君へ贈る言葉
令和2年3月19日(木)
誤字脱字修正及び、加筆訂正を行いましたが、内容に変更はございません。
注文していた真珠の首飾りを受け取り、宝飾店を後にする。
次に向かったのは花屋。彼女の好きな色である黄色の花を中心に選び、大きな花束を作ってもらう。
そして首飾りと花束を抱え、帰路につく。
今日は彼女と私の結婚記念日。三十年前のこの日、私は彼女と結婚した。
そして二十六年前に別れ、それから一年後の二十五年前。主従関係を結ぶことになり、以来夫婦ではないが、共に暮らしている。
今年こそ彼女と新たな関係を築き直したい。
「喜んでくれるだろうか……」
首飾りが包まれた箱を撫でる。
自宅である屋敷の門をくぐり、見覚えある馬車が玄関前に停まっていると気がついた。
あれは近所に住む、医師である友人の馬車だ。
訪問の予定はなかったが、彼に首飾りを贈る相談をしていた。
若い私の失敗や愚かさを知っている男だから、心配して駆けつけてくれたのかもしれない。呆れながらも、今も友として付き合ってくれる彼には感謝している。自身が招いたことにより、多くの友を失ったから……。
ぐるりと道なりに馬車が玄関へ向かっていると、屋敷の中から息子が飛び出してきた。ずいぶんと慌てている様子に見える。
「お父さん! 早く!」
「どうした、そんなに慌てて」
馬車が停まるより早く扉を開けられ、中から引っ張り出されるように降ろされる。そして手首を掴まれると、走るように歩かされる。
「一体どうしたんだ」
尋ねても答えてくれない。
玄関をくぐり、いつもなら迎えてくれる彼女の姿がないと気がつく。
いや、彼女だけではない。他の使用人も誰一人、出迎えてくれない。
廊下を進んで行くと、一人。また一人と、使用人たちが姿を現す。
皆俯いていたり、肩を寄せ合っていたり……。泣いている者もいる。一体、どうしたことか……。
ある部屋の前に人だかりが出来ていた。
私に気がつくと皆道を開け、部屋の入口まで通してくれる。
それは彼女の部屋で……。嫌な予感に震えながら歩いていると、中から例の友人が出て来た。
「……残念だ……。蘇生は試みたが……」
その言葉で泣き崩れる者が出た。
慌てて部屋に飛びこむと寝台の上、彼女は静かに目を閉じ横たわっていた。触れればまだ温もりは残っており、ただ眠っているように見える。
枕元に、一冊の日記帳を添えて……。
◇◇◇◇◇
今日、父から婚約が決まったと告げられた。相手は侯爵家の長男で、よくある政略結婚。
より商売を広げたい男爵家の我が家と、商品を仕入れる船が沈没し、火の車となった侯爵家。互いの利益のための結婚。男爵とはいえ貴族である以上、仕方のない話。
今度、顔合わせがあるというけれど……。
女性に貞淑が求められているので私は家族以外の男性と、会話をほとんど交わしたことがない。
私は彼に気に入ってもらえるだろうか。私は彼を愛せるだろうか。
初めて会った彼は終始笑顔だった。だけどその目に私が映っていないと、すぐに分かった。
私に顔を向けていても、焦点はどこか別を向いている。一体いつその目に私を映してくれるのだろう。結局最後まで私を目に映すことはなく、顔合わせは終わった。
父に言われ、彼と観劇に出かける。婚約を結んだので親交を深める為に。
エスコートに文句はなかった。ただその目に、私を映さないのは顔合わせの時と変わらない。
今日は結婚式だった。
誰にも気がつかれなかったが、巧妙に手で隠され、誓いの口づけは交わしていない。どうして私を拒絶するのかは式を終え、新居へ行き分かった。
そこで夫の帰りを待っていたのは、すでにここで暮らしている彼の恋人だった。
夫は恋人と一緒に寝室へ。私は一人、与えられた部屋で眠る。
救いなのは、使用人たちが優しいこと。ありがたいことに、私を奥様と呼んでくれる。
夫の恋人は部屋にこもっているか、外出ばかり。彼女にとって侯爵家や使用人は、興味ないらしい。ただ夫から愛されているから、ここに住んでいる。
結婚して半年、私は清いまま。夫と食事を一緒にすることもない。
寂しいので最近は、使用人たちと食事をとっている。
今日、久しぶりに夫から声をかけられた。建国記念のパーティーに夫婦で出席しなければならないので、用意するようにと言われる。
ドレスなどは自分で用意するしかなさそうだ。仕方ないので、嫁入りで持って来たドレスを、リメイクすることに決めた。私を着飾らせるお金はないらしい。
恋人の彼女は新しいドレスを仕立ててもらえたと、自慢そうに報告してきた。侯爵家が徐々に回復してきているとはいえ、わざわざ高価な店で頼まなくても……。
優越感に浸り新しいドレスを着ているが、私に対抗意識を持つ必要はないのに。なぜ無駄な悩みを抱くのだろう、不思議な人。
