「懐かしい未来へ」(6)
神殿のフリーゲートを抜け、ヴィダリスの聖殿へと飛ぶ。
外へ出て行こうとすると、慌てて走ってきたイグレックとぶつかった。彼はティキたちより一足早く地上に戻ってきていたのである。
「イグレック!? どうしたの、そんなに慌てて!」
「あっ、ティキ様!!
今クレス様にお願いにあがろうとしていたところなのです!」
「お願いって、何を……。」
心なしか、煙い。外から黒い煙が聖殿内に入ってきた。
「ヴィダリスの民家が火事になっているのです。
火の回りが速いので消火が追いつかず、
クレス様にお願いして〝恵みの雨〟を降らせていただこうと……!!」
ティキたちは一旦外に出た。確かに火の回りが速い。
女神クレスの〝恵みの雨〟は、本来作物のためにもたらされる雨である。この火事を鎮めることができるかは怪しかった。
「〝恵みの雨〟は作物に与えるための静かな雨よ!
こんなに火の回りが速いんじゃ、儀式の準備をしているうちに
被害がどんどん広がってしまうわ!!」
「しかし……!!」
火事で焼け出される人々の顔は恐怖に引きつっていた。
まだ家の中に子供がいると泣き叫ぶ母親。動けない年寄りを助けようと水を頭からかぶり、火の中に向かおうとする若者。
事の次第をリグは静かに見つめていた。何の縁もゆかりもない世界。それどころか自分の世界を滅ぼしたものが住む世界。けれど心の中で何かが囁いていた。
……どんな時も憐憫と尊敬の心を忘れるな……
「ちっ!」
「リグ? どこへ行くの!?」
リグは舌打ちすると火事の方向へ走り出していた。ティキの叫びに耳も貸さずに。
「この世界で効くのかはわからないが……!」
リグは業火の真っ只中に飛び込み、左手を空に上げ、古代文字の魔法陣を書き綴った。そして闇の眷属との契約を詠唱する。
「我が魂よ、古の血束により汝の力を行使する!
雷帝よ、轟け! 暗雲よ、舞い降りよ!
この地の忌まわしき獄焔を、すべて水底に打ち払え……!」
魔法陣が青白い稲妻を呼び、闇より暗い雲がヴィダリスを覆い隠した。
そしてぽつり、ぽつり……やがて滝のような豪雨がヴィダリスを襲った。
やがて、ほんの数分後……暗雲が晴れ、青空が雲の切れ目から見える頃にはヴィダリスの火事はまるで嘘のようにおさまっていた。残された焼け焦げた家々が火事の凄まじさをうかがわせる。皆ずぶ濡れになっていた。しかしそれより何より皆が驚いたのは、ひとりの少年が雷雲を呼び、この火事を鎮めてしまったことだった。
リグを中心に人々がおのずと輪をつくる。誰もが何も言い出せずにいた。
長い沈黙。しかしひとりの男から『その言葉』は発せられた。
「……化物だ。」
その言葉が合図のように皆が口々に騒ぎ立てた。
「あれは人の仕業じゃない! 悪魔だよ!!」
「兵士たちは何をやっているんだ! 早くあの悪魔を取り押さえろ!!」
聖戦士たちが数人やってきてリグを後ろ手に捕らえると、その場にひざまずかせ動けないよう首元に長槍を突きつけた。ばしゃりと泥水がリグの顔にかかる。
彼は抵抗しなかった。こうなることはわかっていた。自分の世界でさえ、彼を受け入れてくれたのはゴアとエラルだけだったのだ。
この世界に自分の居場所はない……。
わかっていたのに、俺は何をやっているんだろう……。
リグがそんなことを感じていた時、強い声を聞いた。
「待ちなさい!」
人ごみをかいくぐって、ティキとエラル、イグレックが現れた。
「せ、聖女様!!」
町人がざわめく中、イグレックが叫んだ。
「何をしている、早くその者の戒めを解け!」
「は、はっ!!」
リグの手錠が外される。呆然とするリグにティキは優しく手をさしのべた。そして民に凛とした声で戒めた。
「あなたたちは何を見ていたのですか!?
この者はあなたたちを業火から救ってくれたのですよ!!
何故、蔑むのです。何故、恐れるのです!
己と異なる力を持った者がそんなに恐ろしいか!!
