風の調べ、空の青2
まだ桜が散ったばかりだというのに、すでに街の香りは夏だった。俺は愛用の自転車にまたがり、街路樹のある道を進んで行く。後ろでは、優恵が帽子を風に飛ばされぬよう、必死に押さえていた。
「しっかり掴まれよ! この坂道を降りたら、笹塚さんの家だ!」俺はそう言うと、ブレーキを緩め一気に坂を下って行った。
坂の中程に、笹塚の家はあった。この辺りは高級住宅街らしく、家と家の間が広い。それに笹塚の家は今時珍しい洋館で、石造りのしっかりした建物だった。俺は緊張して、玄関のチャイムを押す。
しばらくすると中から人が現れた。その姿を見て、優恵は耳をピンと張り、目を丸くした。ついでに尻尾も上がっている。現れた使用人は、メイドだった。しかも、かなり若くて、一瞬その筋のお店かと思うほど。
「た、拓人さんっ! メイドさんだよう。はぅ~、可愛い」優恵の目がキラキラと輝く。彼女は、この手の服に目がないのだ。
「わかったって、わかったから裾を引っ張るな!」俺と優恵がそんなやり取りをしていると、メイドが深々とお辞儀した。
「如月様でございますね。旦那様がお待ちです」
案内された屋敷の中は思ったよりも狭かったが、メイドがいるだけあり、素晴らしい調度品の揃う、上品なたたずまいだった。応接間に通されると、そこには笹塚がいた。
「わざわざ遠いところを、お出向きいただきありがとうございます。ささ、お掛けください」笹塚に促され俺たちがソファに腰を下ろすと、笹塚はメイドの方を向き軽く頷く。すると、メイドはお茶を用意してくれた。
「いや、すごいお屋敷ですね。使用人もおられるとは」俺が部屋を見つめながら感嘆の声を上げると、笹塚は寂しげに微笑んだ。
「いえ、うちは旧家でしてね。家だけが立派なだけです。それに、うちには女手がないから、ああやって家政婦さんを頼んでいるんですよ」
俺は、なぜ家政婦にメイド服を着せるのか、などと思ったが、早速本題に入ることにした。
「実は今日伺ったのは、オルゴール修理の件でなんですが…」俺が両手を胸の前に組み考え込むような仕草をすると、笹塚の表情が少しだけ曇る。
「と言いますと?」
「いえ、直せそうなんですが、駆動部分のゼンマイだけは直せそうになくて…。電動モータに換えてもよろしいですか?」俺は、余計な脚色は一切せずに、単刀直入に訊ねる。
「モーターですか…」笹塚は目を閉じると、深くため息をついた。
「ゼンマイでなければ、駄目でしょうか?」俺の問いかけに、笹塚はなかなか口を開けようとしない。優恵が心配そうに俺と笹塚を交互に見つめる。俺は彼女に、視線で「心配しなくて良いよ」と合図を送ったが、それでも彼女は落ち着かない。耳の動きでバレバレだ。
「いや、モーターでも良いとは思うんですよ? ですが、できればゼンマイで、そう元の状態になるべく近づけてほしいのです」俺たちと出会ってから一貫して紳士的な態度を取っている笹塚が、ちょっと困ったかのように俺を見つめ、そんな注文を出して来る。アンティークと言う面でオルゴールをとらえるならば、動作すれば良いと言う修理でなく、完全な修繕を希望するのが普通だ。だが、今回は子供の玩具に過ぎないオルゴールだ。確かに、古くて良いできの玩具だ。だが、あくまでも玩具。なぜ、そこまでこだわるのだろうか。それほど、まりあにとって大切な思い出の詰まったオルゴールなのだろうか。
「やはり、あのオルゴールは、まりあさんにとって大切な宝物なんですね」そんな優恵の台詞に、笹塚は重々しくそして大きく頷く。そして、品の良いハンカチを取り出して、目頭を押さえた。俺は、笹塚のそんな様子に少しだけ驚いた。
「はい、かけがえのない宝物なのです」笹塚はそう言うと、軽く会釈をして立ち上がり、本棚へと向かった。
「宝物、か」
「だったら、どうにかして直して上げられないかな」優恵が俺の顔を覗き込むと同時に、笹塚がアルバムを一冊持ってきた。そこには、大家族の写真が貼ってある。
「これが、私たち親戚一同の写真です。ほら、ここにいるのが、まりあです」笹塚が指差す先には、まりあがいる。ごく普通の写真だ。だが、どことなく俺は違和感が覚える。「わー、古い写真ですね」と、優恵。
そう、まりあが写っている写真は、かなり古ぼけている。まるで、あのオルゴールのように。
「実は、まりあは私の伯母にあたる人物なのです」
俺と優恵は、笹塚が何を言い出したのか、全く理解できないでいた。
「え? もう一度、おっしゃってください??」俺が驚きながら訊ね返すと、笹塚は意を決したように唾を飲み込む。
「実は、まりあは戦前の生まれで、つい最近まで深い眠り、冷凍睡眠についていたのです」
