第7話 箱庭に囚われて
急かされながらの昼食になってしまった。
それを指示した永は無言で食べ進めていく。いつもの倍ほどのスピードであるのは蕾生にもわかった。
割り箸を更に数本折りながら、早食いが得意な蕾生はあっという間に食べ終わった。
追い越された永も、最後の一口を口に運ぶとそれを味噌汁で流し込んだ。
周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。それを横目で見ながら永が言う。
「静かに立って、静かに運んで」
「……」
椅子を動かす時の音にすら気をつけて、永は立ち上がってトレーを持って歩き出す。永の後について蕾生もトレーを返却口に出し、二人はそのまま入口に向かった。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
「どこに行くんだよ? 解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
「シー」
口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
「ここからは時間との勝負」
「え?」
「こっち」
蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。
碁盤の目のような道路が幸いして、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。
永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見える。
蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。
急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たる。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてあった。
左右には建物が立っている。奥には土混じりの通路があるようだったが、植木が茂っていて目隠しをしていた。その上から辛うじて見えた通路の向こう。芝生の広場とその中央には温室のようなガラス張りの建物があった。
ずっと白いだけの、四角いだけの建物の間を縦横無尽に掻い潜ってきた。無機質なものにすっかり見慣れていた目に飛び込んできたのは、どこか長閑な、暖かみのある風景だ。
そのあまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。
「ねえ、ライ。このプランター動かせる?」
「え?」
それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると相当な重量がありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。怪力を使えば簡単に。しかし、意識してそうすることなど、もう何年もやっていない。
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
蕾生にとっては忌々しい秘密だ。幼少の時からこの並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永はその現場に悉く居合わせ、その度に蕾生を叱り、隠して生活するための様々な練習をしてきた。
この力は隠しておく方が普通。蕾生もそれに疑問を持ったことはない。力があるからと言ってそれに頼るな、とは永がかつて蕾生に毎日のように言っていた言葉だ。
永ももちろん蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
それを。
今、ここで。
やれと言うのか。
「──お願いだ、ライ」
それまでに見たこともない真剣な表情だった。
見たことがない? いや、ある。
記憶にはないのに、この眼差しの永に出会ったことがある。
もうあの日常には戻れないかもしれない。
そんな危険を感じたけれど、永の眼差し、そこに込もる決意が蕾生の胸を激しく突く。
永の頼みを蕾生は断らない。今日の頼みは「断れない」命令のようだった。
「……わかった」
元より永の願いを断ることなどあり得ない。蕾生は不安な胸中を無理矢理押し込めて一歩踏み出す。
こうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるかもしれない。永が初めて見せた表情の意味も。
教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
日常は、消え失せた。
蕾生が退かしたプランターは、永をこちらに繋ぎ止める堤防だった。
それがなくなった今、永はどこか蕾生の知らない場所へ行こうとしている。
そしてそこは、どす黒い運命が待ち受ける、苦しく険しい世界かもしれない。
けれど永が行くと言うのなら、自分は従うだけだ。
それが蕾生には自然な感情だった。
「ありがとう」
小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
「永!」
蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。
近づくにつれてそれが胸の内からも湧き上がってくる。
懐かしい。
とても懐かしいものがそこにあるような……
いざ辿り着いて見ると、それはガラス張りで大きな正方形を模った温室のようだった。
大手の農業家でもここまでの規模はそうない。研究用なら尚更こんな大きさは必要ないように思われた。
温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。
中に入った蕾生は驚くとともに、意識が少し混乱した。
そこは建物の中のはずなのに、自然そのものの景色だった。
明るい陽が差し、空気も澄んでいる。普通の温室なら植物棚でもありそうなものだが、木々や花々は全て地面から生えていた。
箱庭。
そんな形容が相応しいほどに、その空間は完璧に人工物が排除されていた。
ガラス張りの壁は自由に伸びた枝や蔓の合間から見えているのみ。天井のほとんどは青く茂った木の枝が張り巡らされているため、その存在を忘れそうになる。
ガラスの空を覆い隠している木の枝を辿ると、中央へと視線が誘われた
大樹が、温室の中央で、この世界の主人であるかのように聳え立つ。
それは箱庭の中で、母のような慈愛を示しながらさやさやと枝葉を靡かせていた。
「あ……」
思わず漏れた声は誰のものだっただろう。
永の視線の先、大樹の下で、誰かが存在している。
懐かしさが、胸の中で弾けて、蕾生の視界を光に染めた。