「懐かしい未来へ」(25)
ゲートの先。改めて観察する。
耳が痛くなるほどの静寂。すべてが凍りつきそうな絶対零度の世界。そして目で見えるほど濃く渦巻く黒紫色の魔気。そしてどこまでも続くかと思われる広い空間。その奥に小山のようなものが見えた。
二人はその山を目指して歩いていく。神宝珠の結界の力で凍気と魔気は中和されていた。しかしやはり魔気の力の方が強いらしく、ティキは時々胸が苦しくなるのを感じていた。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫……でもちょっとまだ魔気が強く感じるわ。」
「そうか……。」
リグにはこの魔気の強さが逆に心地よかった。胸の魔法陣の痛みが引いている。ここにも魔物のいる気配はない。ただ、彼はあの山から圧倒的な闇の存在を嗅ぎ取っていた。
程なく山のふもとに到着した。山は氷の塊らしく、結界の光を受けて乱反射する。しかしその光は魔気の渦の中に巻き込まれ消えていった。そして中央には氷の階段がある。二人は静かに上りはじめた。
どこまでも続く階段。一体いつになったら終わるのか不安になるほどの長さであった。ティキの呼吸が荒くなる。
もう足が上がらない……、ティキが自分の心に弱音を吐いた頃、山頂が見えてきた。
あと少しだ。そう思うと再び心が奮い立ってきた。しかしその先に何があるのか、まだ彼女には思い描く余裕はなかった。
氷の山の頂上部。何もない、広い空間である。
「何も、ない……?」
ティキが思わず落胆の声を上げる。
あれだけ苦労して上ってきたのにここには何もない。
『炎の氷』はここにはないのだ……。
しかしリグは魔気渦巻く空間の一点を見据えていた。
何かがいる。
リグはその『何か』の元へと歩を進めた。ティキが慌てて追いかける。
「どうしたの、リグ? ここには何も……。」
ティキは言いかけて、言葉を止めた。瞬間、恐ろしいほどの凍気と魔気を感じる。
広間の中心には、氷の塊が寝ていた。
塊、という表現は間違っているかもしれない。ソレは人間と同じような姿の氷の手足を持ち、髪の代わりに青い炎が揺らめいている。そして白い雪のような織物を袈裟懸けに纏っていた。
リグたちは数メートル先のソレと対峙した。するとソレはゆっくりとリグたちの方を向き、にやりと笑った。その氷の表情はまるで能面に道化の化粧をしたような三日月状の笑みを眼と口に貼りつけていた。
「……何百年ぶりかのお客さんだと思ったら、人間、とはね。驚いたよ。」
ソレは思いがけず言葉を発した。
「あんた……魔物か?」
値踏みをするようにリグはソレに話しかける。
するとソレは、けらけらと笑い出した。
「坊や、面白いこと聞くね。
君、魔幻士だろ? だったら僕のことも知ってるんじゃない?」
そう言うとソレは氷の指をすう、と長く伸ばし、リグの衣服を爪で軽く引き裂いた。リグの胸に彫られた幻魔の魔法陣が垣間見える。
「僕は〝契約〟は面倒だから、あんまりしないんだけどね。」
その言葉にリグはぞっとする思いで問いかけた。
「あんた、闇の眷属……幻魔か?」
「あたり。」
その幻魔はくすくすと笑った。その姿が逆に恐ろしかった。
「で、何の用だい?
