悪戯ギツネ
或る山の麓に、鮮やかな紅い毛をしたクレという名の化け狐がひとりぼっちで住んでいた。クレは大変な悪戯好きで、よく近くの村へ降りて行っては村人たちを困らせて喜んでいた。
あるとき、いつものように村へ出かけたクレは、途中、なにやら茂みから物音が聞こえたのでそっと中を覗いてみた。そこには獣獲りの罠を仕掛けている男がいた。クレの知っている男だった。眼鏡をかけていて灰髪で、痩せていて背の高い、ラルフという名の若い男だった。
彼は擦り切れたシャツを肘まで捲って、木と針金の輪っかを組み合わせた細工を木の根元に仕掛ける作業と格闘していた。
「ははん」とクレは思った。「狩人の真似事なんてらしくないな。いつもぼんやりしているくせに、今日はあんな泥まみれになってやけに必死だ」
驚かしてやろうと、クレは背後から回り込むようにラルフへそっと近づいていった。しかし一心に作業を続けるラルフの鬼気迫る横顔を見ているとなんだか興趣を削がれてしまい、結局クレは何もしないでラルフのいた茂みを後にした。
夕方、クレは小石を蹴飛ばしながら山の道を住処へ帰っていた。その日は散々な一日だった。普段では考えられないようなしくじりをいくつも犯し、一度などはパンを盗もうとしたところを見つかってパン屋の親父に麺棒で打たれそうになった。調子の悪い日はままあるが、今日はツキにも見放されていた。
「ちぇっ」舌打ちして、クレは思い切り溜め息を吐いた。
ふと、今朝見たラルフの罠が気になった。クレは来た道を少し戻り、罠の仕掛けられていた茂みを覗いてみた。
「おや?」
兎が一羽かかっていた。
逃れようと散々暴れた後なのか、すっかり消耗した様子で地面に蹲り、鼻をひくひくさせている。クレの姿を見て一瞬びくりと身を固くしたが、逃げられない様子だった。見れば、左の後肢に罠の縄がきつく食い込んでいる。
「間抜けなやつだ」
クレは鼻で笑った。自分より不運な相手を見つけられてちょっぴり愉快な気持ちだった。
「狩人でもないあんな素人の罠に引っかかるなんて。苦しいだろう、雑な作りの罠ほど獲物を長く苦しめるっていうからな」
面白がって枝で突いたりしてみたが、兎は衰弱し切っている様子でろくな反応も返さない。おおきなくりくりした黒い瞳でただただ見つめ返してくる。
すぐにつまらなくなった。クレは枝を遠くに放り投げ、黙って兎を見下ろした。兎は、尚も円な瞳でクレを見返してくる。
「……」
クレはため息を吐き、屈み込んで兎の足の縄を解いてやった。途端、あれほど弱り切っている様子だった兎はぴょんと跳ね、クレの方を振り向きもしないで茂みの奥へ飛ぶように奔り去っていった。意外に出来の良い罠だったらしい。
鼻を鳴らし、さて帰ろうと振り向いたクレは背後にラルフが立っていることに気が付いた。
――しかし、それは本当にラルフだったのか――
息も絶え絶えに住処の穴倉へ帰り着いたとき、体は疲れ果てているはずなのに、クレはあまりの恐怖から中々寝付くことができなかった。人間を相手にこれほどの恐怖を抱いたことは生まれて初めてだった。それも狩人でもなんでもない、あんないかにも軟弱そうな男に……。考えていると、今度はムカムカと腹が立ってきた。それでクレはいくらか自分を取り戻した。今日は不意のことに驚いただけさと頭の中で言い聞かせている内、クレはいつの間にか眠ってしまった。
次の日とその次の日、土砂降りの雨が降った。空が咽び泣いているような激しい雨だった。
三日目の朝。まだ空は湿っぽく曇っていたが、雨は上がっていた。クレは早速ラルフの家へと出掛けていった。前回あんな目にあわされた手前、このまま何もせずに引き下がるわけにはいかない。あの眼鏡にうんと痛い目を見せてやらなくては。クレは張り切っていた。
山を降りてみると、村の中は何だか異様な雰囲気だった。人々が肩に黒の腕章を巻いているのを見て、クレは村の家のどこかに不幸があったのだと察した。
――しかし、誰が死んだのだろう?
