「懐かしい未来へ」(1)
世界の最も高き山の頂きに存在する女神クレスの神殿。
あの事件から一夜が明けていた。
謁見の間ではティキがクレスの下にかしずいていた。
「ティキには本当に感謝しています。ありがとう。」
麝香の甘い香りを漂わせ、クレスは優しく告げた。
「さあ、早くお母様のところにお戻りなさい。」
ティキは少し間をおくと、意を決したように女神に告げた。
「その前に、永遠の穴に逃げた魔物の後を追わせてください。
もしかすると、まだ隠れているかもしれません。」
女神クレスは珍しく動揺したように声を張り上げた。
「……いけません! そんな危険なこと……!!」
「ですが……。」
ティキには納得がいかなかった。あの穴の先に小さな階段を見つけていたのだ。あの魔物が再び上ってこないとも限らなかった。
「穴の入口は厳重に封印させます。だから心配しなくても大丈夫ですよ。」
「……わかりました。では失礼します。」
謁見の間から静かに去るティキ。クレスはその姿を少し不安げに見送っていた。
世界に流れた魔気も消えたようだった。
再び訪れた平和。
でも何かが引っかかっていた。
ティキはクレスの動揺した顔を思い出しながら、やはりあの先は調べなくてはならない、そう感じた。
こっそりと地下に続く階段を下りる。そこには扉の修繕を命じられた聖戦士がひとりいた。彼はティキの姿を認めると敬礼をした。そして申し訳なさそうに告げた。
「クレス様に扉の封印を命じられました。
誰も通すなと言われております。どうかお戻りください。」
「ほんのちょっと用事があるの。すぐ戻るから。」
ティキは女神クレスに背いている自分に少し罪悪感を覚えながら、どうしたらいいか困っている兵士の横をすり抜けて永遠の穴へと降りていった。
ティキは女神クレスを助けた広間まで降りて行く。そしてその奥にある魔物が落ちていった穴を覗いてみた。やはり小さいが苔むした階段がついている。そして魔物のものであろう足跡が苔を押し潰していた。
滑らないように慎重にティキは降りて行く。程なく小さな部屋に降りてきた。魔物が落ちた後であろう。おびただしい緑青色の血が床に広がっていた。
ティキは部屋を見渡す。魔物の姿はない。魔物の血は部屋に唯一ある小さな銀の扉の奥に続いている。ティキは意を決し、扉に手をかけた。すると扉は音もなく開き、彼女を迎え入れた。
部屋の中は不思議な空気で満ちていた。床には青白い線で六芒星が描かれ、そして揺らめくことのない青い炎のかがり火がそれぞれの頂点に立っていた。そしてその中心には白い闇を見せる穴がひとつ。
そして……、ひとりの少年がまるで心を亡くしたかのように膝を折って座っていた。黒づくめの姿に緑青色の返り血を浴び、闇色の髪がその表情を隠す。視線は赤黒い灰に落ちているようだった。
「……誰?」
ティキは耳が痛くなりそうなほどの静寂の中、恐る恐る声を発した。
すると、ぴくりと少年はティキの方に視線を向けた。虚ろな闇の瞳がティキを捉える。
「……貴様が、『風』か?」
ぽつり、と少年……リグは言った。
この女から微かに鏡が奪われた時のあの甘い香りが漂っている。
コイツハ テキ ダ……!
リグは頭の中でこだまする音に応えるようにゆらりと立ち上がった。
「え……?」
「鏡を……返……せ!」
リグは魔気に侵された身体のすべての力を振り絞り、ティキに向かっていった。
「待って……! あなたは一体……!!」
リグの一撃をティキは錫杖で防いだ。
とっさに構えたため防ぎきれないかもしれないと、身の危険を感じたティキだったが、その一撃の驚くほどの軽さに逆に驚いた。
リグの手から刀がこぼれる。もはや彼には戦う力は残っていなかった。そのまま崩れるように身を屈めこむ。
「く……そ……!! ゲホッ、ゲホッ!!」
「あなた……どこか悪いの? しっかりして……!」
苦しそうに顔を歪めるリグにティキは近寄る。
彼は何者なのだろう?
なぜ刃を自分に向けてきたのだろう?
いえ、そんなことより彼の身体は大丈夫なの?
肩に手をかけようとするティキにリグは震える力で精一杯の抵抗をした。
「触る……な……! ……この……!」
リグは床に転がる己の刀の刀身を掴むと、手から鮮血をこぼしながら刃をティキに向けて突き刺そうとした。
「きゃあっ!!」
そんな中、銀の扉が再び開き、息咳って金髪の少年が姿を見せた。エラルであった。彼はまさにティキに刃が襲いかかろうとしたところに現れた。懸命の叫びをあげる。
「ティキーッ!!」
「エラル!!」
ティキは何とか身体をそらせてリグの刃の切っ先を交わしていた。幼馴染の助太刀に心なしかほっとした表情を見せる。
「エ……ラ、ル?」
リグの刃が止まった。
エラル……。
もう二度と還らない、俺の、親友……。
「しっかりして!!」
リグの意識は闇に融けてゆく。ティキの叫びももはや耳に届かなくなっていた。