第6話 日常が割れる音
あまりにも空気の読めない研究所長、銀騎詮充郎が理解し難い己の信念を言うだけ言って映像から姿を消した。
後に残された観客達は何が起こったのかわからず、場内は不気味に静まり返る。
その異質な空間を、副所長の銀騎皓矢の澄んだ声が正常に戻した。
「あ、し、失礼しました! 祖父は研究のことしか頭にありませんで、自分の研究理念を端的に申し上げたつもりなのですが、ご覧の通りの強面なので……」
場にようやく体温の通った涼やかな声が響く。
それに導かれるように、会場全体の照明が戻り柔らかく観客達を照らした。
緊張がとけたのか、「強面」の部分で何人かが笑った。次いで拍手が起こる。
壇上の銀騎皓矢はほっとした表情を浮かべ、ペコペコと頭を下げた。先程までは副所長としての威厳を感じるような振る舞いだったが、今の彼にはそれが見当たらなかった。
本当はこちらの方が素顔なのかもしれない。そう思わせるほど、目の前の銀騎皓矢は人当たりのよい好青年だった。
緩んだ空気が流れている。ガヤガヤと観客達の声が騒めいている。
蕾生はあの老人に与えられた不安と緊張がやっと解けていくのを感じた。肩で大きく息を吐く。強張っていた体も、今は問題なく動きそうだった。
「ではこれからいくつかのグループにわかれて、研究所内をご案内いたします。誘導する職員がお声がけするまでそのままお待ちください」
佐藤が舞台上でにこやかにそう言うと、銀騎皓矢はその場を去った。続けて佐藤も舞台袖に姿を消す。
残された観客達は騒めきの音量を上げて、リラックスして談笑していた。
「さっきのさ……」
不意に永が口を開いた。随分と久しぶりに声を聞いた気がする。それだけ講話に集中していたのかと蕾生は不思議な気持ちになった。
いや、集中していたというよりも、「集中させられた」と表現した方がしっくりくる。いつの間にか、銀騎皓矢と銀騎詮充郎の両極の雰囲気に呑まれていたようだ。
蕾生は意識を自身に戻そうとして首を振ってから、永の方を向いた。
「銀騎博士のこと、どう思った?」
そう尋ねる永の表情はまだ強張っているように見える。蕾生はこれまでの永の様子を思い出していた。
ここへ入る時の緊張。それを押し込めて通常通りに振る舞った永。
銀騎皓矢に向けた視線。いつもの好奇心の奥に隠れた冷たいもの。
銀騎詮充郎から受けた恐怖。固まっていた体。今日の永は蕾生が知っているはずの雰囲気とは違っていた。
それでも、その違和感を直接問いただす勇気が持てない。
だから蕾生はごく平凡な返答をするしかなかった。
「どうって……なんかこえーし、空気読めないジジイだなってくらいしか」
蕾生の答えに永は吹き出して笑った。
「ジジイって……! めっちゃ偉い博士なのに……っ」
「でも圧が凄くて、あんまり会いたくないタイプのジジイだ」
「ハハ! そうだね、写真で見るくらいがちょうどいいよね」
そんな風に笑った永は、蕾生の知るいつもと変わらない雰囲気で。蕾生は安心しかけたが、すぐにまた違和感が顔を出す。
永はひとしきり笑った後、諦観めいた顔をしてボソリと呟いた。
「できるなら、二度と会いたくなかったなあ……」
それは、永が心からの嫌悪を見せた瞬間だった。その表情に、蕾生の背筋に悪寒がぶり返す。
会ったことがあるのかと、この場で聞けたら良かったのに。ゾクゾクした感覚に怯んだ蕾生は何も聞けなかった。
ここに。銀騎詮充郎に、何があるのだろう。
それは今日わかるのか? 不安で仕方ない。
もう帰りたい。いや、帰るべきだ。
そう言いたいのに、その言葉が蕾生の口から出てこない。
戸惑っているうちに、事態は蕾生が戻れない所へ進んで行く。
「周防様、唯様、いらっしゃいますか?」
職員らしい男性の声に、永も蕾生も思わず立ち上がった。
数歩先には何人かの参加者の集団が、二人を待ち構えている。
「呼ばれたから行こっか」
そう言う永の表情はいつもの通りだった。
「さ、楽しいオリエンテーリングの始まりだね」
そのくるくると変わる様子に、蕾生は混乱してくる。
十五年の付き合いの中で、こんなに不安定な永を見るのは初めてだった。
◇ ◇ ◇
「……以上が研究棟の中では主なものであります」
数人ずつが職員に連れられて、構内を散策しながら研究棟のいくつかを見学する。
事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす者もいた。そりゃそうだ、と蕾生は思う。
分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の心躍るような光景には全く出会えなかった。
パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、全く期待外れのオリエンテーションだ。
全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
「サラダかあ……」
少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た永は嗜めるような口調で言った。
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ? うらやましいわー」
ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていた。
後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。
食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に差している。
休憩に使う施設ならばこれくらいは欲しい所だ。全体的に病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。
「野菜がおかわり自由でもなあ……」
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、永もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
蕾生がお返しするように、指さしながらわざとらしく言うと、永は周りを気にしながら小声で短く言った。
「ライくん、急いで食べて」
「は?」
「頼んだよ」
蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
蕾生にも目配せして「早く食べろ」と促した。
「なんなんだ……」
首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。食堂には鉄製の洋食器がなく、怪力持ちである蕾生が苦手な割り箸しかない。普段であれば、そっと持つ練習をしているのでゆっくり食べる分には問題ない。
永の指示に困惑もしつつ、焦ったために蕾生は途中で割り箸を折ってしまった。
そのパキッと割れた音は、周りの楽しげな雰囲気に一見紛れたようではあった。
だが、その音は蕾生の頭にこびりついて、いつまでも響いていた。