初めての気持ち
ズゥゥーン――――……
大木が切り倒されたようなすごい音がして、林が揺れた。
「…………」
クレは、無事だった。
「…………」
恐る恐る目を開ける。すぐ手前に、うつ伏せに斃れた大熊が見えた。もうぴくりとも動かない。
「……!」
そして、クレは自分がラルフに抱きかかえられていることに気が付いた。
遅れて、一瞬前の出来事を思い出す。熊の巨体の下敷きになるすんでのところで、横から滑り込んできたラルフにクレは抱き上げられ、そのまま救い出されたのだ。
「――」
ラルフのにおい、そして体温に包み込まれているようだった。すぐ目の前に、彼の喉仏が見える。それを見つめているうち、クレは何だか視界がグルグルと回ってきた。頭の芯が熱い。
「――クレハさん」
「はい!?」
すぐ間近からラルフに名前を呼ばれて、何でか声が裏返った。自分でも訳がわからないくらい、クレは動揺していた。
――何だ? この感じ……。
――落ち着け。冷静になれ。
「良かった……」
しかし気持ちを落ち着けるより先に、安堵した様子のラルフにクレはそのまま抱きしめられた。
「!?」
「本当に良かった……。無事で……」
耳元で、囁くように言われる。
ラルフの息は温かく、その声は優しかった。
――瞬間、『ぼっ』と、全身の血が沸騰するような熱が身体の芯から湧き起こった。
それはクレがかつて感じたことのない感覚だった。
胸が苦しい。息をすることもままならない。
小さな頃、病気に罹って高熱が出たときと似ている。でも、病のようにきつい感じではない。むしろ気分はかつてなく高揚している。
何かこう、心が身体を離れてどこまでも浮き上がっていってしまいそうな、そんな、ふわふわした陽気のような……
――というか顔赤いの気付かれたら恥ずかしい!?
「――あああああっ!!」
「――っ痛ああああっ!?」
クレは叫び声を上げてラルフの額に思い切り頭突きした。
ゴツンッ、と凄い音がして、クレを抱きかかえていたラルフはそのまま後ろ向きにバランスを崩す。
「グェッ!」
「ヘブッ!」
バタンッと、ラルフを下敷きに、折り重なる形で二人は地面に叩き付けられた……。
「「〜〜〜〜ッ」」
落ちたときに体を強打し、声にならない悲鳴を上げながら地面の上でバタバタと悶絶する二人。
何とも決まらない状況だった。
「…………すみません、その、急に顔が近かったので、驚きまして……」
「いえ……こっちこそ、調子に乗ってしまって……すんません……」
地面に蹲ったまま、互いに謝り合う二人。ますます締まらない状況だった。
「……」
クレは、ラルフから見えない位置でそっと自分の胸に手を当て、深く息を吸った。
――さっきのラルフは、あまりにも、その……
――……格好良過ぎた……。
「……」
クレの胸の内では、まだ心臓がトクトクトクと早鐘のような鼓動をうっていた。
ラルフの顔をまともに見ることが、まだしばらくはできそうになかった。
クレはラルフに恋をした。
――もっとも、『恋』という、その気持ちの名前すらクレはまだ知らないわけだが。
それでも、この数日、あんなに怖かったのに、クレがラルフの元を離れ難いと感じていた気持ちの正体がはっきりと自覚された瞬間だった。
そしてそれは、紅毛の狐――つまりはクレを親の仇と憎んでいるラルフから、ますます離れ難くなったことを意味していた。
「――おうおうおう! 仲良しだな! お二人さん!」
と、突然、磊落な声が林に響き渡った。
クレが声の方を見上げると、すぐ傍に日に焼けた壮年の男がいつの間にか立っていた。気配を消している感じではないのに、存在そのものが森の中に溶け込んでいるようで、声を掛けられるまで近くにいることに全然気付けなかった。
歳はよく分からないが、30でも40でもあり得そうで、胸板が厚く、腕も太い。背負っているライフル銃から彼が猟師なのだと分かる。
クレは本能的に緊張した。多分この男が、つい今し方、たった一発であの巨大な熊を仕留めた本人だ。
……それに何だか、誰かに似ている?
「危機一髪だったな。いやあ無事で良かった!」
そんなクレの警戒など知らない様子で、男は白い歯を剥き出して豪快に笑った。
と、隣のラルフが、いつになくむっつりした様子で口にするのをクレは聞いた。
「……帰ってきてたんだな。――親父」