パーティー会場への道中、夫と会話を交わすことはなかった。会場へ到着し、皆様への挨拶が終わるなり別行動。挙句にいつの間にか私を置いて、夫は友人たちと帰っていた。もちろん私が乗って来た馬車の姿はない。
仕方なく兄に頼んで送ってもらう。兄に父を説得するから、離婚して帰って来いと言われる。
昨晩、私を置いて帰ったことに謝罪はなかった。話しかけてさえこない。
今日も恋人と楽しそう。昨晩の出来事など何もなかったような、いつもの光景。
結婚一年目の記念日。夫は恋人と外食へ。彼女が外食をしたいと、強く強請っていたが……。私への当てつけのつもりなのだろうか。夫は私に関心がなく記念日も覚えていないので、当てつけなど必要ないのに。
それにしても夫ではなく、愛人が結婚記念日を覚えてくれているとは。奇妙なこと。
メイド長が辞めることになった。結婚されているお嬢さんの夫が事故にあい、手助けに向かうそうだ。
彼女の後任をどうするか、執事と話し合う。すぐに見つかりそうもないので、私が立候補した。
夫に妻として扱われない私にとって、女主人もメイド長も変わりはない。
執事の反対を押し切り、メイド服を着て夫の帰りを迎えても彼からの反応はなかった。
前々から思っていたが……。夫は私の顔を覚えていないのかもしれない。
愛人はメイド服を着た私を見るなり、愉快そうに声をあげて笑ったのに。やはり彼女は私のことを覚えてくれている。覚える必要のある人が覚えず、必要のない人が覚えているとは、あいかわらず奇妙なこと。
本当に夫は、私の顔を覚えていなかった。
私に……。妻である私に! 妻に渡すようにと、建国記念パーティーの招待状を渡してきた!
疑いを抱いてはいたが、さすがにこれには強く衝撃を受け動揺してしまった。今日は早く寝よう。
三回目の結婚記念日を迎える前、夫は愛人と別れた。近々彼女は別の男性と結婚するそうだ。だから結婚記念日を覚えていない夫はこれまでと違い、家で一人。いつもと変わらず、ただくつろいでいるだけ。
最近、夫の上着から女性の香水が香る。きっと新しい恋人のものだろう。
建国記念パーティーへ向かう道中、人手不足なので領土へ向かうように窓の外を眺めながら言われた。何年経っても私をその目に映さない。映そうとしない。
きっと新しい恋人を家へ呼ぶため、私が邪魔なのだろう。
拒む理由もないので受け入れた。それに対し、夫は嘘でもいいのに……。感謝の言葉さえ返してくれなかった。
一体私は夫にとって何者なのだろう……。
領土へ旅立つ日。使用人の皆が帽子を贈ってくれ、見送ってくれた。
それを被り、私は家を出た。予想通り、在宅していながらも夫は見送ってくれなかった。
期待するだけ無駄。もう忘れよう……。
領土の屋敷でも以前と同じように振る舞う。新たな地でもメイド長のように働く。
おかげで侯爵はメイド長を寄越したと、本気で勘違いしている者もいる。その誤りを訂正する気になれないので、放置している。
だって私は一度も妻としてあの人に認識されたことがないのだから。そんな私が妻だと、どうして名乗り上げられよう。
珍しく領土へ来た夫が私を見るなり、ひどく驚いた。やっと私が誰なのか気がついたのかと期待したが、違った。
私に家を出たと聞いたが、妻に付き添いこちらへ来ていたのかと、そう言ってきたのだ!
一体いつ気がつくのかと黙って紅茶を淹れれば、また君の淹れた紅茶を飲みたかったと喜ばれた。そんな言葉が欲しかったのではないと落胆したのは、まだどこかで期待していたのだと自覚する。
紅茶を飲み終えると、妻に渡すようにと離縁届を渡された。その上で、もう一度あちらの家で働かないかと持ち掛けられる。手まで握り、初めて私を真っ直ぐ見つめ……。こんな形で、彼の目に私が映るとは思っていなかった。
彼との結婚前に出かけて観た観劇の内容は、喜劇だった。この状況は喜劇だろうか、それとも悲劇だろうか。
私は離縁届にサインする。明日、屋敷を出よう。でも夫の元には戻らない。
幸い実家は希望通り商売を広げられ、侯爵家も最近は事業を盛り返した。ここが潮時なのだ。
離婚して一年。建国記念パーティーで再会する。
またその目に私を映しながら、家族の前で、大勢の前で謝罪された。家族は彼を許す気がないので、聞く耳を持たなかった。それでも食い下がる彼に、君の淹れた紅茶をまた毎日飲みたいと懇願される。私ではなく、求めているのは紅茶なのかと笑いが出そうだった。
最低な自分勝手な男だと、自分でも分かっている。けれど、今度はちゃんとするからと言われた。
兄が反論する前に、後日うかがう約束を取り付ける。
改めて雇用契約書を持って彼のもとを訪れた。
もちろん家族には猛反対されたが、私は働くことが存外嫌いではない。
