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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

殺したっていいじゃない

作者: 海野もずく

 朝六時。薄暗い漫画喫茶の一室で、俺は目を開けた。目を覚ましたわけではない。一晩中、目を瞑っていただけだったのだから。


 もうそろそろ、ここを出るべきだるうかと不安になる。駅前のホテルなどは簡単に足がつきそうなので入れなかったが、こんな寂れた漫画喫茶でも長居はしない方がいい気がした。漫画喫茶の店員の記憶力がどれほどかは知る由もないが、あまり長時間利用すると顔を覚えられてしまうかもしれない。


 そこまで考えて俺は苦笑する。バカが。高卒でフリーター、明日食う飯にも困るような暮らしを送り、その上変態の俺が、奴ら警察から逃げ切れると本当に思っているのか。日本の警察が無能なのか有能なのかは知らないが、俺みたいなゴミ一匹捕まえるなどわけないはずだ。


 不意に、両手に昨日の感触が蘇る。犬やカエルとはわけが違う、柔らかいが、弾力のある白い肌。そこに埋まっていく出刃包丁から伝わる生の振動と痙攣。生暖かい血が俺の手にかかると同時に突き破られる内臓の感触。耳には悲鳴の残響と浅くなっていく呼吸音がこびり付いている。ただの肉片と成りゆく女の身体を、俺は全身で感じていた。


 そう、俺は昨日、人を殺した。


 三十手前の女だった。と言っても年齢が分かったのは、暗い路地で後ろから殴りつけて公園のトイレに連れ込んだ後に身分証を見た時で、それまでは女子大生か何かだろうと思っていたのだ。せっかくなら若い女性を、と思ったのだが、攫ってきてしまったのだからしょうがない。こいつで我慢しようと思った。


 手と足を縛られたまま、 女は助けてくれと何度も懇願した。何でもするから、命だけは、と。その悲鳴混じりの命乞いが、俺の興奮を加速させていることには気が付かなかったようだ。人通りが全くない公園なので、いくら悲鳴をあげても無駄だということも知らないようだった。


この日のために用意していた、刃渡り三十五センチの出刃包丁を見せた途端、女は失禁し、全身をガタガタと震わせ始めた。その惨め過ぎる姿を見て、流石の俺も可哀想に思えてきたので、全体重をかけ、腹部めがけて思い切り刺してやった。女は絶叫しながら大量の血を吐き出し、暫くはもがき苦しんでいたが、五分後にはぴくりとも動かなくなってしまった。


 女が完全に事切れているのを確認した後、俺は返り血まみれの服を脱いでリュックサックに詰め、代わりに用意していた服に着替えた。女の腹から包丁を抜き去り、ビニール袋にくるんで、これもリュックサックにしまう。高かったんだから、大切にしないと。


 女の死体をどうしようかと一瞬悩んだか、そのまま放置することにした。死んでしまったのだから、もうどうでもいい。女の爪や衣服に俺の痕跡が残っているだろうが、そんなものを処理するくらいなら、人殺しという刺激的な経験の余韻に浸っていたかった。


 その後、俺は夜の街でしこたま酒を飲み、そしてこの漫画喫茶に流れ着いた。この頃になると頭の方も少し冷静になっており、運良く逃げ切れやしないかなどと考えるようになっていた。しかしそれも、殺人による快感と比べれば微々たる願望だった。


 女を殺したことに理由などない。ただ殺したかったから殺しただけだ。そこそこ可愛らしい顔をして夜道を歩いているからこうなる。俺の興奮の材料になってくれて、本当にどうもありがとう、と言いたい気分だ。



 やはりここを出よう、と思った。捕まる捕まらないの問題ではなく、ちょっと外を歩きたくなったのだ。


 伝票をレジに持って行き、店員に手渡す。言われた金額を出そうと財布を出した時、俺はあることに気がついた。女の免許証が俺の財布に入っていたのだ。おそらく女の身分証を確認した時に、つい自分の財布に入れてしまったのだろう。


 突然、本当に突然、俺はこの免許証を目の前の店員に突きつけたくなった。キョトンとする店員に、俺は囁くのだ。実は俺、さっきこの女を殺したんだ、と。店員はきっと信じないだろう。免許証と俺の顔を見ながら訝しげな表情を浮かべた瞬間、俺はリュックサックから血のついた服と包丁を取り出す。事態を察し、きっと店員は慌てふためく。もしかしたら厨房の方に逃げ込むかもしれない。そうしたら、素早く包丁を取り出して、その後を追い、そして背中から……。


