三十五歳、実家の喫茶店を継いだら、常連の無口な男が毎朝同じ席にいる
午前七時ちょうどに、ドアベルが鳴った。
からん、ころん。古い真鍮のベルの、少しくぐもった音。藤枝実花はカウンターの内側で、布巾を握ったまま顔を上げた。
男が一人、入ってきた。
四十歳前後。紺の作業着の上に、くたびれたダウンベスト。短く刈った髪に、白いものがちらほら混じっている。男は実花のほうを一度も見ずに、店のいちばん奥の、窓際の二人掛けの席に座った。
それから、低い声で一言だけ言った。
「いつもの」
実花は布巾を握りしめた。
いつもの。
――いつものって、何?
喫茶ふじえだは父が四十年やってきた店だ。商店街の外れ、川沿いの道に面した、木造の二階家の一階。カウンター六席に、テーブルが四つ。壁には、色の褪せた山の写真と、父が描いたのだろうと思っていた、下手な絵が一枚。
その父が三週間前に死んだ。
朝、店のシャッターが上がっていないのを不審に思った向かいの八百屋のおばあちゃんが、裏口から入って、厨房の床に倒れている父を見つけた。心臓だった。六十八歳。救急車が来たときにはもう息がなかった。
東京でそれを聞いたのは、会社の会議室で、クライアントにデザイン案を突き返されている最中だった。
「藤枝さんの案って、いつも無難なんだよね。きれいだけど、誰の心にも引っかからない」
飲料メーカーの若い担当者は、そう言って、実花が三晩徹夜して作った案をテーブルの端へ押しやった。実花は「申し訳ございません、すぐに作り直します」と頭を下げた。下げながら、膝の上で握った手の爪が、手のひらに食いこんでいた。
ポケットのスマホが震えたのはその直後だった。知らない番号。会議中だから、と切ろうとしてなぜか指が止まった。
――藤枝さんとこの娘さんかね。向かいの八百屋だけども。お父さんがね、お父さんが。
そこから先はよく覚えていない。
気がついたら、新幹線に乗っていた。窓の外を灰色の東京が流れていってだんだん山が近づいてきた。実花は膝の上でスマホを握りしめたまま、一度も泣かなかった。泣き方を忘れていた。
東京に出て十七年。デザイン会社に入って十二年。賃貸の1Kは寝に帰るだけの部屋だった。冷蔵庫には、栄養ドリンクと、コンビニのサラダ。休日はたまった洗濯をして、眠って終わる。三十五になって、気づいたら、仕事以外に何もなかった。
その仕事さえ、無難だと言われる。
――誰の心にも引っかからない。
新幹線の窓に映った自分の顔はひどく疲れて見えた。目の下に、濃いくま。口角が下がっている。父が見たら、何と言っただろう。たぶん、何も言わずに、コーヒーを一杯出してくれただろう。
葬儀を済ませて、四十九日までは店を開けておこう、と思った。父の常連さんたちが、お別れを言いに来るかもしれないから。四十九日が過ぎたら、店を閉めて、建物を売って東京に戻る。そう決めていた。
決めていたのに、開店初日の朝七時にいきなりこれだ。
「……あの」
実花はカウンターから身を乗り出した。
「すみません。わたし、娘の実花です。父が先月……あの、ご存じかもしれませんけど」
「知ってる」
男は窓の外の川を見たまま答えた。
「葬式、行った」
「あ……ありがとうございました。それで、あの、いつもの、というのが、わたし、分からなくて。父から何も聞いていないから」
男はゆっくりと実花のほうを向いた。
日に焼けた顔。深い目元。無精髭。表情というものが、ほとんど動かない。
男はしばらく実花を見ていた。それから、窓の外に目を戻した。
「……コーヒー」
言ったのはその一言きりだった。
実花はカウンターの奥の棚を振り返った。ガラス瓶に入った豆が、六種類並んでいる。ブレンド、モカ、マンデリン、キリマンジャロ、ブラジル、コロンビア。父の字で書いたラベル。
どれ。
とりあえず、いちばん上の「ブレンド」の瓶を下ろした。父の手回しのミルで豆を挽く。ごりごりという音と一緒に、香ばしい匂いが立ちのぼった。小学生のころ、この匂いで毎朝目を覚ました。
ネルのドリップでゆっくり淹れる。父のやり方を見よう見まねで。