ラルフの家へ向かう途中で、クレは教会の鐘が鳴らされる音を聞いた。
窓からそっと会堂の中を覗くと、会衆席に座る村人たちの中、一番牧師に近い席にラルフが座っているのが見えた。
クレはラルフが病気の母と長いこと二人暮らしだったことを思い出した。
ラルフは呆然と席に座ったまま、壇上に置かれた棺桶をじっと凝視していた。目元には泣き腫らした跡があった。
クレはいたたまれなくなり、山の住処へとすごすご引き返した。
「ラルフは床で苦しんでいるお母さんに美味しいものを食べて欲しかったに違いない」
寝床に寝そべって穴倉の暗い天井を見上げながら、クレは誰に言うともなく呟いた。
「それをおれが罠にかかった兎を逃がしてしまったものだから、折角のお肉をお母さんに食べさせることができなかった。そのままお母さんは死んじゃったに違いない。ラルフのお母さんは残念な思いを抱えて死ぬことになったろう。……手ぶらで帰るとき、ラルフはどんな気持ちだったろう。……ちぇっ、兎なんか逃がさなければ良かった」
ラルフは人家の密集した村の中心部から離れた水車小屋で母親と二人で暮らしていたため、母親が死んでからは一人ぼっちで生活していた。
クレがこっそり様子を覗きに行ってみると、ラルフは汗だくになって粉ひきの仕事をしていた。彼の傍らには麦の袋が積み上げられており、全てを彼一人で挽き終えるのはかなりの大仕事だろうと思われた。
「おれと同じ、一人ぼっちのラルフか」
そうぼやき、クレはラルフの家を離れて前の道へ降りていった。
遠くで車輪が石を跳ねる音が聞こえた。クレが林の陰に隠れて待っていると、道の先から二頭の馬に引かれた荷車が現れた。穀物の袋を山と積んでいる。ラルフが挽いている麦の追加分だろう。今でも多過ぎるくらいなのに、あんなに仕事を増やされたら夕方までかかっても終わるか分からない。馭者は一人で、厳つい見た目の男だった。
クレははっと思いつき、一旦林の奥に引っ込んでからくるりと体をひっくり返して人喰い鬼の姿に化け、車が丁度傍を通りかかったところでその前に勢い良く飛び出した。クレの化けた姿を見た馭者と馬は震え上がり、荷車を捨てて来た道を一目散に引き返していった。
「よしよし」とクレは思った。「これでラルフの苦労を除いてやることができたぞ」
クレは変身を解くと、積荷の袋をぽんぽんと叩き、満足した気持ちで山の住処へと帰って行った。
翌日、クレはまたラルフの様子を見に行った。外にいないので窓からそっと家の中を覗くと、暗い部屋の中、彼は机に肘をついて頭を抱えていた。頬には殴られたような痕があった。
「参ったな……」ラルフは弱り切った声で呟いた。「まさか近くに怪異の類が出るなんて……。足跡も何も残ってないから、今のところは馭者の見間違いということで話は済んでいるけれど、不安だ。噂が続くようなら取引先から外されてしまうかもしれないし……もし本当なら、この家も出て行かないといけなくなるかもしれない。それに、荷物が道の真ん中で鳥共に食い散らかされていたのは僕が到着の遅れを不審に思って確認に行かなかったからだと半値も賠償させられてしまった。挙句、品物が駄目になった腹いせに殴られて……。はぁ、確かに道の方で鳥が何やら騒がしかったし、ちょっと降りればすぐに見えるような距離だったのに……口惜しいな。お陰でほとんど無一文になってしまった。……全く、何でこう不幸が続くんだろう……」
深く俯いて大きなため息を吐くラルフ。
数滴の滴が、ぽたぽたと机に落ちた。
「……一人は、寂しいなぁ……」
掛ける言葉などあるはずもなく、クレは黙って山へと引き返した。
寝床で横になってからも、クレの耳にはラルフが最後に零した言葉が残っていた。
一人は寂しい。
一人は、寂しい。
「……」
クレは起き上がると、穴蔵の奥に置いている箱の中から、生前に母親が人間に化けるとき着ていた衣服のコレクションを取り出した。クレの母親は人の中で生活するのが好きで、人間の仕事をもって給金までもらっていた。母親が死んだ後も、クレは彼女が身に付けていたもの、集めていたものをその箱に詰めて大切に保管してきたのだった。
クレは母親の持ち物である姿見も数年ぶりに引っ張り出してきて、その前で久しぶりに人間に化けてみた。化けると言っても、容姿は元々の狐としての見目で決まる。母親からはよく可愛いと言ってもらえたが、自分では軟弱だと思ってあまり好かない見た目だった。
「……ううむ」
久々に化けてみると、顔は昔のあどけなさを留めたままなのに身体の方はすっかり大きくなっていて、何だかかなり恥ずかしかった。しかしラルフはいかにも初心そうだから、これくらいしおらしい見た目をしていた方が安心してもらえるかもしれない……とりあえずそう思うことにして、クレは適当な一着――母親が給仕の仕事の際に着ていたフリル付きの服――に袖を通してみた。大きさは丁度ぴったりだった。いつの間にか自分が母親の背丈に追いついていたことに感慨を覚えつつ、最低限の身だしなみは整えておこうと思い、腰に届くほど長く伸びていた髪を母の櫛で梳いてみる。狐の耳は完全には消せなかったので大きなリボンのついた髪飾りでうまいこと隠すことにし、クレは姿見の前で一度回ってみた。
完璧だ。完璧に人間の娘に見える。
「よし……」
頷き、クレは胸に手を当てて決然と顔を上げた。
しでかしてしまったことへの取り返しは、無理かもしれない。
けれどせめて、ラルフのために何かしよう。
……それがきっと、彼への償いになるはずだから。
「見ていて、母さん……」
穴蔵の底から、クレは天国の母親に事の成功を祈った。