無機の生物
桜の植えられた公園の道を、風が素早く渡っていく。こんな強風でも、咲きかけの花は耐えて散る事はしない。けれどいつか、この花が散ってしまう日が来るだろう。寂しいという気持ちよりも、これでいいのだと納得する。桜は散ってしまうからこそ、美しく見えるのだ。いや、桜だけではない。生き物は儚いから、こうやって美しく見える。人間は寿命が長いと批判する人もいるが、長いからこそ儚い命を体感できるのではないか。散ってゆく花も、蝉やカゲロウの成虫も、己の命が儚いという事を知る事はない。だから我々人間が、長い命を以てそれを感ずるのだ。
はて、確かに生物は儚い物だが、人の作った無機物はどうだろうか。石畳も車も、永遠に存在し得るものなのだろうか。そう考えて、私の中ですぐに否定の気持ちが起こった。永遠に思えるのは、人がそれを手入れしているからにすぎないのだと。使われなくなったら、物は次第に廃れていく。そうなったら、物は死ぬのではないか。
生物は有機物からなり、有機物は無機物より生まれる。ならば、無機物も生きていると言っていいはずだ。この石畳も、あの電柱も、道ばたの何だかよく分からない鉄の箱も、生きているんだ。
確かに人の作ったモノは、自分で増えるという事はできない。そういう意味では、生き物とは違う。けれど、見放されてしまえば、使い物にならなくなる。言い換えれば、モノとしての“死”を迎える。そういう意味では、モノも生き物と同じではないか。
生きているか否か、人の手によって左右されるというのは、果たして生き物と呼んでいいのか。しかし道に植えられた“生きている”街路樹は、少なからず人間の手入れを受けている。はたまた物を大切にするという事は、ペットを飼うようなものではないか。犬であれ小鳥であれ、人間に愛され、大切にされているうちは生きる事ができる。しかし、ひとたび見放されてしまえば、それは死の運命を約束されてしまうだろう。そこに心優しき人が現れ、拾われれば、また、生きていく事ができる。生き物が死んでしまったら悲しい。だから私達は、壊れて元に戻らないと分かってしまったモノに、悲しみを感じる事ができるのだろう。
生死が人間によって支配される。そういう意味で、あの木々やペットがモノに格下げされたのか、あるいはモノが生物に格上げされたのか。それは私には分からない。けれど、そこに差は無いように思えた。
そう考えた時、私の周りの風景がガラリと楽しいものに変わった。あらゆるモノが、私に語りかけてくる。石は言葉を発する事はできないし、木々は行動する事もない。けれど道を歩く私に、次々と挨拶してくれるように感じたのだ。人通りも少なく寂しいはずの道が、楽しく思えた。まるでおとぎ話の世界に迷い込んだように錯覚したのだ。
ふと、強い風が私を通りすぎた。私の癖毛が、風のなすがままになる。思わず私は空を見上げた。青く澄んだ空に、柔らかそうな雲が少しだけ浮かぶ。それでも空は永遠かなあ?そのことが、私の脳裏によぎる。
けれど空も、見上げる者がいなくなれば空でなくなってしまうような気がした。もしも生き物が全て死滅してしまったら、空も一緒に死んでしまうのではないか、と。生き物はいつか死ぬ。それなのに今まで空が存在し続けたのは何故だろう。
恐らくそれは、生物の営みそのものが、永遠だから。生き物が永遠に命を繋ぐから、空は存在し続け、永遠のものになり得たのではないか。
空は見上げるもの。ならば、空を見上げないところまで行ったら、空は無くなるだろうか。いや、そうではない。空を越えた先にも、宇宙はあるのだから。そして宇宙は、限りの見えぬほどに広がっているのだから。
歩く人に混じって、信号を待つ。車の往来が緩くなり、もう少しで渡れそうだという頃。
からからから。金属のこすれるような音に、私は目を向けた。コーヒーか何かの空き缶が、車道を走っていた。心ない人に捨てられた、空き缶。それが、殴るように吹く風に煽られて、車道を止まることなく転がっていたのだ。歩行者は信号に止められているし、車ももう進むものはない。誰もいないその道を、ただその空き缶のみが走っていた。何故か私はそれに見入っていた。我を思い出して拾おうかという分別が湧いた時には、既にその空き缶は誰もいない往来の真ん中まで進んで、取るのは厳しくなっていた。それでも止まらずに転がっていく。私は彼が広い道を渡りきったかは知らない。けれどそれを見た時、私は可笑しく思えた。
信号が変わって、歩き出そうと前を向く。すると白いビニール袋が、己の存在を誇示するかのように舞っていた。風に舞って、上へ下へひらひらと。まるで、自分の意思で飛んでいるかのように、私には思えた。
どうして今日はこんな不思議な事ばかりが起こるのだろう。そういえば、志賀直哉の小説『城の崎にて』も、こんな感じだった。己の死を意識した主人公の周りに、生死に関わる出来事ばかり起こるのだ。まるで主人公の意識が、それに関わる出来事を呼んでしまったかのように。けれどそうではなくて、普段見逃してしまっている光景が、意識の変化によって特別な意味を持って自分の前に立ち現れるのだ。
その時私の意識を支配していたのは、モノが生き物であるかということについて。その意識が、目の前の何でもない光景を、違ったものに変えてしまったのだろう。
そう確信した時、私は何とも言えない感覚に陥った。嬉しいわけでも悲しいわけでもなく、ただ、心にしっくりときていた。しかし納得の二文字で片付けてしまうには、惜しいと思った。私の知っている言葉では表しきれない感情。心はそれに支配されていた。
あるいはこれが、悟るという事なのだろうか。しかしそれを確信するのは、私にはできないように思えた。
カテゴリで気付いた人もいるかもしれないけど、全て実話。
思考部分も、嘘偽りなく書いたつもり
最初は詩か意見文として書こうと思ったけど、なんか物語性を帯びて来ちゃったから敢えて小説風に書いてみる
まあ、ビニール袋が生きてるような詩(※)なら以前にも書いた事があるんだけどね
ちなみにこれ、散歩とかじゃなくて部活帰りの出来事。市営コート(公園内にある)から駅に向かって、暇だから歩いて帰った時の話。路面電車でも駅には行けるけど、歩いていったらなんかこんな事にw
ていうか、自分の思考回路が知りたいよホントにw