白い厚手のカップに注いで、窓際の席へ運んだ。
「お待たせしました」
男はカップを持ち上げて一口すすった。
そして、カップを受け皿に戻した。
それきり、二度と口をつけなかった。
五分ほど、窓の外の川を眺めていた。それから、ダウンベストのポケットから小銭を出してテーブルの上に置いた。四百円。立ち上がって、ドアベルを鳴らして出ていった。
実花はカップの中のコーヒーを見下ろした。ほとんど減っていない。まだ湯気が立っている。
何なの、あの人。
次の日の朝も、七時ちょうどにドアベルが鳴った。
男は同じ窓際の席に座った。同じ紺の作業着。同じダウンベスト。
「いつもの」
実花は昨夜のうちに考えておいた。ブレンドではなかったのかもしれない。父は常連さんごとに豆を変えていたのかもしれない。
マンデリンを淹れた。
男は一口すすってカップを置いた。
三日目はモカ。一口すすって置いた。
四日目はキリマンジャロ。一口すすって置いた。
毎朝、四百円。毎朝、ほとんど手つかずのカップ。
四日目の朝、キリマンジャロを運んだあと、実花は思いきって話しかけてみた。
「今朝は冷えますね」
「ああ」
「川霧、すごかったです。東京じゃ、こんなの見られなくて」
「そうか」
「……お仕事、建具屋さんなんですか? 作業着に、木の粉がついてるから」
「ああ」
会話は三往復で終わった。
実花はトレイを抱えてカウンターに戻りながら、心の中で頭を抱えた。ああ、そうか、ああ。東京のどんな気難しいクライアントだってもう少ししゃべる。
その日の夕方、店を閉めようとして、実花はドアの前で足を止めた。
入り口のドアが音もなく開いた。
――あれ?
喫茶ふじえだのドアは、実花が子どものころから、開けるたびにぎいっと鳴った。蝶番が錆びていて、父は「味だ」と言って一度も直さなかった。この四日間も、毎朝、実花がシャッターを上げてドアを開けるたびに、ぎいっ、と鳴っていた。
今は鳴らない。
しゃがんで蝶番を見ると、錆が落とされて真新しい油が差してあった。ドアの下の、床に擦れていたところも、薄く削られてなめらかになっている。
昼過ぎに、実花が三十分だけ、銀行へ行った。店の鍵は隣の八百屋のおばあちゃんに預けておいた。
あの三十分の間に、誰かが。
実花は蝶番の、油の光る金具を指でなぞった。木の粉がほんの少しだけ、ドアの下に残っていた。
――ああ、とか、そうか、しか言わないくせに。
胸の奥がむずむずした。腹が立っているのか、うれしいのか、自分でもよく分からなかった。
五日目の朝、実花はコロンビアを淹れながら、ポットを握る手に力が入っているのに気づいた。
腹が立っていた。
東京で十二年、広告のデザインをやってきた。クライアントに突き返されるのには慣れている。でも、クライアントは、少なくとも何がだめなのかを言う。色が暗い。文字が小さい。もっと若い人向けに。言われれば、直せる。
あの人は何も言わない。一口飲んで置いて、帰る。
コロンビアを運ぶと、男はやはり一口すすってカップを置いた。
実花はトレイを胸に抱えたまま、テーブルの横に立った。
「……あの」
男が顔を上げた。
「何がいけないんですか」
声が思ったより大きく出た。店にはほかに客はいない。古い柱時計がこちこちと鳴っている。
「毎朝、違う豆を淹れてるんです。ブレンド、マンデリン、モカ、キリマンジャロ、今日はコロンビア。どれも一口しか飲まない。何がいつもなのか、教えてもらえませんか。父のいつものが何だったのか、わたし、知らないんです」
言いながら、喉の奥が熱くなった。
知らない。父のことを何も知らない。高校を出て東京に行ってから、帰ってきたのは盆と正月だけ。それも、ここ三年は仕事が忙しくて、正月にしか帰っていなかった。父が最後に何を淹れていたのかも、誰と話していたのかも知らない。
男はしばらく実花を見上げていた。
それから、ぼそりと言った。
「……分からないなら、いい」
小銭をテーブルに置いて、男は立ち上がった。
ドアベルがからん、ころん、と鳴った。
実花はトレイを抱えたまま、その場に立ち尽くした。
