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猟犬の名前はヴィル

 ……かくて、ラルフの家の食卓にて。

 悪戯の結果ラルフの母に心残りを抱かせて死なせた悪しき紅毛狐クレと、猟師であるラルフ父とその猟犬、ラルフは改めて一堂に会していた。

 ――おぉう!? しまった!!

 軽食を終えて談笑する段になって、久々の団欒にご機嫌な様子のラルフ父ににこやかに合わせながらクレは心中で己の不明を呪った。

 ――ついまたこの家へ帰って来てしまった! そもそも逃げ去る算段で外に出たはずなのに!

 つい、ラルフにそのまま付いて帰って来てしまった。……というか正直な話、熊に襲われ死ぬような目にあった上、村人たちの前ではずっと緊張し通しだったため、三日もいて最早勝手知ったるラルフの家に帰って来れたことに内心ほっと一息ついてしまっている自分すら居る。

 しかし……とクレは横目に久々の団欒で上機嫌な様子の(ラルフからは割と辛辣にあしらわれているが、それでも楽しそう)ラルフ父を盗み見た。

 ヘルマン・ヴォルファーマン。

 帰り道に教えられたラルフの父親の名前は、初めて聞く名ではなかった。

 ――獣たちの間で半ば伝説のように囁かれている、最恐の狩人の名だ。

 標的を執拗に追い詰め、怪物みたいに強大な相手だろうと知恵と技術で確実に仕留めるプロ中のプロ。

 名前だけが独り歩きしている印象で本当に存在するのかすら定かでなかったためこうして実際に目にするのは初めてだし、となると最恐の狩人である彼は実の息子に卍固めされて絶叫するような面白いおじさんだったわけで、噂で聞いていた印象とのギャップに風邪をひきそうではあるものの……相当な脅威であることに変わりはない。

 ヘルマンの名は、獣の世界では死神の名も同然なのだ。

 こんな危険な相手がいる時点で逃げ一択だ。……というかまあ、そもそも紅毛狐の自分はラルフに恨まれているわけだし。贖罪以外の感傷をラルフとの関係性に持ち込もうなんて考えからして土台間違っているわけで――

(いやいやいや……そんな変な考えそもそも持っちゃいないけれど)

 クレは頭を振って余計な考えを追い出し、ラルフを見た。

 そして小さく呻いた。正直な話、油断すると、今のクレはラルフの横顔を見るだけでも顔が火照ってくるのだった……



 ――クレは決して認めまいとしているが、自分を熊から助け、ああもときめかせたラルフのもとを離れたくないという気持ちの方が今は全然優勢なのだった。だからこそクレはラルフのもとを離れられずにいる。

 怖い面もあるけれど、実際、ラルフは優しい。勿論、彼が親切なのは『クレハ』に対してだということは分かっている。それにいつ正体がバレるとも知れない以上常に緊張感がある。

 それでも悪戯することでしか他者との関わりを作れず、孤独を紛らす手をそれ以外に知らなかった一人ぼっちの狐にとって、たったの数日であれラルフの優しさは致死毒に近かった。……極め付けに、もう駄目だ死ぬと思われた場面に駆けつけ、彼は身を挺してクレを熊から守ったのだ。

 全て自分の悪戯好きな性格が災いしたとは言え、厄介者扱いされてずっと生きてきたひとりぼっちの紅毛狐に人肌の温かみのようなものを感じさせてくれた初めての人間。

 クレの中で、ラルフは最早かけがえのない存在になりつつあった。



「最近、この辺りの獣たちが騒がしくなってきていてな」

 ――そんな頭少女漫画状態のクレの横で、男たちはそれなりにシリアスな話をしていた。

「どういうことだ?」

「熊とか狼とか、普段人里から遠く離れたところに住んでいるはずの獣たちが、最近は人間の住む場所にも出没するようになってきてんだよ。何か理由があるのかもしれないが……」

 何やら大事そうな話が始まった気配は察したが、このままラルフと同じ空間で彼のことで頭を煮詰まらせていることのほうがクレにとっては大問題だったため、お茶を淹れることを口実にそっと席を立った。

 お湯を沸かして茶を淹れることは、数少ないながらここ数日ラルフと寝食を共にする中でクレが身に付けた家事の一つだった。淹れたお茶をラルフから美味しいと褒めてもらえたのもあり、もっと美味しく淹れる方法を実はこっそり研究中だ。

 一人台所に入り、水を入れたケトルを火にかけ、横の台に手を突いてほぅ……と一つ溜息をこぼす。

 不意に何者かの視線を感じた。

 振り向くと、台所の入り口、廊下の暗がりに二つの目が光っているのが見えた。次に闇の中から真っ黒な前脚が踏み出され、のそのそと大きな影が台所に入ってくる。……ラルフの父親、ヘルマンの猟犬だった。

「……」

 クレはしばし猟犬と見つめ合った。猟犬の方もクレの三歩ほど手前で前足を揃えて立ち止まり、クレをまっすぐな眼で見つめ返してくる。

 ……『ヴィル』という名だったか。狩られる側の存在である狐のクレにとって猟犬というのはえてして凶暴で怖い連中ばかりだが、この半ば老年に差し掛かっている風の猟犬は年季も相まってちょっとした風格すら纏っている。見つめ合っていると、何もかも見透かされてしまいそうな感じがしてくるのだった。

