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誰も居ない土俵の上で。

作者: 枕くま。

【 僕が今夜ここで言った言葉のほとんど全部が、ヴァレリィの文学論なんです、オリジナリテもクソもあったものでない。 】渡り鳥/太宰治




 本を買う時は、出来るだけ近所の書店を利用した。

 ネットを頼りにすることもあったが、それは目当ての本が書店に置いていなかった時に限られた。書店には新しい出会いがあふれている。表紙や紙の質感から、気になる本はすぐに試し読みが出来るし、際限もない。そして、他人の批評に煩うことなく、自分の感覚だけを頼りに本を選ぶことが出来る。

 雑音が我が物顔で有用性を誇示する世の中、こんな当たり前のことに贅沢さを感じるのは、我ながら安く済んで良いと思った。

 夏の鋭い陽射しから逃げるように店に入る。ハンカチで額の汗を拭う。レジに座った女性店員がこちらをちらりと見やったが、すぐに視線を元に戻した。私もそれとなく見下ろすと、膝の上に文庫本が開かれていた。通い慣れたおかげで、必要のない挨拶もいらない。

 前までレジに居たのは皺くちゃの老人だったが、さすがに店番も難しくなり、孫娘がアルバイトとして手伝うことになったのだと云う。初対面での世間話の折に聞いた話だった。花咲くように笑っていたが、よく見れば頬が引き攣っていた。店に通うにつれ、他の客と話しているところと何度か出くわしたが、声は閊えて顔は火を噴きそうなほど赤かった。どうやら、人付き合いが苦手らしかった。

 店内は、狭いうえに薄暗かった。冷房が効き過ぎているせいか、本棚の隅から幽鬼の影でも立ち昇りそうですらある。真昼のうちからこの様子では、新規の客は見込めないだろう。おかげでとても静かで、誰に気兼ねすることもなく、落ち着いて本が選べる。

 さて、目当ての本はあるだろうか。本棚の前に立ち、ざっと視線を滑らせる。が、どうもない様子。当てが外れてしまい、思わず唸る。しかし、すぐに気を取り直して他の本を見て回ることにした。目当てのものは駅前の大型書店で探してみよう。そちらですべての本を賄っても良いのだが、ここが最も家から近い。そうそう潰れて貰っては困る。

 背表紙と題字、表紙のデザインを見ながら本棚の合間を何度も歩く。と、ある文庫本が目に止まった。数年前に芥川賞を受賞した作家の短編集だ。あれ以来、メディアで取り沙汰されることもなくなったが、受賞した中編は好きだった。

 その深緑色の背表紙を抜き、冒頭を読む。しかし、あまり良い印象は得られなかった。短編向きの作家であると思っていたのだが、気のせいだったらしい。一応、ページを捲ってはみたものの、私の感覚に響く様子はない。そう判断を下して、本棚に戻そうとした。

 しかし、何故か入らなかった。確かに本棚にはみっしりと本が詰まっているが、抜き出す時にはそれほど抵抗はなかった。事実、目に見えて文庫本一冊分の隙間がある。私が戻そうとした矢先に隙間がぐっと縮こまり、拒絶しているかのようだ。

 私はすっかり困ってしまった。この書店では、度々このような不思議なことが起きた。こうなっては泣き寝入りである。本を戻そうとしたら、本棚が拒絶したなどと店員に抗議して、頭のおかしい人間のように思われるのは嫌だ。試してみて欲しいと縋るのも、恥ずかしい気がする。それで、あっさりと成功してしまえば、私はいよいよ変人だ。おかしいなと弁解するように云いつつ、後頭部に嫌な汗をかくことだろう。人付き合いは、私も酷く苦手なのだ。

 助けを求めるようにレジをうかがうが、店員は涼しい顔で読書をしている。まるで、座っていてもお金が入ってくることを承知しているようだ。

 私はしばらく本棚の前を当てもなくうろついた。本棚から抜き出した本を、放って帰ろうかとも考えたが、本好きとしてそんなことは出来ない。さらに云うと、そんなことをしてはここに通い辛くなる。何故なら、犯人は私くらいしかあり得ないからだ。

 やがて、私は観念してその短編集と他、二冊の文庫を持ってレジに向かった。一応、他の二冊も試してみたが、やはり本棚は受けつけてくれなかった。

 レジで精算を待つ間、私は少し考えた。これでは私の提唱する書店の利点と、完全に食い違っているではないか。私の感覚などまるで関係なく、本棚から出してしまった途端に購入が決まっている。最早、おみくじそのものだ。どうして私は、そうと決まっているのにここを利用しているのだろう? ほんとうに本を選んで買いたいと云うのなら、駅前の大型書店に行けば良いじゃないか。どれほど家から近かろうが、これではまるで意味がない。

 内心で小首を傾げつつ、代金を払う。その間、店員の手によって、文庫本が丁寧にカバーにかけられていく。私はその鮮やかな手際を、じっと見つめていた。

 その折、ふとまた話しかけてみようかと思った。この書店の本棚に潜む不思議な何かについて、彼女に質問してみても良いような気がした。それは、客としてだろうか。いや、客として以外にどのような間柄があると云うのか。私は自嘲の気を出して、そっと吐いた溜め息に笑いを忍ばせた。すると、彼女が不意に口を開いた。

「あの、こんなことを訊くのは失礼かと思うのですが、」

 何らかの意を決したような言葉に、私は面食らった。「……こちらの本、ほんとうに欲しいと思って買われたんですか?」

 包み終えた書籍を紙袋に入れながら、上目遣いにこちらをうかがっている。申し訳のなさそうな口調の裏に、いたずらを仕掛けた子供のような素直さが滲んでいた。私は、ほんの少しの間、言葉を発することが出来なかった。

「えぇ、わざわざいらない本を買いには来ませんよ」

 私は、嘘をついた。

 すると、彼女は、あはは、と空箱のような清々しさで笑った。

「いつもありがとうございます」

 帰りがけに私の背を追った彼女の声が、私には『また、来てください』と云ったように聞こえた。云われるまでもないと思ったが、そもそもそうは云っていなかった。


 前からあった小ネタを何とか形に出来ました。近頃ずっと長い物を書こうと苦心していたのですが、僕はやっぱり短編が好きです。これは掌編ですけれど。

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