分からないなら、いい。
それは実花が父に何度も言われた言葉だった。高校のとき、東京の美大に行きたいと言ったとき。父は反対しなかった。ただ、「おまえが分からないなら、いい」と言って厨房に戻っていった。何が分からないのか、訊けなかった。訊かないまま、東京に出た。
実花は厨房に駆けこんだ。
流しの縁につかまってしゃがみこんだ。
涙が出た。葬式でも、火葬場でも、出なかった涙が、今になってぼろぼろと。
「……分かんないよ、お父さん」
厨房の床に、涙がぽたぽた落ちた。三週間前、父が倒れていた床だった。
「秋津さんかい」
その日の午後、向かいの八百屋のおばあちゃんが、店に来た。
腰の曲がった、八十過ぎの小さな人だ。父を見つけてくれた人。葬儀のときは実花の手を握って、何度も何度も「ごめんねえ、もっと早く気づいてあげたらねえ」と言った。
「秋津祐介さん。町の建具屋の。あの人なら、もう十年も毎朝来てたよ」
おばあちゃんはカウンターに座って、実花の淹れたほうじ茶をすすった。コーヒーは胃にもたれるからと、父はいつもおばあちゃんにだけ、ほうじ茶を出していたという。それを聞いて、実花はまた少し泣きそうになった。
「十年……」
「無口な人だろう? あの人、奥さんに先立たれてね。もう十年くらい前かねえ。それから、毎朝ここに来るようになって。あんたのお父さんと、将棋を指してたよ」
「将棋?」
「そうさ。七時から八時まで毎朝。窓際のあの席で。あんたのお父さんが、店の合間に一手指して、カウンターに戻ってまた一手。秋津さんはじっと待ってるのさ。一局指すのに、三日も四日もかかってねえ」
実花は窓際の二人掛けの席を見た。
テーブルの上には何もない。
「最後の一年は、お父さん、手が震えてたからねえ」
おばあちゃんが湯呑みを置いた。
「手が?」
「知らなかったかい。去年の夏ごろから、病院に通ってたよ。なんとかっていう、手が震える病気。駒もうまくつまめなくなってねえ。そしたら、秋津さんが、お父さんの代わりに駒を動かしてやってたよ。お父さんが口で言うのさ。五の三、銀、とか。秋津さんが黙って駒を動かす」
実花の手から、布巾が落ちた。
知らなかった。何も。
正月に帰ったとき、父は何も言わなかった。いつもどおり、無愛想に「おう」と言って雑煮を作ってくれた。椀を持つ手が少し震えていたような気がする。寒いからだと思った。
「コーヒーもねえ、最後のほうは、豆を炒るのがしんどかったみたいで」
「炒る……焙煎ですか」
「そうそう。裏の物置に、炒る機械があるだろう。あれも、秋津さんが手伝ってたんじゃないかねえ。夜中に、物置の明かりがついてるのを何度も見たよ」
おばあちゃんはエプロンのポケットから、一枚の写真を取り出した。角の折れた、古いスナップ写真だった。
「これ、去年の夏祭りのときにね、孫が撮ったんだよ。あんたに渡そうと思って」
写真の中で、父が、窓際の席に座っていた。向かいに紺の作業着の背中。テーブルの上に、将棋盤。父は盤をのぞきこんで、口を大きく開けて笑っていた。
実花は写真を両手で受け取った。
こんな顔で笑う父を実花は見たことがなかった。
家ではいつも無愛想だった。店では黙々とコーヒーを淹れていた。母が早くに亡くなってから、父と二人きりの食卓は、静かすぎて、テレビの音ばかりが響いていた。父は笑わない人なのだと思っていた。
違ったのだ。父はここで、この窓際の席でこんなふうに笑っていた。実花の知らない十年のあいだ、毎朝。
「秋津さんがねえ、葬式のとき、いちばん最後まで残ってたよ」
おばあちゃんがほうじ茶をすすりながら言った。
「お棺が出るときに、誰にも見えないように、ポケットから駒を一枚出してお棺の中に入れてた。歩のね。あれは何だったのかねえ」
実花は写真の中の、作業着の背中を見つめた。
歩。将棋でいちばん弱い駒。一歩ずつしか、前に進めない駒。
何の意味があるのか、実花には分からなかった。分からないけれど、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
