21話 貝殻
洞窟に身を潜めたギリル。
だが、そこには何かが先に潜んでいた。
洞窟の壁にもたれて、ギリルは痛みに耐えていた。アクアリス城から逃げ出す事はできたが、それ以上遠くには行けなかった。城の裏手に出たときに、何となくふらふらとこの洞窟まで辿り着いた。海水に身を浸すのは、何故か身の毛もよだつほど恐ろしい事の様に感じたギリルは、最後の力を振り絞って、浮遊して洞窟に入った。
「力を回復しないと、此処から出る事も出来ないな……」
簡単な止血を施した。重要な身体の器官は避けていたらしい傷はそれでもまだ出血が止まったわけではない。適切な処置をしなければ、傷口が膿んでくるのは時間の問題だろう。
「くそっ、あのガキがっ……」
ギリルが、地面をダンっと拳で叩いた時、キーキーと小さな鳴き声が聞こえてきた。声のする方、自分の直ぐ斜め後ろに視線をやると、暗闇の中で小さな生き物が蠢いているのが見えた。
ギリルは、その小さな薄汚れた生き物を暗闇から引きずり出した。薄い小さな翼をペラペラと弱弱しく動かしながら、キーと鳴くそれは、かなり弱っているように見える。
「コウモリ?……」
そう言った瞬間だった、ギリルの指に小さな牙が食い込み、血を吸い上げ始めた。
「くそっこいつ!」
ギリルは、腕を思いっきり振ってコウモリを放り投げたが、ギリルの血を吸ったそれはパタパタと翼を羽ばたかせギリルの上を舞っている。
『ありがとうと言った方がいいか? それとも、ご馳走様と言った方がいいか、黒の魔法を持つ者』
ギリルは、自分の頭の中に直接話しかけてくる声を、追い出そうとでもする様に頭を振った。
『どうやって手に入れたのか知らぬが、お前は黒の魔法を持っている。私には、お前の助けが必要だ。そして、お前には、その傷を治す方法が必要なのではないか……』
ギリルは、頭の中に話しかけてくる、たぶん自分の頭の上を舞うコウモリの声に苛立ちを覚えた。魔法の存在しない国で育ったギリルでも、自分の持つ力の威力を実感してからはどんな事でも受け入れる事が出来るようになっている。例えコウモリが人の言葉を話すとしても、別に前ほどは驚く事でもなかった。
だが、コイツは信用できない……そう直感した。
『傷の治し方を教えてやろうではないか、その代わり私を受け入れてくれ。お前には選択の余地はなかろう?』
確かに、このまま放っておけば、絶対とは言わなくとも死んでしまう確立は高い、そうなれば守護者を手に入れ、この世界を自分の物にすることなど出来なくなってしまう。
でも……コイツは何者だ……
「お前が何者なのか、それが分からないまま受け入れる事は出来んな。正体を明かせ、その上で交渉しようじゃないか」
『ほう、それほど馬鹿ではない様だな。あの単細胞のガリアとか言う坊やとそっくりな割りに……ずるがしこい……』
「お前もガリアを知っているのか」
『あの青き剣士を知っている? ああ、よく知っているさ。頭で考えず、感情だけで生きてるような愚か者……お前は奴とどんな関係なのだ』
ギリルは、ふんっと鼻を鳴らした。
「あいつは、俺の双子の弟だ……生まれた時から、気に食わない奴だよ。っで、お前は何者だって聞いてるだろう」
『私は、黒の魔術師……守護者との戦いでこの姿になった。だが、私の知識、力の全てをお前にやろう。私の代わりに守護者と青き剣士ガリアを倒してくれないか』
ギリルは、コウモリを見上げ考えをめぐらせていた。黒の魔術士ならば、自分の持つ黒の魔法と同じ者なのだろうか。いや、自分の中の黒の魔法とは異質なものを感じる。だが、何が自分にとっていい方法なのか、どうすれば自分に一番有利なのか、このコウモリに騙されず、知識と力だけを奪い取る事が出来れば、このコウモリが持つ力も己のものとする事が出来るはずだと思った。
「分かった……だが、復讐を果せと言うなら、まずは傷を治せるかぐらいは確認させてもらうぞ」
コウモリは、洞窟の隅のほうから、自分の身体とあまり変わらない位の大きさの袋を持ってきた。
『これは、此処に捕らえていた薬師の小物袋。その中に入っているもので、傷は完全に治る。私の言う通りに調合すればいい……』
ギリルは、小物袋をそっと開けて、そのまま逆さまにした。
シャンがダルタに貰った万能薬や、シャン自身が集め煎じたり、乾燥させた薬の材料が、少量ずつ地面に落ちた。
「どれをどうすればいいんだ」
ギリルがゆらりと立ち上がった。その胸の傷は既に癒えていた、シャンの小物袋を踏みつけながら、ギリルは洞窟の入り口に向かった。
「人など、愚かなもの……こんなに簡単だ。ああっこの身体は悪くない……この男の持つ黒の魔法は上質だし、青の剣士の双子の兄か……面白い事になったものだ……」
ギリルの真っ黒な闇のような瞳に、人の瞳のような瞳孔ができてくる。ククククッと、ギリルは笑った。それは、闇の魔術師ジードの笑い方だった。
ガリアは、川の水がバシャバシャと豪快にはねる音で目を覚ました。凄く幸せな夢を見ていた。シャンをこの腕に抱き、口づけ甘い時を過ごした。
もっと、浸っていたかった夢を中断させた音の正体を見つけ、大きく溜め息を漏らした。
「おいっグロウ……何をやってるんだ……」