「あの、大丈夫ですか?」

店員が不審そうな表情を浮かべている。俺は慌てて財布から料金を出し、清算を済ませて外へ出た。あの店員は俺のことを不審に思っただろう。つまり、俺が警察に捕まる可能性がまた高くなった、というわけだ。


 まだ朝早いというのに、太陽はすでに東の彼方からひょっこり顔を出していた。その光が意外と強く、真っ直ぐに俺の目に飛び込んできたので、一瞬、強い立ちくらみを覚えた。その時、足元の段差に躓いた俺はバランスを崩し、その場に倒れこんでしまった。痛い。尻を思い切り打ったようだ。


「おい、あんた、大丈夫か」

頭上から、嗄れた声が聞こえた。見ると、小汚い老人が俺のことを見下ろしている。顔は黒ずみ、髪は僅かしかないのに、どうしてボサボサだった。ホームレスか何かだろうか。


「あ、はい。大丈夫です」

「そうか。でもあんた、随分と顔色が悪いな。本当に大丈夫なのか」

そう言われたのは意外だった。まだ昨日の興奮が忘れられないのに、俺は青い顔をしているのか。やはり、慣れない人殺しに疲れているのかもしれない。


 不意に、この老人に全部話したらどうなるだろうと想像した。昨日俺が体験した、全身が粟立つほどに刺激的な出来事を、このみすぼらしい老人はどう受け止めるだろう。別にさっきの店員のように、こいつを殺したいとは思わなかった。こんな汚い人間など殺したくなどない。それよりも、俺は自慢したかった。俺の勇気ある偉大な行動に対し、賞賛されるなり畏怖されるなり、誰かの何らかの反応が欲しかったのだ。


「なんじゃ、若いの。何か悩みがあるなら、俺が聴いてやるぞ」


 その言葉が引き金となった。俺は本当にあっさりと、まるで天気の話をするかのように、その言葉を口から吐いていた。




「俺、人を殺したんだ」


 あーあ。言っちゃった。こんな見ず知らずの老人に。


「……それは本当か、若いの」

俺はリュックサックの中から、例の服と包丁を取り出した。そして、昨日の出来ごとを全て老人に話した。なぜ俺はこんな老人に自らの秘密を明かしているのか。驚いてほしいのか怖がってほしいのか。自分の真意を掴めぬまま話しているうちに、俺は昨日の興奮から徐々に解放されるような、不思議な感覚を味わっていた。


 ああ、これで俺は終わりだ。快楽の為に人を殺した犯罪者として、俺は刑務所にぶち込まれる。さすがに死刑ではないだろうが、一体どれほどの間、外に出られないのだろう。そう考えると寂しくもあったが、しかし後悔はしていなかった。人を殺して得られた快感はやはり、何物にも変えられやしない。




「あははははははははは」

突然笑い声をあげたのは俺ではない。目の前の老人だ。

「あははは、なんだ若いの。そんなことで悩んでおったのか」


 そ、そんなこと? いきなり笑い声をあげたと思ったら、一体何を言っているんだ、この爺い。


「気にするな気にするな。そんなこと、俺が今朝、犬の糞を踏んだことに比べりゃ、なんてことないだろうが」

 な、何だこいつは。俺の殺人を、犬の糞と比べて笑っていやがる。どうなっているんだ。頭がおかしいのか?


 その時、老人の背後にあるスナックらしき店から、一人の女性が現れた。化粧が濃く、ソバージュなのかアフロなのか分からないような髪をしている。赤や緑が入り交じったドレスを着ているのに、どこか質素な蛾を連想させた。


「おい、糞爺! さっきからなに騒いでんだ。あたしゃこれから寝るんだから、静かにしておくれ!」

 ゴミ出しをしようとしてたのか、その女性は右手に大きく膨らんだゴミ袋を持って、老人を怒鳴りつけた。

「お、ママさん。ちょうどよかった。この若造が元気ねぇから、ちょっとそうだんに乗っていてな」


そう言うと、老人はあろうことか、そのスナックのママにまで俺のことをペラペラ喋ってしまった。このオバさん、口は悪いが老人と違って頭は健康そうだ。今度こそ終わりか……。