実花はカウンターの奥の棚を振り返った。
六つのガラス瓶。父の字のラベル。
その中身を炒ったのは誰だったのだろう。
その夜、実花は、裏の物置の扉を開けた。
裸電球のスイッチをひねると、黄色い光が、狭い物置を照らした。
古い焙煎機が真ん中にどっしりと置いてあった。小さな業務用の、鉄の釜。そのまわりに、生豆の麻袋がいくつも積まれている。焦げた豆の、香ばしくて少し苦い匂いが、物置じゅうにしみついていた。
焙煎機の横の作業台に、麻袋が一つ、口を縛って置いてあった。
袋に、ガムテープが貼ってある。マジックで字が書いてあった。
――十一月分 ブレンド 秋津
父の字ではなかった。角ばった、大きな、力の強い字。
実花はその袋を抱えて物置の床に座りこんだ。
十一月分。父が死んだのは十月の終わりだった。
あの人は父が死んだあとも、十一月の分の豆を炒っていたのだ。父のいない店のために。誰も淹れる人がいないかもしれない店のために。
麻袋の口をほどくと、焙煎したての豆の匂いが、ふわりと立ちのぼった。
店の棚の「ブレンド」の瓶と、同じ匂いだった。
物置の奥に、もう一つ、見覚えのないものがあった。
古い将棋盤だった。脚つきの、分厚い榧の盤。その上に駒が並んでいる。
並んでいる、のではなかった。指しかけだった。
盤の真ん中で駒と駒が入り乱れている。実花は将棋の細かいことは分からないけれど、それが途中で止まった勝負だということは分かった。
盤の横に、白い封筒が一通、置いてあった。
表に、震える字で「封じ手」と書いてある。父の字だった。
実花は封筒を手に取った。開けかけてやめた。
これはわたしが開けていいものではない。
六日目の朝、七時ちょうどにドアベルが鳴った。
秋津さんは窓際の席に向かいかけて足を止めた。
テーブルの上に、将棋盤が置いてあった。榧の盤。指しかけの駒。その横に、「封じ手」の白い封筒。
秋津さんは盤を見下ろしたまま、動かなくなった。
実花はカウンターの内側でポットを握りしめていた。
「物置にありました」
声が少し震えた。
「八百屋のおばあちゃんに聞きました。父と、毎朝、将棋を指してくださってたこと。父の手が震えるようになってから、代わりに駒を動かしてくださってたこと。豆も……十一月分の豆も、炒ってくださってたこと」
秋津さんは答えなかった。
盤の前に、ゆっくりと腰を下ろした。指先で盤の縁を撫でた。大きな、ごつごつした指。爪の間に、木の粉が入りこんでいる。
「……いつもの、って」
実花は言った。
「コーヒーのことじゃ、なかったんですね」
秋津さんの指が盤の縁で止まった。
長い沈黙があった。柱時計の振り子の音。川の流れる音。どこかでカラスが鳴いた。
「コーヒーはどうでもよかった」
秋津さんがぼそりと言った。
「おやじさんのコーヒーは薄かった。最後の一年は手が震えて豆の量がばらばらで。濃い日もあれば、お湯みたいな日もあった」
秋津さんは窓の外の川を見た。
「女房が死んで、何も食えなかったころにここに来た。おやじさんが黙ってコーヒーと将棋盤を出した。何も訊かれなかった。一局指して帰った。次の日も来た。……十年」
実花の目の奥が熱くなった。
「いつもの、は一局のことだ」
秋津さんの声がほんの少しだけかすれた。
「あんたが淹れたコーヒーはうまかった。全部。おやじさんのより、ずっと。……でも盤がなかった」
実花はポットをカウンターに置いた。
膝が震えていた。
毎朝、一口すすって、置いて、帰っていった。コーヒーがまずかったからじゃなかった。ここに来ても、もう、指す相手がいなかったから。
「どうして」
声が詰まった。
「どうして、言ってくれなかったんですか。わたし、毎朝、豆を変えて」
「あんたは、四十九日で店を閉めると、葬式で言ってた」
秋津さんは盤から目を上げなかった。
「閉める店に、将棋盤を出してくれとは言えない」
実花は言葉を失った。
それから、秋津さんは、少しだけ迷うように指を動かして言った。
「……それに、おやじさんに口止めされてた」
「口止め?」