彼……。旦那様は持参したメイドとしての契約書と私の顔を、何度も見比べた。
雇用契約を結べられたので、再び二年前の生活に戻る。ただし今度は家の中に、旦那様の恋人の姿はない。
旦那様は毎日帰宅し私の淹れた紅茶を嬉しそうに、美味しそうに飲む。元夫がこんなに紅茶好きとは知らなかった。
思えば私たちは、お互いのことをなにも知らない。趣味や好みも……。書類上は四年も夫婦だったのに……。
結婚記念日に当たる今日、旦那様が花束を抱えて帰宅した。
部屋にと言われ渡されたので、命令通り、旦那様の寝室へ飾る。
今年も旦那様が花束を抱え、帰宅した。
今年は皆の部屋が殺風景で寂しいだろうから、メイドたちで分けて飾りなさいと言われる。他のメイドは少ししか受け取らず、半分以上、私の部屋で飾ることになった。
確かに部屋が明るくなった。きっと今夜は気持ちよく眠れることだろう。
旦那様の甥である、妹様のご子息を養子に迎え、旦那様の跡継ぎとなることが決まった。
私と離婚し十年。旦那様に女性の影はない。服からも香水の香りが漂うことはない。
旦那様から皆で食べるようにと、お菓子をいただく。今年はチョコレートケーキ。去年の私の誕生日は、大きなイチゴが乗ったケーキをいただいた。
去年と同じく、皆で美味しく完食した。
あれから二十年。今日も旦那様は、私の淹れた紅茶を美味しそうに飲まれる。この時間が幸せだと言われ、胸が温かくなる。
二十五年目。
この結婚記念日の晩は、メイドの皆との夕食が年々豪華になってきている。今年も食べきれるか不安な量が、テーブルに並ぶだろう。
数年前から旦那様まで、私たちと一緒に食事を取られる時がある。特にこの日は必ず。そしてもう一日、私の誕生日も欠かさない。
明日で結婚して三十年。
離婚しメイドとして雇用契約を結んでから、毎年旦那様はこの日、花束を抱えて帰って来られる。それはきっと明日もに違いない。
本当はずっと気がついていた。
今度は結婚記念日を忘れず、大切にしてくれているのだと。彼なりの愛の表現だと。
私の誕生日のお菓子も、本当は私だけに贈りたいのだろう。
だけどそうすると、私は断るから……。
気がつかないふりをして、旦那様の意図を避けるから……。
初めて顔合わせをした日、旦那様の美しい容姿に惹かれた。初恋だった。だから私をその目に映してくれず、何年も私の顔を覚えてくれず、とても悲しかった。
見た目だけに惹かれた初恋は離縁する頃、とうに消えたと思っていた。
それなのに再会したあの日、単純な私は君の淹れた紅茶を飲みたいと言われただけで、嬉しかった。私ではなく紅茶を求めているとしても恋心は再燃し、旦那様のもとへ帰ることを決めた。
だけどもし旦那様の手を取っても、また私を目に映さなくなったら? 本当に死するまで、私を見てくれる? そう考えると怖くて、手を取ることはできなかった。
それでも私は諦められなかった。お側にいたかった。だからメイドとして戻ることに決めた。
あの人が私の淹れた紅茶を美味しそうに飲む姿が好き。最期まで紅茶は、私があの人に淹れる。この役目は誰にも渡したくない。
三十年。いろいろありましたね、旦那様。きっと周りの誰も、私たちを理解できないでしょう。だけど私、メイドとして戻ってきてから、本当に幸せです。
今年はどんな花を贈ってくれるのかしら。私の好きな黄色い花かしら。
旦那様。今年こそ私、怖がらず素直になりたいです。
今年こそ花束を独り占めし、全て私の部屋に飾りたいです。
ややこしい面倒な女でごめんなさい。
旦那様。
私は今もずっと、あなたをお慕いしております。
◇◇◇◇◇
私はその日記帳の最後に、彼女への言葉をしたためる。
そして、あの日贈るはずだった花束と一緒に棺へ納めた。
葬式を終え帰宅すると、飲み物を用意すると言う執事に告げる。
「紅茶以外で頼む」
お読み下さり、ありがとうございます。
途中、日記の内容の抜粋となっているので、書き手である彼女はなにが彼に起きたのか分からないので、一年間、空白になっています。
この一年間で、彼は気に入っていたメイドが妻と知り、どれだけ妻と向き合ってこなかった分かり、懺悔の念や後悔を抱きます。
男の最低な言動を知って、苦言を呈した友人たちも失い、信用回復に、かなりの年数が必要となりました。
帰宅した時に出迎えてほしい。また君の淹れた紅茶を飲みたい。
そんな思いを抱いていた時に再会し、大勢の前で謝罪をしてしまった訳です。
貞淑が求められる世界なら、他の男性を知らず、ころりとまた絆されるかなと……。
彼女自身は、明記している通り、雇用契約を結んでからは幸せでした。
彼が日記帳にどんな言葉をつづったのかは、皆さまのご想像にお任せします。