「懐かしい未来へ」(26)
雲より高くそびえる山の頂きにあるアインの神殿。その入口にリグとティキは現れた。
ティキはギフォンが自分たちを神殿まで送り届けてくれたことを理解すると、腕の中のリグを心配そうに見つめた。リグはまだ眼を覚まさない。ティキは彼を何とか抱えると扉を開き、中に入った。
そしてリグに治癒と解毒の聖術を詠唱する。しかし彼は眼を覚まさなかった。
ティキの頬を涙が伝う。
「リグ……、お願い、戻ってきて。
クレス様、母さん……リグを、助けてあげて。」
何とかリグを助ける方法がないかと、祈りに似た思いで考えつこうとするティキの脳裏に、昔母が読んでくれた物語が思い出された。
傷つき死の淵にあった勇者は、すべてを癒すという妖精の泉に身をあずけ、
妖精たちに回復の魔法をかけてもらったの。
そして再び目覚め、世界を闇から救ったのよ……。
「そうだ……あの泉。何とかなるかもしれない。」
ティキは独り言を呟くと、リグの装備を外しはじめた。そしてできるだけ軽くした彼の身体を何とか背負い込むと、上の泉の間まで歩きはじめた。
階段を一段一段上る度に息が上がる。しかしティキは歩くのをやめなかった。
早く、早く泉の間で、回復の聖術をかけよう。
神木の力があれば、あの泉は聖水の泉に変わる。
一口飲めば死の淵からでも回復するという妖精の泉のように……。
やっとの思いでティキは泉の間に着いた。
そのまま静かに泉の中に入っていく。一番深いところでティキの腰ぐらいある泉の中央にリグを優しく横たえる。リグは意識を失っているせいで身体の力が自然に抜けて静かに浮いていた。
ティキは皮袋の中から丁寧に布にくるんでいた世界樹の枝……神木を取り出す。そして再び泉に入ると中央からぽこぽこと溢れる湧き水の部分に神木を浸した。すると泉の水は柔らかな光と共に瑠璃色に変わりはじめた。
彼女はリグの背中を支えるように両手で触れると聖術を詠唱する。
「精霊よ、女神の忠実なる下僕よ。
傷つきし歩みを止めた旅人に安らぎの光を与えたまえ。
傷つきし翼折れた英雄に再び高く翔ぶ銀の翼を与えたまえ……!」
ティキの言霊を受け、泉は光り輝く金色の聖池と化す。
凍傷でぼろぼろだったリグの身体はさなぎが殻を破るように剥がれ落ち、再び暖かな肌色を見せた。
しかし、リグは眼を覚まさない。未だ薄黒い彼の吐息は身体の中の魔気を中和しきれていないことを意味していた。そんな彼にティキは泉の水を含ませようと両手で水をすくい上げ、口に当てる。しかし彼の口の端から水は零れ落ち、中には入っていかなかった。
ティキはしばらくリグの顔を見つめた。
リグ……。
世界を失い、独りで世界を超え、戦ってきた魔幻士。
やっとあなたの世界に再び光が戻ろうとしている。
なのに、あなたは眼を覚まさない……。
「リグ……ごめんね。あなたが眼を覚まさないから、私……。」
ティキはリグにそう囁くと、自ら泉の水を口に含んだ。
そしてそっと彼の頭を支えると、静かに、唇を重ねた。
……沈黙の世界に心臓の鼓動だけが響く。
やがてリグの喉がごくり、と鳴った。小さなうめきと共にリグの薄黒い吐息が白く変わっていく。
再びティキはリグの顔を見つめた。いとおしそうに抱きしめて。
……ここは、どこだろう。白い、闇の世界。
何か、こっちへ向かってくる白い影が見える。
影はリグの目の前まで来ると、胸の魔法陣に触れようとした。
リグは理解した。
そうだ……。俺は、魂の契約を、この白い影としたのだ。
その影が今自分の魂を喰らおうとしている。
ならば俺はもう……、死んでしまったのか。
ふと、ティキのことを思う。
彼女はどうしているのだろうか。
気がつけば、自分は彼女の支えなしではここまで来られなかった。
初めて出会った時の彼女。あの時は敵だと思った。
けれど、彼女は自分を介抱してくれた。
私の故郷へ行こうと手をとった彼女。あの時はとても優しい声で囁いてくれた。
火事を消した幻魔の力を理解してくれた彼女。あの時はとても温かい手で自分を導いてくれた。
自分の世界を救うために協力してくれた彼女。あの時は二人で力を合わせ聖術を唱えた。
義父のロザリオを届けに永遠の穴に飛び込んできてくれた彼女。あの時は彼女が自分の世界を捨ててまで、自分の大切な物を届けにきてくれたことに熱い想いが止まらなかった。
二人とも魔物になどならないと微笑んだ彼女。あの時は絶望の大地の中、彼女の言葉に自分はどれほど安らぎを感じただろう。
私は邪魔かと泣き濡れた彼女。あの時はもう二度と誰も魔物になってほしくないということばかり考えていた自分のわがままを恥じた。
幻魔の世界の魔気に気を失った彼女。あの時は胸がつぶれそうなほど心配した。自分はまた、大切な人を失うのかと。
炎の氷を求めるために恐怖の中、自分の魂を差し出すといった彼女。あの時は絶対に彼女だけは守らなければと思った。たとえ自分の世界に光が戻らなくても。
俺は、いつも後になってから、大切なことに気づくんだな……。
そんな中、白い影の手が止まった。影は静かに囁いたような気がした。
……マダ、ハヤイ……
その言葉と共に白い影も世界も暗闇の中に消えた。
まぶたを閉じた状態でも、光が外に溢れているのを感じる。ここは、何処だろう。リグはゆっくりとまぶたを開き、闇色の瞳で確かめる。
「リグ……!!」
ああ、この声だ。
俺は……還ってきた。
泉で濡れた手をティキの頬に当てる。
「……遅くなった。お前は……無事か?」
ティキは涙で濡れた琥珀色の瞳をリグの闇色の瞳に合わせる。笑顔が溢れる。
「……お帰りなさい。私は、大丈夫よ。
あなたが守ってくれたから。私の魂を守ってくれたから。」
そう言うとティキはリグを強く抱きしめた。リグもそれに応えるように彼女の肩に手をかけた。




