第5章 第1節 未曾有の危機、スタンピード発生。瘴気に包まれた東京で、田中が一番気にしていたのは避難所の空気の悪さとビールの温度だった
第5章 世界浄化宣言
第1節 未曾有の危機、スタンピード発生。瘴気に包まれた東京で、田中が一番気にしていたのは避難所の空気の悪さとビールの温度だった
その日、東京の空は不気味な紫色に染まっていた。
気象庁の発表によれば、これは「大規模魔素汚染」の前兆。都内各所のダンジョン深層から、未知の瘴気が地上へ溢れ出したのだ。
瘴気は生物に幻覚を見せ、精神を蝕み、最終的には魔物化させるという最悪の代物だった。
政府は緊急事態宣言を発令。都民は地下シェルターや、結界で守られた指定避難所へと殺到していた。
「あー、狭い。うるさい。空気が悪い」
新宿区の地下避難所。すし詰め状態の人々の中で、田中勤は膝を抱えてぼやいていた。
彼の周りには、例によってクリーン・ダンジョン社の社員たちや、白石玲奈が確保したスペースがあるため多少マシではあるが、それでも環境は劣悪だった。
何より、換気システムが追いつかず、人々の恐怖から来る脂汗の臭いと、漏れ出した瘴気のカビ臭さが混ざり合い、鼻をつく悪臭となっていた。
「せっかくの休日出勤手当で買ったプレミアムモルツが……」
田中はリュックから、奮発して買った高級缶ビールを取り出した。
しかし、プルタブを開ける気になれない。
酒というものは、飲む環境が重要だ。こんな汚れた空気の中で飲んでも、本来の芳醇な香りなど楽しめるはずがない。
「……まずそうだ」
田中は缶を見つめ、深いため息をついた。
世界が滅びるかもしれないという状況で、彼が心配しているのは「晩酌のクオリティ」だけだった。
「田中顧問! こんなところで黄昏れている場合ではありません!」
白石玲奈が血相を変えて駆け寄ってきた。彼女は先ほどまで、地上の防衛ラインで瘴気を食い止める戦闘に参加していたはずだ。その白いバトルスーツには、珍しく煤汚れが付着している。
「おや、白石さん。汚れてますよ。ウェットティッシュあげましょうか?」
「それどころじゃありません! 防衛ラインが突破されました! このままだと、この避難所にも瘴気が流れ込んできます!」
玲奈の悲痛な叫びに、周囲の社員たちがざわめく。
瘴気が入れば、ここにいる数千人の市民はパニックに陥り、最悪の場合、全員がモンスター化してしまう。
「政府のS級探索者たちも、瘴気の濃さに手が出せないんです! 物理攻撃が効かない霧のような相手に、どう戦えばいいのか……」
玲奈は悔しそうに拳を握りしめた。
彼女の「聖剣」も、汚れそのものである瘴気の前では無力だったのだ。
ドォォォォン……!
地上の爆発音が、地下まで響いてくる。
天井からパラパラと埃が落ちてきた。その埃すら、どこか禍々しい紫色を帯びている。
「あーあ、俺のビールにホコリが入っちゃうよ」
田中は眉をひそめ、缶の飲み口を手で覆った。
その表情には、恐怖ではなく、純粋な不機嫌さだけが浮かんでいた。
「もう我慢の限界だ。こんな不味い酒、飲めるか!」
田中が立ち上がった瞬間、彼の背後の空間が歪んだ。
『おやおや、勤ちゃん。ご機嫌斜めだねえ!』
いつものように、枝豆の殻のような毛玉――おつまみが出現した。
だが、今回のおつまみは様子が違った。
普段の倍以上の大きさになり、全身からバチバチと火花のようなエネルギーを放っている。この街を覆う「絶望」の総量が多すぎて、おつまみ自身も興奮状態にあるようだ。




