「懐かしい未来へ」(18)
塔を降り、重厚な扉を開こうと力を入れた。すると扉は魔気に腐食されていたらしく、ぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
下界は青銅色の沼と血の様に赤い草の荒野であった。ギネムハーバはもはや跡形もなく沼の底に沈んでいる。リグはティキを気遣うように沼の浅いところを選んで渡り歩く。
ティキはそんなリグの優しさに幸せを覚え、またそれだけ自分が足を引っ張っているのではないかという自己嫌悪にも陥っていた。
赤い荒野を南に下る。風の唸りには魔物の咆哮らしきものも混じって聞こえてくる。太陽の光がないため、今が昼なのか夜なのか、時間の感覚がなくなっていた。黙々と歩くリグとティキ。ティキはこの魔気の濃さに少しめまいを覚えていた。しかしリグの足手まといになるまいと必死に彼の背中を追いかけた。
そんな中、赤い草原がざわざわと揺れた。リグの眼光が鋭く光り、背の刀に手をかける。
「おい! 注意しろ、そっちに気配がする!!」
リグの声が届くか届かないかという時、ティキの背後の土が盛り上がり、小山ほどもある双頭のムカデが現れた。
「ちっ!」
リグは刀でムカデの左頭を切り裂こうとする。しかしその刃ははじかれ、リグは宙を舞った。何とか態勢を整え、着地する。魔物の表皮が硬すぎるため、リグの刀では歯が立たないのだ。
リグは一度刀を鞘に収める。そんな中、もう一振りの刀が手に触れた。
男神アインの天地の聖剣である。
「……使わせてもらう。この世界の主よ……。」
リグは天地の聖剣をすらりと抜いた。その刀身は銀色に光り、白い光の粒が宙を舞う。リグは地を蹴り、再び魔物の左頭を横に薙いだ。それはまるで空気のように音もなく斬れていく。リグは予想以上の聖剣の力に驚きつつも、返す刀で再び魔物の胴体の部分を縦に切り裂いた。
リグが左の頭部を相手にしている一方で、右の頭部はティキに狙いを定めていた。丸い口唇から中心へと放射状に伸び集まる牙は久しぶりの血肉に歓喜の唸りを上げ、ばくばくと震えていた。魔物はティキに頭から覆い被さり、そのまま喰いちぎろうとする。
ティキはそれを横っ飛びに交わすと、『三日月の白刃』の術を詠唱し、錫杖を魔物の頭部めがけて振り抜いた。しかし白刃は宙空を走るうち、腐食するように光を失っていき、魔物に当たる頃には光の塵と化していた。
ティキの聖術の力よりも魔気の方が強いのだ。どうやらこの世界で聖術を行使するためには、より高度な聖術と高い集中力が必要であった。
地面に激突した右頭はぶるんぶるんと頭を振ると再びティキに牙を向ける。ティキはとっさに錫杖の宝珠部分を魔物の牙の部分にはさみ、口の中に入れた。魔物の押し寄せる力に、ティキは全身の力を使って耐えながら、精一杯の法力を込めて聖術を詠唱した。
「精霊よ、女神の忠実なる下僕よ! 不浄なるものを浄化し、光に還せ!!」
錫丈の翡翠玉から眩しい光が放たれる。魔物の口腔内は聖なる光で溢れかえり、中から血肉がどろりと溶け出していった。相手に届く間に光が消えてしまうならば、直接光をねじ込んでやればいいと考えたのだ。
魔物は突然頭を高く持ち上げ、苦悶の咆哮を上げた。牙に錫杖が引っかかっているティキも魔物ごと宙へ飛ばされる。
「きゃあっ!」
手から錫杖が離れ、地面に背中から激突する。その激痛に一瞬呼吸が止まった。
魔物は怒号を上げながら再びティキへと向かってきた。ティキは地面に叩きつけられた衝撃でまだ動けずにいた。何とか逃れようと身体中に動けと命令を出すのが精一杯だ。
その時。
一閃、光が走った。
一瞬の間をおき魔物の頭は断層のようにずれ込み、倒れていった。
「……怪我はないか?」
リグだ。
まだ動けないティキの元へ砂塵と化した魔物から錫杖を抜き取り、彼女に渡す。
「ええ、大丈夫。……ごめんなさい。」
ティキはやはり自分は足手まといだと痛感した。
「……気にするな。聖術士であるあんたの身体には、この世界は辛いだろう。」
そう言うとリグは背中の皮袋にしまっていた神宝珠をティキに渡した。ティキは静かに受け取ると、宝珠をそっと胸に抱きしめた。光の波動が彼女を癒していくようだった。
「結構な重さだから、あんたに渡すのはよそうと思っていたんだが……。
その様子じゃ、あんたが持っていたほうが良さそうだな。」
「ありがとう。……ちゃんとこの石は守るから。」
そんな彼女をリグは冷静に観察していたが、まだ息が荒い。神宝珠の力を持ってしても神の眷属に近い彼女の身体にはこの魔気に溢れた世界は辛いようだった。
リグはグレダリオで一度休息を取ることにした。もっとも休息を取ることができる場所があるとは思えないが、それでもこの場所から一番近い町はそこしかなかった。
「ここから少し行ったところに町があった。そこなら何とか休めるかもしれない。」
「ごめんなさい、リグ……。」
「気にするな、どうせ中継地点だ。
アインの村に直行したところでたいして変わらない。」
そしてリグは一言つけ加えた。
「これから戦うのはすべて俺に任せろ。この聖剣の切れ味は半端じゃない。
あんたは自分を守っていればいい。」
「でも……。」
申し訳なさそうにするティキにリグは諭した。
「……あんたが自分を守るということは、神宝珠と俺を守るということだ。
だから、必ず俺の傍にいろ。
あんたに離れられたら、俺も魔物の仲間入りだからな。」
ティキの鼓動が激しく高鳴った。
私は、リグの傍にいていい……!
ティキは神宝珠を胸に抱き、リグをまっすぐ見つめ、固く約束した。
「……わかりました。この宝珠は必ず守ります。あなたの傍は死んでも離れません。」
そう、死んでも絶対に……。