「懐かしい未来へ」(2)
「う……あ……。」
どのくらいの時間がたったのであろう。リグは意識を取り戻した。
あたりを見回す。清潔なベッドに明るい天井。永遠の穴ではない……。
「ここ、は……。」
「あっ、気がついた? 安心して。ここはクレス様の神殿よ。」
ティキはほっとし優しげな微笑みをリグに向けた。ここは女神クレスの神殿の東の塔、巫女たちが休息に使う場であった。
「……クレス?」
さっきの、女……。何故自分はここにいるんだ?
身体の手当てがしてある。この女がしたのか?
『クレス』というのも誰のことだかわからない……。
リグには永遠の穴に入ってからわからないことだらけだった。
「あなた、かなりひどい怪我をしていたわ。しばらく休まないと駄目よ。
話はまた後にしましょ?」
ティキは不安げなリグの表情を見て取り、ここは安心だというように軽く肩をなでた。そしてまた後で来る、というように後ろ歩きで彼を見やると、クレスの元に報告に行こうと階段に足を向けた。
すると階段前で待っていたエラルに足を止められた。非常に不満そうな顔をして、彼はティキに詰め寄った。
「ティキ、どういうつもりなんだ?」
「何のこと?」
「あいつだよ! 何で永遠の穴なんかにいたんだ!?
おかしいじゃないか!! もしかすると魔物かもしれないんだぜ!
そんなのを何で連れてきたんだ?」
得体の知れない人間を何故ここまで連れてきたのか、エラルにとっては非常に不服だった。しかもティキでは力不足だから、自分がリグを担いできたのだ。それがなおさら我慢がならなかった。
「あの人は身体を魔気に侵されていたわ。放っておけるわけないじゃない!」
ティキは仏頂面のエラルを諌める。たとえ彼……リグが魔物であったとしても、あの姿を見て放っておけるわけがなかった。彼は、ティキが見てきた魔物の中でも最も哀れな存在に映ったのである。
「お前はあいつに殺されかけたんだぞ!? 俺が行かなきゃ今頃は……!」
刃がティキに向けられていた、あの瞬間を思い出すとエラルはぞっとする。もしもあのまま自分が行かなかったらティキはもう戻ってこなかったかもしれなかったのだ。
「でも、あの人、とても悲しそうな眼をしていたわ。
私は……あの人、悪い人じゃないと思う……。」
ティキははじめてリグと目が合った時の光景を思い出す。虚ろな闇色の瞳……、まるですべてを失った嘆きの涙で覆われているかのようだった。
「俺はあんな奴、信用しないぞ!! ……勝手にしろ!」
怒りが頂点に達したエラルはティキを押しのけて階段を降りていった。自分の忠告にまるで耳を貸さない彼女に怒りを覚えていた。そしてリグのことを思い浮かべる。あいつは疫病神だ。いつかティキに災いをもたらすに違いない、そんな気がしてならなかった。
そんなエラルを見送りながら、ティキは深い溜息をひとつついた。何故エラルがあれほど躍起になって怒るのか、不満でもあり不思議でもあった。
……エラルからすれば他の男がティキに近寄ること自体が我慢ならないことなのだったが、彼女がそれを知る由もなかった。
ほとぼりが冷めて彼女も下に降りていくと、ところどころで巫女たちがリグのことを噂しあっていた。近くの巫女が仲間に背中を押されている。その巫女は何度も仲間の方を振り返りながらティキに近寄り、言いにくそうに質問した。
「さっき、連れてこられた男の人、どなたなんですか?」
「え?」
「え……、いえ、申し訳ありません!!
みんながかっこよかった、って言うから気になって……、すみません!!」
その巫女は脱兎のごとく仲間の輪の中に消えていった。
ティキは唖然としたが、思い返してみると確かに綺麗な顔立ちをしていた。
実は巫女たちはこの神殿にはイグレックの他はあまりいい男が来ない、といつも噂していたのだ。女は勝手である。
ティキは再び謁見の間を訪れた。彼女が永遠の穴に入ったことはすでに女神の耳にも届いていたらしい。女神はその美しい顔の眉をひそめて静かに告げた。
「……永遠の穴に行ったそうですね。」
「申し訳ありません……。」
頭を深く下げるティキ。クレスの言葉を聞きいれなかった自分を彼女は素直に反省した。
「あまり無茶はしないでくださいね。……で、何かあったのですか?」
「はい、それが……魔気に侵された男の人が倒れていたんです。
今、手当てを済ませました。」
「男の人?」
「はい、でも何だかおかしなことを言っていました。
『風』だとか、『鏡を返せ』とか……、何のことでしょう?」
「……!」
クレスの顔から血の気が引いた。明らかに動揺しているようであった。
「……? クレス様?」
「い、いえ……何でもありません。早く……良くなると、いいですね。」
もう下がりなさい、というようにクレスは眉間を抑えて俯いた。ティキは一礼をして静かにその場を立ち去る。
何かおかしい……。
ティキは本当に平和な時が戻ったのか、不安を感じていた。
しばらく神殿の中で、巫女たちの様子を見て回る。
ふと、彼の様子はどうであろう、気になったティキは再び静かに階段を上がってきた。リグは眠ってしまったようであった。しかしひどく苦しそうにうなされている。
「……とう、さ、ん……。エラ、ル……!」
「エラル……?」
ティキは懐のロザリオを触った。永遠の穴にあった赤黒い砂……魔物の痕跡であろう砂の山の中に埋もれていた古びた十字架であった。何となく気になって持ち帰ってきていたのだ。
「これは……彼のなのかしら?」