「手のことも豆のことも。実花には言うな、と。あいつは東京で頑張ってる。こっちのことで、気を散らさせるな、と」
実花の口から、小さな声が漏れた。
お父さん。
分からないなら、いい。高校のとき、そう言われた。突き放されたのだと、ずっと思っていた。
違ったのだ。
父は実花が東京で頑張るのを邪魔したくなかっただけなのだ。分からないなら、いい。おまえはおまえの道を行け。不器用な父の、それが精いっぱいの言葉だったのだ。
涙が頬を伝った。今度は厨房に逃げなかった。カウンターの内側に立ったまま、実花は泣いた。秋津さんの前で。
秋津さんは何も言わなかった。
ただ、盤の横の封筒を実花のほうへ、指先で少しだけ押し出した。
「開けて、いいんですか」
しばらくして、実花は、涙を手の甲でぬぐいながら訊いた。
秋津さんはうなずいた。
「おやじさんの番だった。十月の二十六日に封じた。次の朝に開けるはずだった」
父が倒れたのは十月の二十七日の朝だった。
実花はカウンターを出て、窓際の席の、秋津さんの向かいに座った。父がいつも座っていたはずの席。椅子の座面が少しへこんでいた。
封筒を開けた。
中には小さな紙が一枚。震える字で将棋の符号が書いてあった。
――▲4四角
その下に、もう一行。
――秋津、これで俺の勝ちだ。
秋津さんが紙をのぞきこんだ。盤を見た。指先で、角の駒を四の四へ動かした。
しばらく、盤を見つめていた。
それから、秋津さんの肩が小さく揺れはじめた。
実花は目を見張った。
笑っていた。声を殺して、うつむいて、肩を揺らして。無口で表情の動かない人が。
「……どうしたんですか」
「詰まない」
秋津さんは顔を上げた。目の端に、涙がにじんでいた。
「おやじさん、読み違えてる。これ、詰まない。三手先で俺の金が逃げる」
実花は盤を見た。分からない。分からないけれど、秋津さんが、こんなふうに笑うのを見るのははじめてだった。
「最後の最後まで、詰めが甘いんだ、あの人は」
秋津さんは涙をぬぐいもせずに、笑いながら言った。
「十年、毎朝。あの人、いつもそうだった。勝ったと思って、封じ手に俺の勝ちだって書いて。次の朝、開けて、詰まなくて怒るんだ。……ちくしょう」
最後の一言が震えた。
実花も笑っていた。泣きながら、笑っていた。父らしい。本当に、父らしい。
ひとしきり笑ってから、実花は、ずっと気になっていたことを訊いた。
「あの……お葬式のとき、お棺に、歩を入れてくださったって。八百屋のおばあちゃんが」
秋津さんの手が盤の上で止まった。
しばらく、黙っていた。それから、盤の端に置かれた駒台から、歩を一枚つまみ上げた。指先でくるりと裏返す。裏には、赤い字で「と」と書いてあった。
「歩は、敵陣に入ると、裏返る」
「と金、ですよね。父に、子どものころ教わりました」
「金と同じ動きができるようになる。いちばん弱い駒が」
秋津さんは裏返した歩を盤の上にそっと置いた。
「おやじさんが、よく言ってた。うちの娘は歩だって」
実花は息をのんだ。
「一歩ずつしか進めない。不器用で、まっすぐで横にも後ろにも行けない。でも、いつか向こうの陣に入ったら、裏返って金になる。……だから、東京から呼び戻すな、と」
秋津さんは盤から目を上げなかった。
「葬式であんたを見た。泣いてなかった。ずっと、頭を下げて客の靴をそろえてた。……一歩ずつしか進めない歩だと思った。おやじさんの言ったとおりだと」
「それで、お棺に」
「おやじさんに、持たせた。娘さん、来てたぞ、と」
実花は口を押さえた。
無難だと言われた。誰の心にも引っかからないと言われた。十二年、東京で一歩ずつ進んで、どこにもたどり着けていない気がしていた。
父はそんな娘を歩だと言っていた。いつか裏返って、金になる、と。
この人はそれを十年間、毎朝、父の向かいで聞いていたのだ。
「……秋津さん」
「何だ」
「わたしのこと、父から、どれくらい聞いてたんですか」
秋津さんは少し考えた。
「小学校の写生大会で、金賞を取った絵の話を四十回くらい」
実花はまた笑ってしまった。笑いながら、新しい涙が、頬を伝った。
川沿いの桜並木を描いた絵だった。父はその絵を額に入れて店の壁に……。