……ま、僕のところに来る用っていったらひとつしかないんだろうけど。
アインはどうしたんだい?」
「男神アインは……死んだ。」
リグの返答に幻魔は再びけたけたと笑った。
「だからやめとけって言ったのに。
別に人間なんか創ったって面白くもなんともないんだから。
ま、新鮮な魂が喰べられるのはいいことだけどね。」
ティキは恐ろしくて声も出なかった。幻魔……はじめて見る、闇の眷属。
リグは幻魔に再び問いかけた。
「わかっているなら、分けてくれないか。『炎の氷』を。」
リグの真剣な眼差しに幻魔はにやにやと笑う。
「うーん、どうしようかな。ただあげるんじゃ、芸がないからね。」
そんな時、幻魔はリグの後ろで震えているティキを見やった。
ティキと幻魔の目が合う。彼女はその恐ろしさにぺしゃりと腰を抜かしてしまった。その様子に幻魔はいいことを思いついた、と言うようにリグに視線を投げた。
「後ろの彼女の魂を僕によこしなよ。そうしたら炎の氷をあげるよ。」
「な……!」
二人は固まった。
ティキと魂の契約をすれば炎の氷をやる……、そんなことができるわけがなかった。
「駄目だ! そんなこと……」
リグの叫びを遮るように、ティキは震える声で言った。
「……私の魂で、炎の氷をいただけるなら……構いません。」
リグは顔面を蒼白にして振り返った。ティキはガタガタと震えながら俯いている。
「莫迦! そんなことさせられるか!!
魂を幻魔に喰われたら生まれ変われないって言ったのはあんただぞ!!」
「……でも、それはリグも一緒でしょ?
私……、リグのいない来世なんて、いらない。」
「……!」
二人の様子を幻魔はにやにやしながら見ていた。まったく人間という生き物は面白い。他人の魂をどうしようが勝手だと思うのが、幻魔の考え方だ。人間はそうは考えない。他人を思いやり、庇いあい、時にはその気持ちがすれ違う。
「とにかく駄目だ! 頼む。彼女を巻き込まないでくれ。
ここは俺の世界なんだ……!」
しばらく幻魔は考えるふりをしていた。
そしてそれじゃあ、というように再びリグを見やった。
「坊や、僕と戦いなよ。戦って勝ったら、炎の氷をあげる。それならいいだろ?」
「俺と、戦う……?」
「あ、でももちろん負けたら彼女の魂はいただくよ? ……ついでに君のもね。
幻魔の契約なんて言ったって、こんなの喰べた者勝ちだからね。」
幻魔といえば闇の眷属の頂点、いわば光の眷属の頂点にあるクレスやアインと戦うようなものである。勝算などあるわけなかった。
リグはティキの方に向き直り、申し訳なさそうに告げた。
「……お前の生命、預かるぞ。いいか?」
「……私は、あなたと一緒なら、どこまでもついていきます。」
「そう、か……。」
リグはしばらくティキを見つめると、幻魔の方に向き直り、天地の聖剣を抜いた。
「ふふふ、やる気だね。そういうところ、君かわいいよ。」
そう言うと幻魔はどうっと魔気と凍気を噴き出し、リグを呼び寄せるように囁いた。
「おいで……。」
それが合図だった。
リグは聖なる結界から飛び出した。とてつもない魔気と凍気が彼を襲う。リグは身体中の痛みに耐えながら上段に構えた刃を幻魔に振り下ろす。
幻魔は左腕から氷の刃を生やすとそれでリグの刀を受け止めた。しかし次の瞬間、すぱん、と幻魔の左腕は刃ごと地面に落ちた。その腕を驚いたように見つめる幻魔。リグは返す刀で幻魔の胸を突こうとした。
しかし、その刃は幻魔の右の指二本に挟まれ、動きを止められた。
「……その刀、アインのだね? それじゃあ斬れるわけだ。」
幻魔はくすくすと笑うと、凍気を左腕に集中させた。左腕は再び元通りになる。そして刀を封じられ、身動きできないリグに口づけを交わすように息を吹きかけた。心の底まで凍りつきそうな冷気と心の奥まで蝕まれそうな魔気の吐息。
そしてリグを刀ごと宙に放り投げた。どすんという鈍い音と共にリグは氷に叩きつけられる。すでに凍気と魔気で身体は痺れ、頭は朦朧としていた。そうしている間にも周りの魔気と冷気に身体の自由は奪われていく。
「ほらほら、どうしたの? 早くしないと、彼女、喰べちゃうよ?」
リグはありったけの力を振り絞り、再び幻魔に向かっていった。しかし刀は空を斬るばかりで、幻魔にかすりもしなかった。
「リグ!」
ティキの悲痛な声が聞こえる。
時間がたつにつれ、どんどんリグの身体の痺れは増していく。必死の形相で向かってくるリグの姿を幻魔は楽しそうに眺めていた。
何度目の空振りだっただろうか。ふっと刀を横に薙いだ瞬間、リグの身体はぐらり、と崩れ落ちた。必死に刀を杖に立ちあがろうとする。俯いた顔は凍りついた黒髪に隠れ、真っ白な吐息が表情をかき消していた。ティキが叫ぶ。
「もういいわ! 私の魂でいいなら持っていって! もうリグを助けて!!」
幻魔は彼女の方を向き、にやにやと笑う。そしてリグに視線を落として言った。
「彼女、ああ言ってるよ? 御好意に甘えたら? 坊や、もう駄目だろう?
