この心臓を君に捧ぐ
19世紀、イギリスを騒がせた連続殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー。
これは、切り裂きジャックの名で呼ばれた殺人鬼についての記録である。
最初の事件は身も凍るような寒い冬に起きた。
旧4番街の裏路地で斬殺された花屋の娘の死体が見つかった。目撃者は0。
しかしこの手の事件は珍しくもなく、警察は彼女の交友関係を中心に犯人捜索を開始した。
しかしどうだろう。調べても調べても、それらしい人物は一向にあがらない。通り魔の線も洗ったが、めぼしい人物も手掛かりも見つからないまま、1ヶ月後次の事件が起こった。
事件が起きる度に警察も総動員で犯人を追ったが、その正体すら掴めないままで20人以上の犠牲者を出していた。被害者は年齢、性別、職業問わずバラバラ。身体中を切り刻み、遺体を放置するという殺人を楽しむかのようなその手口から、いつしか犯人は切り裂きジャックと呼ばれるようになっていた。
市民は殺人鬼と、それを捕まえられない警察に対して怒りを募らせていた。地道な捜査を行うも、事件が起きる間隔もバラバラ、凶器がいつも鋭利な刃物であるということ以外は何の手掛かりもないまま、イタズラに時間だけが過ぎていた。
そんな事件がついに動く。最初の被害から6年後、犯人が捕まったのだ。急転直下の展開に、警察だけでなく世間もどよめいた。逮捕に一役買ったのは、まだ21を過ぎたばかりの青年警察官、フィリップ氏だった。
6年にもわたる凄惨な事件の解決に携わった彼の出世は、誰の目にも見えていたことだろう。
*
かつ、かつ、かつ。
生気を失ったような色の廊下に足音が響く。背筋をぴんと伸ばして歩いてくる彼に、明らかに年上であろう看守は礼儀正しく敬礼した。
「ご苦労様です」
「ご苦労様です。上1級犯罪者の牢はこの奥ですよね?」
「ええ。許可証の提示をお願い致します」
青年は胸ポケットから上司のサインの入った許可証を取り出し、看守はお気を付けて、とまた敬礼した。青年は軽く頭を下げ、薄暗い廊下を迷いなく進んでいった。
かつ、かつ、かつ。
訓練の際に体に染み付いた規則正しい足取りで、青年は進んだ。閉鎖的なこの空間には、生を感じられるものが何もなく、壁も、床も、空気までもが半分死んでいるようだった。
かつん。
青年の足音は、一つの牢の前で止まった。上1級犯罪者。極刑は免れないであろう凶悪殺人犯やテロリストが行き着く先。収容者は、みな死に片足を突っ込んでしまったような連中ばかりだ。
他の牢とは違い、中を覗けるのは顔の高さについた小窓だけ。そこにも頑丈な鉄格子がかけられており、腕が通るか通らないかの幅しかない。
「久しぶりだな」
青年は深く被っていた軍帽を少し持ち上げ、金色の瞳で牢の中を睨んだ。
「久しぶり」
その眼光を殺人鬼はふふ、と笑って青い瞳で受け取った。
「いや、それよりおめでとうと言うべきかな?君昇進が決まったんだってね」
何もない牢の中で、ジャック・ザ・リッパー改め、青年クラヴィスは立ち上がった。
「ずいぶん立派になっちゃったね、フィリップ。まさか僕を捕まえちゃうなんてさぁ」
鉄格子のかかった小窓の前に立ち、フィリップの顔をまじまじと眺める。
彼にかけた賞賛の言葉の中には、古くからの親しさを感じられた。
「ああ、もしかして僕と君の関係は世間には知られない方がいいのかなぁ。他人の体で話そうか?誰が聞いてるかわからないからね」
「要らぬ心配だ。こんな所にそうそう人は来ない」
フィリップが苛立ちながら言うと、それもそうかと殺人鬼は肩を竦めた。真っ白な髪が揺れる。