「冷凍睡眠??」優恵が俺を見て首を傾げる。
「優恵、聞いたことないか? 難病を患う人たちが、将来治療法が発見されるまで、その身体を液体窒素などで冷凍して保存しておくって話を」
冷凍睡眠は、戦前の一時期に盛んに行われた治療、というか処置の一種だ。二十世紀に基礎研究が始められた頃は、ただ死体を冷凍しただけで脳組織の損傷などが激しく、復活は無理だとされていたが、二十一世紀になって全身の水分を冷凍するのではなくガラス化する技術が開発された。この方法では冷凍後に解凍して復活することができ、何度も動物実験でその効果を確認されている。
「あ、ああ! 結構前に、テレビで見た!」優恵が拳でもう片方の手を叩く。俺はそんな優恵を横目で見つつ、笹塚をちらりと見つめる。そんな俺の視線が気になったのだろう、笹塚はため息をつくように微笑むと、写真の上の少年を指差した。明らかに、まりあよりも幼い少年である。
「これが私です」
俺は食い入るようにして写真を注視した。確かに…、確かに笹塚の面影があるし、また笹塚と同じように左の頬にほくろがある。
「じゃあ、まりあさんは何か病気を患っていて、最近まで眠っていたんですね?」俺が写真を見つめながら訊ねると、ふと、笹塚の雰囲気が変わるのを感じた。
「はい、そうです。二か月ほど前に『起床』しました」
俺は、笹塚の瞳の奥に潜むくらい影の理由が気になったが、訊ねて良いものかどうか悩んだ。そんな時、優恵が口を挟んできた。
「じゃあ、まりあちゃんは病気が治ったんですか? それとも治療中?」優恵は、どことなく嬉しそうに言う。そりゃそうだ、難病で永い眠りについて、それが治る日が来たのだから。だが、一方で俺の頭には嫌な考えが浮かんでいた。戦前の医療技術で治せなかったような難病が、今の時代で治せるのだろうか。いったん全てが失われた、この世界で。
「いや、治療も受けていませんし、これから受けることもないでしょう」
「え? それって?」優恵が表情を凍らせる。俺は、彼女の方を強めに握った。
「もう、この世界では多くの人々を冷凍し続ける技術すら、どこにも残っていないのです。なので、冷凍場に眠っていた人々はみな、無理矢理起こされました」笹塚が、残酷な現実を告げる。俺は、毎度のことながら、この世界の脆弱さに吐き気がした。この世の全てのつけが、今の時代に巡ってくる気がしてならない。
「そうですか」俺は無表情にそう言うしかなかった。そんな俺に、諦めに似た笑顔を浮かべた笹塚が言う。
「何でも、ちゃんと起きられた人は全体の四割程度だったそうです。あとは、ただの冷凍された死体だったんですよ。お笑いでしょう? 私はこれでも学者をやっていて、そう言う事実が起きそうだってことは昔から知っていた。でもね、実際に目の前で起きると、かなりショックですよ」
「じゃあ、まりあちゃんは…?」聞かなくてもわかることなのに、優恵は訊ねてしまう。これは、彼女の純朴な性格のせいだ。俺は、優恵にちょっと嫌な感情を覚えてしまう。
「運が良ければ、また冷凍されます。ただし、今度の冷凍は十名分のベッドしかありません。待機している起床者は九十名。かなりの倍率です」
俺と優恵は大きなため息をついて、机に置かれたティーカップを溶けるまで凝視した。そんな俺たちの様子を見て、笹塚は少し表情を和らげると、再び語り始める。
「いえね。あのオルゴールは、まりあが父親からもらったものなんですよ。なんでも、彼女が遠い未来に起きたときにも、また遊べるような玩具を、と考えたようです」笹塚は、冷えきったお茶に口を付ける。だが、中身は飲み込まず、少しだけ唇を濡らしただけ。俺は笹塚にならって、お茶を少しだけ口に含んだ。そして、緊張のあまり喉の奥が張り付くほど乾燥していたことに気付く。
「それが、壊れてしまったんですか?」
「ええ。しかも、それが原因で、まりあは父と喧嘩をしてしまい、謝る機会を見失ったまま冬眠に入ったのです」今度は、笹塚は喉の動きが見えるほど、お茶を大量に飲む。知らず知らずのうちに、俺と優恵もお茶を口に満たした。
「じゃあ、まりあちゃんは、お父さんに謝りたくて、オルゴールを直すのかな…」
優恵の言葉に、ふと動きを止める笹塚。彼はゆっくりとティーカップを机に置くと、どこか遠くを眺めるような目つきで呟いた。
「そうかも知れません。まりあは、まだ自分が遠い未来にいることを知りませんから。私のことを、本当の祖父だと思っていますし」笹塚は目尻を拭うと、再びお茶を飲み始めた。
*
自宅に戻り、俺は工具を握りしめながら、まりあのことを考えていた。あの笹塚の言葉、彼女はまだ自分が未来にいるって知らないと言う言葉が、頭から離れない。気もそぞろにドライバーを扱っているものだから、何度もネジを落としてしまう。そのうちの一つが、床へと転げ落ちた。