実花は壁を見上げた。色の褪せた山の写真。父が描いたのだろうと思っていた、下手な絵。
下手な、絵。
近くでよく見ると、父の絵ではなかった。画用紙に描かれた、川沿いの桜並木。右下に、たどたどしい字で「三年二組 ふじえだみか」。
三十年近く、この店の壁に、ずっと掛かっていたのだ。父の描いた下手な絵だと思いこんで、実花は一度もちゃんと見ていなかった。
実花は立ち上がって壁の前に行った。
額のガラスはきれいに磨かれていた。埃ひとつない。色は褪せているのに、ガラスだけは、毎日拭かれていたように光っている。
桜の花びらの、ピンクの絵の具が、ところどころ画用紙からはみ出していた。川の青は塗りむらだらけだった。八歳の実花が一生懸命に塗った色。
――誰の心にも引っかからない。
東京で言われた言葉が、すうっと遠のいていった。
引っかかっていたのだ。少なくとも一人には。三十年間、毎日、ガラスを拭くくらいには。
「おやじさん、毎朝、開店前にそれを拭いてた」
背中で秋津さんの声がした。
「俺が来ると、たまに、これはうちの娘が描いたって言った。知ってるって言っても、言った」
実花は額の縁に、そっと指を触れた。
木の額は手の脂でつやつやになっていた。父の手の。
「……ばかだなあ、お父さん」
声がかすれた。
「わたし、帰ってくるたびに、この絵の前を素通りしてたのに」
柱時計が七時半を打った。
実花は盤の上の駒を見下ろした。父の最後の一手。詰まない、勝ったつもりの一手。
この勝負はまだ終わっていない。
「秋津さん」
実花は顔を上げた。
「わたし、店を閉めません」
秋津さんの笑いが、止まった。
「四十九日で閉めて東京に戻るつもりでした。でもやめます。東京の仕事はここでもできるものもあるし……できなかったら、それはそのとき考えます。この店、続けたいんです」
声が震えなかった。
「父が四十年やってきた店で、秋津さんが十年通ってくれた店です。わたし、父のことを何も知らなかった。知らないまま、閉めたくない」
秋津さんはしばらく実花を見ていた。
「……焙煎は」
「教えてください」
実花は即答した。
「十一月分の豆、物置にありました。あの味、わたしも出せるようになりたいんです。それから」
実花は盤の上の、父の角の駒にそっと指を置いた。
「この勝負の続き、わたしが指してもいいですか。父の代わりに」
秋津さんの目がわずかに見開かれた。
「あんた、将棋は」
「駒の動かし方くらいは、子どものころ、父に教わりました。……あ、でも」
実花は少しだけ笑った。
「わたし、父より弱いですよ」
秋津さんは黙って盤を見下ろした。
それから、ダウンベストのポケットから、四百円を出してテーブルの上に置いた。
「いつもの」
実花はまばたきをした。
秋津さんは窓の外の川を見ていた。耳の先がほんの少しだけ、赤かった。
「……コーヒーと、一局」
実花は立ち上がった。
カウンターの奥の棚から、「ブレンド」の瓶を下ろした。秋津さんが炒った、十一月分の豆。父の手回しのミルでごりごりと挽く。香ばしい匂いが店じゅうに広がっていく。
窓の外で、川面に朝日がきらきらと光っていた。
白い厚手のカップを二つ、盆に載せて窓際の席へ運んだ。一つは秋津さんの前に。一つは父がいつも座っていた席に。
秋津さんがカップを持ち上げて一口すすった。
そして、カップを受け皿に戻さずにもう一口飲んだ。
「……三の七、金」
実花が言うと、秋津さんは、口の端をほんのわずかに上げた。
「それ、悪手だ」
「えっ」
「おやじさんより、弱い」
「だから、そう言ったじゃないですか!」
からん、ころん、とドアベルが鳴った。八百屋のおばあちゃんが、ほうじ茶を飲みに来た。窓際の席を見て、目を丸くして、それから、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。
「おや、まあ。今朝はいつものだねえ」
(完)
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