それならばこの私にも蔑みと恐れの目を向けなさい!!」
町は沈黙した。
ティキに促され、立ち上がったリグにイグレックは泥水の中にひざまずいた。
「勇敢な戦士よ。この町を救ってくれたことに、感謝いたします。」
〝感謝〟。
リグにとってはじめて聞く己に向けられた言葉だった。
おずおずと若い母親がリグの傍に寄る。
「あ、ありがとうございました。おかげで……この子も焼け死なずにすみました。」
小さな小さな命。それが自分のおかげで助かった……。
何もかもはじめての感情にリグの目からは涙があふれる。しかし皆がずぶ濡れとなっている身では、誰もその涙を知る者はいなかった。
幸いにして火事での死者はいなかったらしい。焼け出された人々は一旦聖殿に落ち着かせてもらい、着替えや毛布を貸してもらっていた。ヴィダリスの人々の様子を見て回り、足りないものを貸し出す、それはエラルの聖戦士としての初仕事でもあった。
ティキたちも濡れた衣服を乾かすために服を借りていた。そしてティキは怪我をしている人々に回復の聖術をかけて回っていた。しかしひとりでは手が足りないようである。この世界では法力は女神クレスから与えられるものであり、その力は聖女のティキにしかなかった。
「ふう。後どれくらいの人が怪我をしているのかしら……。」
そんな中、リグは己の手を見つめて考えていた。
……君の聖術士としての力は本物だ……
リグは聖堂の隅に座り込んでいたが、ゆっくりと立ち上がると、ティキに声をかけた。
「……後、どれくらいいるんだ。」
「……わからないわ。
軽傷から重傷まで、まとめるとかなりの数がいそうだから……。」
「そう、か.……ならあんたはあっちを見てろ。こっちは俺がやる。」
「あなた、聖術まで使えるの?」
ティキは驚きの声を発した。
あの豪雷の呪文もすごかったが、人を癒す力も持っているというのだ。この世界では考えられないことだった。
「……少しだけだ。」
そう言うと、近くにいた火傷を負った青年の前に膝をついた。
青年はおっかなびっくりだった。当然だろう。先刻まで悪魔と罵しられた者が自分の目の前にいるのだ。復讐されやしないかとびくびくしていた。
リグは静かに呪文を詠唱する。
「我が古の守り神よ、この傷つきし身に再び活力を与えたまえ。
傷を癒す白き翼を与えたまえ……!」
白い光と共に青年の身体は癒されていく。青年はリグが本当に自分を癒してくれたことに感謝をし、また浅はかな考えをしたその身を恥じていたようだった。
……どのくらいの時間がたったのだろう。リグの力もあって夕刻前にはヴィダリスの人々の怪我は癒されていた。
「ありがとう、リグ。本当に助かったわ。」
ティキは少し疲れたように椅子に座るとリグに感謝の意を示した。しかしリグは無言だった。
エラルはそんな二人が気に食わなかった。
俺も聖術が使えていれば……。
そんな空しい思いを心の内に描いていた。
そんなエラルであったが、ふとリグの魔法に興味がわいた。
「お前、何であんな術が使えるんだ? 聖術にはない力だぜ、あんなの。」
「……。」
リグはしばらく無言でいたが、おもむろに上着を脱ぎはじめた。ティキが戸惑う。
「ちょっ……、リグ、どうしたの?」
耳を赤くして顔を両手で隠しながらティキが叫ぶ。しかし指の間から僅かに見えたリグの身体に愕然として顔を覆うのをやめた。
リグの細くしなやかな身体には、心臓を中心に古代文字でつづられた呪いの魔法陣が刺青で彫られていた。
「……これは闇の眷属との契約の証だ。
俺が魔幻士としての呪術を行使する代わりに、死後、魂を捧げるという、な……。」
ティキとエラルは言葉を失った。
「それじゃ、あんなに強力な魔法を使ったら……!」
あなたの魂はどんどん削られていく、そう言いかけたティキの言葉はリグに遮られた。
「幻魔にとっちゃ、人間の一生なんて瞬きのようなもんだ。
だからいくら使ったところで、変わらないさ。
俺が死ねば、必ず自分の元に魂はやってくるんだからな。」
「でもそれじゃ、生まれ変わることができないじゃない!!」
ティキの意外な叫びにリグは驚きの表情を見せた。
「生まれ、変わる……?」
「そうよ。人も動物もみんな死んだら魂が空に昇るのよ。
それをクレス様が、また再び大地に生命として生まれさせてくれるの。
そうやって、魂はいつまでも世界を回るのよ。」
ティキの言葉にリグは俯き、顔を手で隠すと笑いが止まらなくなった。
「リグ……?」
ティキとエラルは不思議そうに顔を見合わせ、リグを見た。
「そう、か。みんな……生まれ変わるの、か。
じゃあ俺は、義父さんとも、エラルとも、もう二度と会えないわけだ……。」
リグの笑いは嗚咽に変わっていた。二人とも、かける言葉が見つからなかった。