「はい、お茶ですっ! て、ネジが落ちてますよ?」カップになみなみと注がれたジャスミン茶を持ち、優恵が部屋へと入って来る。なんて目がいいのだろう、彼女は数メートル先から床に落ちているネジを見つけ、それを拾ってくれた。
「ああ、すまないな…」俺はそう言うと、ネジを受け取り小皿の上に置こうとする、が、また床に落としてしまう。優恵は慌ててしゃがみ込み、再び拾ってくれた。
「どうしたんですか、拓人さん?」優恵は尻尾を左右に大きく振りながら、不安そうに俺を見つめる。彼女が尾を動かすたびに、部屋には日向の匂いが充満した。
「いや、ほら、笹塚さんの話…」俺は、お茶をゆっくりと啜る。今日はやたらとお茶を飲む日だな、と、ふと感じたが、再び頭の中はあの事で一杯だ。
「ああ、まりあちゃんのことですね? 多分、お父さんに謝ろうとしているんですよ」優恵はクッションを持ち出し床に置くと、大きな音を立てて座った。わずかに舞い上がる埃に、俺は顔をしかめる。
「でも、それって報われないよなあ」俺はそう言いながら、再びゼンマイの解体に取りかかった。既にギアは模型屋で新しいものを手に入れて交換しており、あとはこのゼンマイの修理だけだ。修理できる望みは、かなり薄い。そんなことは百も承知だが、とにかくドライバを動かし続けた。
「もし、まりあちゃんがお父さんが亡くなったのを知らなかったら、すごく悲しいことですよね。直ったオルゴールを見せて、謝ろうとしているんだし」優恵はお気に入りのホーローのマグカップに下をつけると、ひゃん、と声を出した。彼女は猫舌なのだ。性格や仕草は犬っぽいのにな。
「そうだな。でも、俺は出来るだけのことをやるしかない。あと何日かで、彼女は再び眠りにつくかもしれないからな」俺はドライバを置くと、自分の手が潤滑油で汚れていることを知った。慌ててカップの取っ手を見ると、案の定そこは油でべったり。俺は悪態をつきながら、ボロで手を拭うとカップを乱暴に拭いた。少しだけお茶がこぼれる。
「眠りにつけたら、また何十年も眠るのかな?」
「多分な。彼女の病気が治る日まで、眠るのだろう。夢を見ない眠りをね」
「でも、もし眠りにつけなかったら?」
部屋の中をお茶を啜る音だけが響く。俺は優恵から顔をそらし、窓から外を見る。窓の外には夕日に照らし出された旧市街。そこには人の営みが見え隠れし、俺は安堵の息をつく。なぜなら、反対側に広がる再開発予定地は、全くの死の世界で、ますます気分を落ち込ませるだけだからだ。
「眠りにつけなかったら、そうだな…、逆に幸せなのかもしれん」俺は反対側に広がる風景を思い浮かべながら、もし、彼女が百年後に眠りから覚めたとき、人類がいなかったらどうする、などと考えを巡らせる。そして、ふと優恵を見て思うのだ。きっと、百年後は人類なんて影も形もなくて、優恵たちの仲間だけがいると。新しい主人公たちは、今度こそ世界を良い方向へ作り上げてくれるのだろうか、それとも俺たちと同じように馬鹿げた目的で壊してしまうのだろうか。
「え? 何ですか??」優恵が、少しだけ頬を赤らめて首を傾げる。
「ばーか、何でもないよ」俺は悪態をつきながら、彼女の頭を大げさに撫でた。
「うぎ、うぎぃぅぅ! や、やめてください。髪型が崩れちゃう」優恵が涙目で俺を見上げる。俺は、どうしようもない寂しさを感じたが、何とか微笑み続けることが出来た。我ながら器用になったもんだ。
そんな俺の様子を見て、優恵は表情を曇らせ不安げに耳を下げる。表情を変えないように努力しているつもりだろうが、明らかに俺に対し不安を感じていることがわかる。優恵は、俺と彼女の間の大きな溝が見つかりそうな時、決まって同じ表情を見せるのだ。
「さて、このゼンマイを外せたら、これを見てもらって来るよ」俺は優恵の頭から手をどけると、ドライバを握りしめ、再び機械油との格闘に戻った。優恵は、ぼけーっとそんな僕を見つめると、何度か尻尾を横に振る。
「ああ、一応、鉄工所に持って行って、代わりの部品が作れるか聞いてみるんだよ」俺がそう言うと、優恵は何かを言いたそうに見つめてきた。
「何だ、一緒に行くんだろう?」
「…はいっ!」優恵が満面お笑みを浮かべる。俺はそれが嬉しくて外れたゼンマイを袋に入れると、再び彼女の頭に触れた。
しまった、俺の手は油まみれじゃないか! と、そう思い慌てて手を引こうとすると、彼女は無理矢理に自分の頭を押し付けてきた。そして、嬉しそうに笑った。
俺は、出来るだけの笑みを浮かべた。俺は、うまく笑えているだろうか。