「クラヴィス、自分が何をしたのか分かっているのか?」
年の割には硬い喋り方をしながら、フィリップは問いた。
「もちろん。いちいち数なんて数えてないから、何人殺したかは分からないけど」
ふざけた様子でクラヴィスは答えた。フィリップは軽蔑の眼差しをやめずに話を続けた。
「…最初の事件が起きたのは6年前だ。貴様が孤児院を出てから」
「いや、最初に人を殺したのはあそこにいた時だ。君も院長先生も、誰も気づかなかった。まぁ当たり前かな」
くっく、と肩を震わせる。涙などではない。この男はいつだって笑うのだと、フィリップは知っていた。
「…まさか最初って」
「うん、僕の両親だ。僕は戸籍もないからねぇ。捜査線上に上がるどころか、子供がいたことすらみんな知らなかっただろうね」
クラヴィスの両親が殺されたことはフィリップも知っていた。恨まれることも多い仕事をしていたし、怨恨が引き起こした事件だろうと片付けられていた。
「ああ、そういえば新聞には被害者は29人になってたね。でも君達が切り裂きジャックの名前をつける前にも殺してるから」
「貴様…いい加減に…!」
クラヴィスの軽口に、フィリップは腹の中に収めていた怒りが爆発しそうなのを感じた。
彼の怒りがどれくらいのものか理解できない程、クラヴィスも馬鹿ではない。理解できた上で、また彼に笑顔を向けた。
「君が立派になってて嬉しいよ」
*
「おめぇ、もう長くねぇぞ」
顔に傷痕の走った闇医者がそう告げた。
「どれくらい?」
クラヴィスは青い瞳をいつもより少しだけ見開いて問いた。
「さあな。ただこのままほっとけば確実に死ぬだろう。ちゃんとした病院にでも行きゃあ別だろうがな」
ボロボロになった椅子をギィィ、と回して、闇医者はタバコに手を伸ばした。その様子も、言葉も、クラヴィスはさも当たり前かのような顔で受け取った。
そして、深いため息を一つして、微笑んだ。
「そうか、そうか。じゃあ僕のこの殺人衝動も、殺人行動も、もうすぐ終わりが来るってことか」
「…狂ってるな、おめぇは」
「狂ってるとも。ずぅっとさ。でなきゃこんなに全てを血で染めることもなかった」
いつも通り、まるで殺人鬼ではないかのように朗らかに話すこの青年を、闇医者はじっと睨んだ。
「…香典代わりだ。今日の診察代はチャラにしてやるよ」
「本当?ありがとうドクター」
医師免許も誇りも持たないこの薄汚れた男をドクターなんて呼ぶのは、実にこの青年一人だけだった。
「おめぇ、これからどうするつもりなんだ」
低く、生きてきた年月を感じさせるような声で聞いた。
「これからも何もないでしょ。うん、まぁいつも通り、また殺したくなったら殺すだけだよ」
色のない笑顔で闇医者と別れた。
クラヴィスは高利貸しの家に生まれた。しかし彼らは、自分達とは似ても似つかないクラヴィスの存在を良しとはしなかった。真っ白な髪と肌に、青い瞳。最初は妻の浮気が疑われ、離婚寸前まで夫婦は争った。
そして気付いたのだ。
悪いのは誰か。
この子供だ、と。
それは全くの見当違いであったのだが、それを諌める者はいなかった。夫婦はクラヴィスのことを隠し、戸籍も作らなかった。いない者とされ、虐待を繰り返されたクラヴィスは、やがて孤児院に引き取られた。クラヴィスという名前も、両親ではなく院長先生がつけたものだった。
孤児院で出会ったのは、両親を事故で亡くしたフィリップ。クラヴィスより2つ年上で、正義感も強く面倒見のいい少年だった。他にも様々な事情で何人かの子供が暮らしていた。