「もう、なにそんなことで悩んでんのよ。そんなの今時珍しいことでもないでしょうに。それだったら、昨晩客にゲロ吐かれた私の方か悲惨よ」


……おかしい。どうなっているのだ。どうしてこいつら、俺という殺人犯を目にして、こんなにもお気楽に構えていられるんだ。


「お、俺が人を殺したって聞いて、驚かないのか」

そう問いかけてみるも、二人はキョトンとした顔を浮かべているだけだ。どうやらからかわれているようでもない。この二人は心の底から、殺人なんか大したことないものと考えているようだ。


なんだ、俺の頭がおかしくなったのか? 人なんか殺したから、思考回路が狂っちまったのか? とにかく、俺がおかしいにしろこいつらがおかしいにしろ、殺人という行為に対しての概念にズレが生じているようだった。しかしなぜだ。殺人は、人類が最も犯してはいけない重大な罪なのではないのか。


あ、そうだ、警察だ。警察に言えばいいんだ。あいつらが殺人犯を放っておくはずがない。そうに決まっている……。


携帯電話を取り出し、110をプッシュする。たった一回のコールで相手の受話器が取られた。

「事件ですか、事故ですか」

「じ、事件です! 俺、人を殺したんです」

「……」

反応がない。言葉に詰まっているようだ。やはり警察は正常だったようだ。もうじき、俺を捕まえに警察がくるだろう。だが後悔はしていない。きっとこの興奮は、獄中で薄れるほど弱いものではないはずだからだ。


「……あのですね、非常に申し訳ないんですけど、それだけのことで警察に電話なんてしないでもらいたいんですよ」


 受話器から聞こえてきた声に、今度は俺が言葉をつまらせる番だった。黙り込む俺に、警察はさらに言葉を投げかける。


「あのねぇ、警察っていうのは泥棒とか放火魔とか、物凄く悪いことをした奴を捕まえるためにいるんですよ。殺人なんてそんな、くだらないことにいちいち構っていられないから」

「い、イタズラじゃないんですよ」

「いや、イタズラとかどうでもいいんで。というか、殺人よりもイタズラ電話の方がまだ重罪だよ。最近多いんだ。お宅ほどじゃなくても、ゴキブリが出ただけで警察を呼んだり、それから……」


 警察は何かをごちゃごちゃ言っていたが、俺は途中で電話を切った。


 いったい、なにがおきているんだ。


 だって、殺人だぞ? 俺は一人の人間の命を奪った。この世で一番重い罪じゃないのか。いや、そうだったはずなのだ。それなのに、それなのに……。


 日が高くなるに連れ、人通りも増えてきた。俺は道行く人全員に片っ端から声をかけた。俺は人殺しだ。殺人犯だ。お前らが恐れるべき存在なんだ、と。


 誰も真剣に取り合わなかった。怪訝な顔をされたり、迷惑がられたりしたことはあったが、俺の話を聞いて取り乱す奴は一人もいなかった。それどころか、先ほどの二人のように、俺を励ます奴らまでいるほどだ。


 どういうことだ。俺が昨日体験した殺人という体験は、周りの人間からしてみればそんなにもちっぽけなことだったのか。犬の糞を踏んだことよりも、客にゲロを吐かれたことよりも、タンスの角に足の小指をぶつけたことよりも電球が切れたことよりも小銭を落としたことよりも美容師に変な髪型にされたことよりも……くだらないことだというのか。


「どうだ、わかったか若いの」

 いつの間にか、あの老人が背後に立っていた。

「お前がしたことなんていうのは、他人からしてみればなんてことない、くだらないことなんだよ。自分の中ではとてつもなくデカイ問題も、外から見てみれば本当にちっこくて、取るに足らないことばっかりだ」


 ……そうかもしれない。まだ信じられないが、殺人なんて行為、関係ない人間に関してはなんてことのない出来事なのかもしれない。女の腹を刺した感触も吐き出された血反吐も、誰の興味も惹くことができないくだらないものなのかもしれない。


「……じいさん、一つだけ教えてくれ」

「なんだ」

「どうして俺が怖くないんだ。もしかしたら、俺がじいさんを殺すかもしれないとか、考えないのか」

 

 そう尋ねると、じいさんはまた、大きな笑い声をあげた。

「お前はわしを殺せない。それがわかっているからだ」

「……どういうことだ」






「お前の後ろに、仕返しにきた女が立っておるからだ」



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