戦うのも、……人間でいるのも。」
ティキは幻魔の言葉に絶句した。
人間でいるのも、駄目……?
すでにリグは魔物となってもおかしくないほどの魔気を身体の外にも中にも晒していた。
そんな中、リグは小さな呟きを発していた。
「……我が古の守り神よ、邪なものどもの……罪を裁きたまえ、罰を与えたまえ。
……天の光よ、我らを導きたまえ……!」
次の瞬間、アインの刀は眩しいばかりの金色の光を発し、幻魔の眼をくらませた。その隙をつき、リグは最後の力を振り絞ると、座り込んだ状態から立ち上がるように刀を幻魔の股から右肩に切り裂いた。
幻魔の身体がずるり、と断層状にずれる。そのまま幻魔は後ろに倒れた。
リグもそのまま前のめりに倒れこんだ。もう彼に動く力は残っていなかった。
「リグ!!」
ティキはリグに駆け寄ろうとする。すると幻魔の笑い声が聞こえてきた。幻魔はむっくりと上半身を起こすと、ずれた身体を直し、再び凍気でつなぎ合わせた。
「あははははは。まさかこの状態で、聖術を使う……いや、使い手だったとはね。
驚いたよ。ああ、面白い。最高だよ、坊や。」
そして凍りついたかのように立ち止まり、怯えた表情のティキに視線を向けるとにやりと笑った。
「何突っ立ってるんだい? 早くその坊やを結界に入れてあげなよ。
取り返しがつかなくなっちゃうよ?」
意外な幻魔の言葉にティキは一瞬頭が回らなかった。
そしてはっとする。幻魔はリグを認めたのだと。
ティキは急いでリグに駆け寄り抱き起こす。彼は身体中赤黒く凍傷になり、皮膚が壊死していた。吐息は魔気を吸い込みすぎたせいかどす黒く変色している。
「リグ! リグ!!」
ティキの呼びかけにリグは応えない。その様子を再びにやにやしながら眺める幻魔は彼女に告げた。
「無理無理。当分元に戻らないよ。
人間がこの極寒の、しかも濃密な魔気の中で動けたのが不思議なくらいだからね。
……もしかしたら一生戻らないかもねぇ。」
くすくすと笑いながら幻魔はすう、と近寄ってきた。そしておもむろにティキの右手をつかんだ。あまりの冷たさと恐ろしさにティキは動けなくなる。そんな彼女を幻魔はやはり面白そうに眺めると、彼女の手のひらに青白い炎を燈した。
すると氷が炎を中心に固まっていく。やがて炎が閉じ込められた氷の珠ができた。
「それが炎の氷。このギフォン様の炎さ。」
「ありがとう……ございます。」
ティキは恐ろしさを隠せず、震えながらも礼を述べた。
それよりも今はリグが心配だった。
幻魔……ギフォンは二人をかわるがわる眺めてにやにやと笑った。
こんな面白い出来事は何百年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない。
「君たち、これからアインの城に戻るんだろ?」
「え、あ、はい……。」
「気が向いたらまたおいで。じゃあね。」
次の瞬間、リグとティキの姿は氷の世界から消えていた。
ギフォンはひとつ伸びをすると、またごろりと横になった。次の楽しい来訪者を心待ちにして。