グロウは、いかにも楽しそうに水飛沫と遊んでいる、と言った感じだ。
そう、水飛沫がグロウの周りで遊んでいるのだ。
「なんだ?」
『グロウは、青き剣士の馬。青き剣士は守護者を守る者。守護者は精霊と契約せり者。仲が良くて当たり前だろう……あのグロウも、精霊に近い存在なのだ……遊んでいるだけだ』
「そうなのか……水の精霊は遊び好きと言うか、何だろう……人の子供のような人懐っこい感じがする……いつも楽しそうだ……」
ダルタの姿の青の魔法は、目を細めて川で遊ぶグロウを見つめている。
『精霊達は、どの精霊もみな、人の子供ように遊び好きで、悪戯好きで、可愛らしい。純粋すぎて悪用されぬよう、契約した者の言う事しか聞く事が出来ぬようになっている。遠い昔に神々が決められた事』
「シャンだけが精霊と契約できる……名を隠す者……シャンは、シャンの名前は……本当の名前は……俺には教えてもらえないんだろうな……」
ダルタは、ガリアに視線を移した。
『青き剣士、お前は守護者を守りたいのか? それとも、愛しているのか……どちらだ……』
ガリアは、ダルタの質問の意味が、今ひとつ分からないとでも言うように、首を傾げた。
「愛してる……だから、シャンを守りたいんだ」
『愛してなければ、守らぬという事か?』
ガリアは、目を大きく見開いてダルタを見つめた。
「何言ってるんだっ、守るさ……助けなきゃならないなら、守らなきゃならないなら、相手を愛してなくても守る。でも、シャンは、シャンは愛してる……守らなきゃならないから愛したんじゃない。愛してるから……守りたい」
ダルタは、ゆっくりと頷いた。
『そうか……ならば、いつか本当の名を知る事となろう……さぁ、出発だ』
レノは、城の裏庭で短剣投げの練習をしていた。城の兵士に貰った短剣は上等ではなかったが、きちんと手入れされていて使いやすかった。
何に使うのかと聞かれて、思わずお守りにするだけだと嘘を言った。その兵士は嘘だと知ってかしらずか、微笑みながら危ない真似はするなよと言って手渡してくれた。城の中の人間は、皆がレノに優しかった。何十年も闇に捉えられていた幼子を、皆が哀れに思っていたのだ。
裏庭での短剣投げの練習も、知っていて誰も止めなかった、自分の身を守れる術を持ちたいと思っているのだろうと考えていた。そこで危なくない様に、ちょくちょく城の使用人がレノの様子を見に来ては、安全を確かめていた。
ターンッ
「やったっ」
何度目かで、レノの放った短剣が、的の中央に綺麗に突き刺さった。その時、レノの背中を冷たいものが覆った。
「上手いものだな……」
その慣れた冷たさに、レノの身体が強張った。
「慣れ親しんだ身体だが、今はこの身体の方が気に入っている。お前には他の事で働いてもらおう……」
レノの顎を冷たい指が掴んで上を向かせた。そこに見えたのは、ガリアの兄と名乗った男の顔だった。
「あっあ……」
レノは、その場に崩れ落ちた。
シャンは、寝台の上で目を覚ました。横になったまま、今まで見ていた夢にまだ包まれていた。ガリアの腕がさっきまで自分を抱きしめていてくれたように、自らの腕を身体に回してみる。やはり、とてもガリアの温もりに足りるものではない……シャンの胸は切なく疼いた、至福の夢は、今は切なさと、虚しさをシャンに与えていた。
「ガリア……」
もう一度、そっと目を閉じた。そうすれば又、夢の中に戻れるかもしれないと淡い期待をした。でも、あの幸せな眠りに戻る事など出来はしなかった。寝台から起き上がって、皮の胸当てを着け鏡の前で身だしなみを整える、窓の外は、薄っすらと夕日の色に染まり始めていた。
「かなり寝てしまったみたい……」
ノックの音がして、すぐさまレノが飛び込んできた。
「はいっこれ……守護者さまにあげる。海岸で拾ったんだよ」
そう言って、レノは大きな貝殻を差し出した。
「まぁ、綺麗ね、ありがとう……ヤドカリさんは住んでないのかしら?」
レノはおかしそうに笑った。
「住んでないよ。でも、波の音が聞こえそうでしょう」
「本当ね、波の音が聞こえてきそうな貝殻ね、わざわざ拾ってきてくれたの?」
頬をピンク色に染めて、恥ずかしそうに微笑みながらレノが頷いた。シャンは貝殻を耳にあて、音を聞くような仕草をして見せ、目を閉じた。
そのシャンの脳裏に、いきなり、全く知らない女を抱くガリアの姿が浮かんできて、慌てて目を開けた。
『あの手の速いガリアが? 一緒にいる女に手を出さない?』
双子の兄ギリルだと名乗った男の言葉が甦る。オーゴニアに帰って、そこにはガリアの恋人が待っているのかもしれない。ガリアは、恋人と過ごしているかもしれないではないか。もう、自分の事など忘れているかもしれない……。
シャンは、持っていた貝殻を取り落とし、初めて自分の手が振るえているのに気付いた。
「守護者さま? どうしたの?」
「なっ何でもないわっ……本当に、ありがとうレノ……さぁ、そろそろ夕食じゃないかしら……」
「そうだよ、それを言いに来たんだった」
レノは、シャンの手を握って引っ張っていった。
シャンの脳裏に浮かんだガリアの姿……
自分を好きだと言ってくれた言葉を疑ってはいない……でも、自分はガリアの事を、何も知らないと今になって気付かされていた。