釈してから、ラルフは頓狂な声を出して顔を上げた。
「何ですって?」
「ここで働かせてください。何でもします」
「え……と……」
あまりに急で、言葉が続かない。
――な、何だこの人は? 揶揄われているのか、僕は?
――いや、でも、向こうはこちらの名前を知っているようだしな……。
まずは話を聞いてみようと思い、ラルフは訝しみつつも訊ね返した。
「な、何を? ……働く?」
「はい。ここで働かせてください」
「えと……その……」
「ここで働かせてください!」
畳み掛けるように同じ台詞を繰り返し、ぐいぐいと距離を詰めてくる女性。
「ちょっ、ちょっとちょっと……」
ラルフは気圧されそうになりながらも何とか手振りで相手を落ち着かせようとした。
「こ、ここで? この粉挽き場で、ええと、クレハさんが?」
「はい!」
クレハは快活に答えた。
「ここで働かせてください」
「……ええと」
ラルフは額に手を当て、しばし考え込んだ。
夢でも見ているのか僕は?
でなければ都合の良い幻覚だとしか思えないが……。
「な、何でまたこんな所で……」
「勿論、理由は考えてきました」
クレハはエッヘンと自信ありげに胸を張った。それでたわわな胸が思い切り揺れた。
……まあ、理由があるのなら一応聞いておきたい。
「ええと……何でだろうか?」
「粉挽きがしたいんです」
――衝撃の志望理由だった。
「粉挽きが?」
「はい、子供の頃からの夢でした!」
「子供の頃からの!? 何で!? こんなの子供とかすぐ飽きる類の単純作業だと思うけど!?」
「な、何で、ですか? ええと……」
クレハは一瞬難しげな表情をしたが、すぐにパッと明るい顔に戻って答えた。
「格好良いじゃないですか! 器械も……すごいし、格好良いです。すごい……その、わたし体力あるから、天職かなと思いまして……お願いです! どうか粉挽きさせてください!」
最終的に頼み込んでくるクレハ。対するラルフは困惑しっぱなしだった。
「そ、そんなにしたくなるようなものかな?」
「へ、変でしょうか?」
「いや、変というか……」
――十分変だ。
目的が分からなすぎる。
ラルフは、ちょっと怖くなってきていた。
「と、ところで、この水車小屋、良い水車小屋ですね。素敵です」
突然、場を取りなすようにクレハが小屋の中を見回して言った。
「あ、ありがとう?」
「一緒に住んで良いですか?」
「えええ!?」訳が分からない。「どうして!?」
「きゅ、急には無理ですよね!」
クレハは慌てたように言った。
「最初は通います」
「あ、ああ」
流石に冗談だったらしい…………通う?
「とりあえず仕事手伝いますね!」
返事も待たず、腕まくりしながら近付いてくるクレハ。
目がだいぶ泳いでいた。彼女の方も彼女の方でどうしてか錯乱気味らしい。
――何でそっちも混乱してるのさ!? とラルフは胸中で叫ぶ。
突然の彼女の来訪からまだわずかな時間しか経っていないはずなのに状況の混沌ぶりが凄まじかった。何一つとして会話が成り立っている感じがしない。
「ちょ――ちょっとちょっと!」
ラルフは両手を前に突き出し、今度こそ相手を押し止めた。
クレハがびくりと足を止める。急に大きな声を出されて驚いた様子だ。
「ど、どうしました?」
そんな素で驚かれてしまうと逆にラルフの方が申し訳ない気持ちになったが、どう考えても常識から外れているのは向こうのはずだ。
「こ、困るよ! 知らない人に仕事を手伝わせるわけにはいかないし、粉挽きがしたいからって理由も正直よく分からないというか……いや、それはちょっと嬉しいんだけど……」
「すみません。粉挽きがしたくて来たと言ったのは嘘です」
嘘かー、と胸中でラルフ。
そりゃまあそうなんだろうけど、となるといよいよ意図不明で混沌の極みだ。
――やっぱり揶揄われただけ?
そうラルフが思いかけたとき、クレハが言った。
「あなたの助けになりたくて、ここへ来ました」
あなたの。
『助け』に。
その言葉を聞いて、ラルフは母の口癖を思い出した。
『――あなたを助けてくれる人が見つかると良いのに』
たまたま、似たことを言っただけかもしれない。
しかし、ラルフが母のことを思い出すには十分だった。
「ラルフさんが困っていることがあれば、お手伝いします……手伝わせてほしいんです。わたしにできるのは、多分それだけだから……」
ラルフはグッと唾を呑み込み、恐る恐る口を開いた。
「も……もしかして、クレハさんは、僕の母の頼みに応えて、ここへ来てくれたんですか?」
一瞬、女性が何にも分からないといった怪訝な顔つきをしたように見えてラルフはドキリとした。
――流石に都合良く考え過ぎたか……
だが、クレハはすぐに顔を綻ばせると、元気よく頷いてみせた。
「はい! そうです!」
「――ほっ、本当かい!?」
「はい。……わたしはラルフさんのお母様のお願いにこたえるため、ここへ来ました!」
そう言って、彼女はニコリと微笑んでみせたのだった。