第2章 第1節 渋谷ダンジョン最深部、絶望的な汚泥の海で立ち尽くす最強のS級探索者。彼女が恐れているのは死ではなく、服が汚れることだった
第2章 S級美女とヘドロの王
第1節 渋谷ダンジョン最深部、絶望的な汚泥の海で立ち尽くす最強のS級探索者。彼女が恐れているのは死ではなく、服が汚れることだった
東京都、渋谷ダンジョン第五十層。通称「腐敗の沼地」。
ここは日本国内でも屈指の高難易度エリアとして知られている。壁も床も天井も、正体不明の粘液と泥に覆われ、一歩足を踏み出すたびに「グチュリ」という生理的嫌悪感を催す音が響き渡る最悪の場所だ。
その最深部、ボス部屋である「大空洞」の前で、日本最強の探索者パーティ『白銀の翼』は進軍を停止していた。
理由は単純にして深刻。リーダーであり、パーティの最大戦力である白石玲奈が、一歩も動けなくなってしまったからだ。
「……無理。絶対に無理」
玲奈は青ざめた顔で首を振った。
彼女の視線の先には、ボス部屋へと続く一本道がある。だが、そこは道と呼ぶにはあまりに酷かった。ヘドロのような黒い泥が足首まで浸かるほど堆積し、時折ボコッ、ボコッと不気味な泡が弾けている。
「玲奈さん、ここまで来て引き返すわけには……。今回のボス素材、国家プロジェクトで必要なんです」
サブリーダーの男性が困り果てた顔で説得を試みる。
しかし、玲奈の耳には届いていない。彼女は極度の潔癖症だ。S級探索者としての身体能力と、あらゆる敵を寄せ付けない圧倒的な剣技でこれまで汚れを回避してきたが、このエリアは環境そのものが「汚れ」だった。
「あんな汚いところ歩いたら、ブーツが死んじゃう。泥が跳ねてスーツに付いたらどうするの? 想像しただけで肌が粟立つわ……」
玲奈は自身の純白のバトルスーツを抱きしめるようにして震えている。
彼女にとって、HPが減ることよりも、MPが尽きることよりも、精神的衛生が汚染されることの方がよほど深刻なダメージなのだ。
周囲の空気に漂う腐乱臭だけで、すでに彼女のライフはゼロに近かった。
「ああ、帰りたい。シャワー浴びて、無菌室で寝たい……」
最強の剣士が、ただの泥汚れを前に敗北を認めようとした、その時だった。
ウィーン、ウィーン、ウィーン……。
緊張感の欠片もない、間の抜けた機械音が背後の闇から聞こえてきた。
モンスターの咆哮ではない。もっと人工的な、日常で聞き慣れたモーター音だ。
「え? 何?」
パーティメンバーたちが一斉に警戒態勢をとる。
暗闇の向こうから、ヘッドライトの明かりが近づいてくる。
そこに現れたのは、巨大なポリッシャー(床洗浄機)を押した、作業服姿の中年男性だった。
「あー、すいません。ちょっと通りますよー。足元、ワックスがけ直後なんで気をつけてくださいねー」
場違いすぎる。
ここは地下五十層。トップランカーしか到達できない死地だ。
そこに、近所のスーパーで清掃をしているようなおじさんが、平然と歩いてきたのだ。
「誰だ貴様! どこから入った!」
サブリーダーが武器を構えるが、おじさん――田中勤は、キョトンとした顔で首を傾げた。
「え? 株式会社クリーン・ダンジョンですけど……。今日はこのエリアの定期清掃日ですよ? あ、もしかして迷子の方ですか? 最近多いんですよねぇ、コスプレ撮影で奥まで入っちゃう人」
田中は、日本最強の武装をした彼らを「コスプレイヤー」だと認識していた。
そして何より異常なのは、彼の通った「後」だった。
ヘドロまみれだったはずの通路が、まるで鏡のように磨き上げられ、LEDライトの光を反射して輝いていたのだ。




