ちょっとしたドジ
それは、ラルフから聞いていた通りの大きな熊だった。
いや。
聞いていた以上だ――
「……」
向かう先の横手からのっそりと姿を現したその熊は、体長は三メートル以上、全身は黒々とした体毛に覆われていて、生き物というよりそういうかたちの大きな岩が動いているような威圧感があった。
それが、ゆったりとクレの方を向く。
大きな顔の中の、やけに円な瞳がクレを捉えた。
ブフゥ、と熊の鼻先から白い烟がむらむらと立ちのぼるのが見えた。
次の瞬間、熊は二本の後ろ脚で立ち上がった。
――。
クレはその一瞬、完全な思考停止状態に陥った。
それほどまでに圧倒された。毛むくじゃらの真っ黒な壁が行く手の道幅いっぱいに突如として聳えたかに見えた。
油断していた。
考え事していたせいで、周囲の気配に全然気を払えていなかった。
森で生きてきた身としてあり得ない失態。……人の感覚に慣れすぎていた。
――落ち着け。焦るな。
クレは息を止め、熊と見つめ合ったまま一歩後ずさった。
三歩下がったら、狐に戻って全力で逃げよう。
そう、心の中で決める。
獲物の姿かたちが突然変わったら、熊も少しは困惑するはずだ。その隙をつくことができれば、逃げ切れる可能性はある。そのために、あともう少しでも距離を稼いでおきたい。
更に二歩目をじりじりと退がる。熊はじっと動かない。だがクレへの関心を失ってはいない。こちらの出方をうかがっている様子だ。
冷や汗が頬を伝った。
化け狐とはいえ、クレにあるのは変化の能力くらいで、腕力は決して強くない。そして何に変化しても変わるのは見た目だけで、いくら恐ろしげな化け物に変化したところでフィジカルまでは強化されない。的が大きくなるだけで、熊にかかっては一撃で首の骨をへし折られてしまうことだろう。いざとなればこわい何かに変身して脅かすくらいのことはできるかもしれないが、あんな巨大な熊をこわがらせることのできる存在を今のところクレは全く思いついていなかった。
とにかく今は逃げ一択だ。
クレはもう一歩後ろに下がった。
その三歩目が道に落ちていた小枝を踏んだ。