院自体は裕福ではなかったが、温かな場所を手に入れたクラヴィスの心の傷は癒えている。そう思われていた。
しかし、彼はしっかりと両親への憎しみを腹の奥に隠していた。時間程度では、彼の憎悪を鎮めることは出来なかった。13になったら彼らを殺そう。そう真剣に考えていた。
「待って!あの人が悪いのよ、私は言われた通りにやってただ…」
声が途絶え、赤い血が迸る。ナイフにも、壁にも、クラヴィスの白い頬にも。
彼らが多くの人に貸し付けて手に入れた立派な家には、どす黒い花が咲いた。
クラヴィスはまるで買い物に行ってきたかのような顔でまた孤児院に戻っていった。
「クラヴィス、どこ行ってたんだ。院長先生が心配してる」
「ちょっと散歩」
大人っぽく話しかけてきたフィリップに、子供っぽく笑った。
その年の冬、クラヴィスは孤児院を出た。
ちょうど時期を同じくして、ジャック・ザ・リッパーによる最初の被害者が出た。
闇医者の隠れ家を出た後、クラヴィスは一応は真剣にこれからのことを考えた。白い指で、小さな顎を摘む。
この殺人衝動を抑えながら死ぬのは辛いことだろう。死ぬまで血の海を見続けることは逃れられない己の運命だ。死ぬ前にやっておきたいことも特にない。殺人鬼にそんな願いがあるものか。
「…あ」
一つ、願いと呼べるほどのものではないが、懐かしい顔が浮かんだ。
フィリップ。
クラヴィスは単純に、フィリップのことを気に入っていた。
真面目で、お堅い、兄のようなフィリップのことを。
どうせ死ぬなら、彼の為にこの命を使うのは悪くないかもしれない。
後にクラヴィスは、あの時自分は余命宣告をされて、少なからず動揺していてあんな結論を出したんだろうと考えた。
しかし後悔はなかった。
*
フィリップは絞り出すような、悲痛な声で聞いた。
「…どうして6年も逃げ続けていたお前が今になって…どうしておれなんかに捕まったりしたんだ」
「君に会いたかったからだよ」
「何言っ…!」
鉄格子の隙間から白い手がぬるりと伸びて、フィリップの頬を包んだ。ひどく冷たい手に1歩退こうとしたが、彼は透き通る青い瞳をまた見つめた。
愛おしいものでも見るかのような殺人鬼とは思えぬ優しさを込めた瞳と、命あるものとは思えぬほど冷たい手にフィリップは身動きが取れなかった。
ふ、と消えそうな笑みを晒すと、その手はまた鉄格子の奥へ帰っていった。
「…冗談だよ」
「貴っ…様は本当に……!!」
言いたいことは山程あった。
なぜ院から勝手にいなくなったりしたんだ。
今まで何をしてたんだ。
どうしてこんなことをしたんだ。
しかしこれらの言葉は、同じ場所で育った家族へ向けたものになってしまう。警察官の自分は、こいつとは殺人鬼として接しなければならないと、フィリップは強く線引きしていた。
大人になりきれない青年の頭の中は絡み、そしてもう元には戻れないのだと叫んでいた。頬には冷たさが残る。
フィリップは軍帽をまた深くかぶり直し、姿勢を整えてクラヴィスに言った。
「…クラヴィス、お前の処刑は3日後の正午に決まった」
感情を押し殺した低い声。
その宣告をクラヴィスは黙って聞いた。
かつ、かつ、と足音が遠ざかっていく。
帽子の陰に隠れて、フィリップの表情は見えなかった。
18XX年。
処刑の日、多くの民衆が殺人鬼の最期を一目見ようと広場に集まった。
しかし、クラヴィスがそこに現れることは無かった。
処刑当日の朝、彼は冷たい牢の中で一人静かに息を引き取った。
この心臓を君に捧ぐ。
殺人鬼の最期の願いは、たった一人の家族に届いたのだろうか。
読んでいただきありがとうございます。
またまた趣味100%のお話です。