「……気付いてるんだよな?」

 クレは、だから『クレハ』ではなく紅毛狐のクレとして、彼に声を掛けた。――自分が紅毛狐だということに気付いているのか、と。

 ヴィルは何も答えない。しかしその沈黙は、言葉を解する彼の賢しさと、豊富な経験に培われた慎重さを無言のうちに示していた。

「――!」

 猟犬が僅かに首を前に振った。それは明らかに『頷き』の動作だった。

 クレは心臓がきゅっと縮むのを感じた。

 ――クレの変化へんげは、所詮人間を揶揄うためのものだ。

 ヴィルのような老熟した猟犬の鼻を騙せる域にまではまだまだ達していない。

 ……だから普通に中々の大ピンチだった。

 今、この場で選択を誤れば『詰む』気がした。現在この家にはヘルマンとラルフの両名が揃っているのだ。彼らの妻・母である女性に自分がしでかしてしまったことを思えば、憎き狐だと彼らにバレた瞬間、三回は地獄送りにされるだろう。きっと生きたまま皮を剥がれたりする。それは怖すぎる。

 力づくで目の前の猟犬を従わせるという選択肢もなかった。そもそもが犯罪者みたいなアウトの思考だが、その倫理性を慮る以前の問題として、正体は逃げ足しか取り柄のない非力な狐であるクレが、こんな筋肉おばけみたいなごつくてでかい犬に敵うはずもない。

 冷静に、慎重に行動することが肝要だとクレは考えた。何かしらの理由をつけて、この場はうまく切り抜けるしかない。

 深く息を吸い込み、クレはじっとヴィルを見据えた。

「……おれが紅毛狐だってこと、ヘルマンにバラすのか?」

「今のところそのつもりはない」

「喋れるのかよ」

 素直な心からのツッコミだった。さも当然のように自然に喋り出すものだから思わずツッコんでしまった。

「お前のように人の言葉を発話しているわけではない。お前にわたしの声がどのように届いているかは知らないが、似た形貌を持つケモノ同士、意思の疎通は当然可能だろう」

 スマートな風貌通りの落ち着いた語り口で猟犬は言った。

「そ、そうなのか」

「……お前は若いのだな。経験が浅いというか……そもそも幼いというべきなのか」

 まあ良い、とヴィルは鼻を鳴らし、改めてクレを真っ直ぐに見た。

「何故人里へ降りてきた? お前のような化生の類が、主人の息子殿を誑かす理由は何だ?」

「た、誑かす?」

「誑かすのが目的でなくどうしてそんなフェチ度の高いメイド服なんぞに袖を通す! とぼけるなよっ!」

 喝っ! という語勢で唐突に叱りつけられ、クレはメイドキャップの下の耳を縮こませた。

「ごっ、ごめんなさいっ?」

「ケモ耳メイドとか安直過ぎるだろう……。その変化した姿容すがたからして狐というより雌牛のような肉付きの良さだし、人間の男に媚びまくりではないか。親が見たら泣くぞ?」

「い、いや、人間の姿は自然にこうなっただけで……服は母さんの形見の仕事着だし……」

「……」

 猟犬は一瞬憐れみを催したように目を細めたが、やれやれというように首を振った。

「本当に無自覚なのか……。天賦の才というか、今話しているガサツな男口調が狐としてのお前の生来の性格なのだとすると、主人たちの前でああも柔和な女性らしい個性を演じ、大勢の村人たちの前でさえ人好きのする振る舞いが出来たのは恐らくお前たち化け狐に与えられた一つの才能なのだろうな。ふむ、人を化かすにはまず人に愛される必要があるということか……」

 まあ良い、と続けて、ヴィルは当初の話に立ち戻った。

「それで、何故お前は息子殿と一緒にいるのだ? 狐の正体を隠して」

「!……」

 目の前を猟犬は、最初から全て気付いていたらしい。

 全てわかった上で、しかし事情を問い糺すまでは判断を保留にしていたのだろう。

 ならばここで煙に巻こうとするのは逆効果でしかない。

 少しの間黙って頭の中を整理してから、クレは口を開いた。

「……許しが欲しいんだよ……」

 それはクレが初めて自分以外の何者かに自身の意志を伝えた瞬間だった。

「おれは悪戯で、あいつがあいつの母さんのために捕まえていた兎を罠から逃がしてしまった。そのせいで、あいつは死に目に母親の願いを叶えてあげられなかった……。おれも、母さんが大好きだったから、それがきっと悔しいことだと……ただの想像かもしれないけど、分かるんだ。だから償いをさせてほしい。そのために、ラルフのために何かしなくちゃいけないと思って……何かあいつの助けになるようなこと、幸せだと思ってもらえるようことを……」

「……つまり、人の姿でこの家にやって来たのは、お前なりの誠意を示すためだということか?」

 クレは、こくりと頷いた。

 ヴィルは、(犬だが)どことなく難しげな表情で眉を顰めた。

「……手放しで信じることはできんな。ケモノがそのような感傷で人間に奉仕するなど、そうそうあり得ない話だ。……それに、お前たち狐は人を騙すのが何より好きというではないか。傷心の息子殿を揶揄いに来たのではないと、どうして信用できる?」

「さ、流石にそんなっ……。確かにおれは人間を揶揄うの大好きだし、ラルフの困り顔とか見るとゾクゾクするけどっ!」

「化け狐の本性ダダ漏れではないか! ますます信用するわけにはいかなくなったぞ!」

「そ、そんなっ……」

 もしヴィルからヘルマンに伝わり、そしてラルフに正体がバレてしまったりしたら、控えめに言って最悪の事態だ。

(ほ、本当に詰むっ……)

 最早これまでかとクレの脳が走馬灯をロードしかけたとき――

「しかし、交渉なら話は別だ」

 と、ヴィルは言った。

「……交渉?」

 猟犬は真っ直ぐにクレの目を見返して告げた。

「わたしの主人と息子殿との冷え込んだ親子仲を取り持ってほしい。代わりに、わたしはお前のことに目を瞑ろう」

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