第3話 銀騎研究所
蕾生のもうひとつの不便な体質。それが常軌を逸した怪力だ。
物心ついた時には、蕾生は家中の家具を壊していた。だが、そこに悪意は全くない。
幼少の頃はまだいい。辛うじて父親でも止められる程度であったのだから。
じわじわと強くなっていく自分の力に、自我が芽生えた蕾生が恐れを覚えた頃、小さな事件は起きた。
その諍いの原因はよく覚えていない。子ども同士の些細なものだったのだろう。
だがその結果、蕾生は相手を傷つけた。骨が折れる重傷だった。
その日から、蕾生は家から出なくなった。
家の中の、さらに奥。クローゼットの中に入って毎日震えていた。
──納得がいかない。俺のせいじゃない。そんなつもりはなかった。
怒りと困惑と情けなさ。そんな感情がぐるぐると頭の中で回り続ける。
──嫌だ。なんで俺は違うんだ。どうして俺が悪いんだ。
胸の奥で、何か黒いものが蕾生に向かってくる。そんな恐怖に怯えていた。
「ねえ」
その声は無遠慮に突然蕾生の中に入って来た。
「君は悪くないよ」
──本当に?
「これからは僕が考える」
蕾生の胸の中、暗い空が晴れた気がした。
「君の力は僕が使うから、僕が考えて君が動けばいい」
──いいのか?
「だから、出ておいでよ。僕には君が──」
必要なんだ、と笑う姿に。
心の底から安心した。
永が蕾生の閉じかけた心を再び開く。
それは、蕾生にとっては光。進む先を教えてくれる灯火のようだった。
永に出会った蕾生は、永とともに力の制御を覚えていく。
寝すぎる癖も、永の声が緩和してくれた。
蕾生は、永がいなければ「普通の人間」として生活していくことが出来ない。
そう思い込んで永に依存している。その不安を永に正直に言った事がある。すると永は笑って答えた。
──お互い様だよ。
そう言う永の顔が、少し悲しそうだったのを蕾生は忘れることが出来ない。
◆ ◆ ◆
「……」
目覚ましのアラームはとっくに止まっていた。
何か夢を見たような気がする。けれど、どんな夢だったかは覚えていない。
まだ覚醒しない頭をゆっくりと動かして、蕾生は携帯電話の時刻を見る。
永と待ち合わせた時刻、まさにその時間だった。
「やべ……」
急いで起きて、窓を開ける。外では永がにこやかに手を振りながら立っていた。
制服ではなかった。蕾生のよく知るシャツと布のパンツを纏う、普段着の永だ。
「今、起きた」
「うん。見ればわかる」
永は寝癖のついた蕾生の姿を見上げて苦笑していた。
今日は連休に入った初日、永が勝手に二人分申し込んだ銀騎研究所の見学会に行く。
「まあ、ライくんが寝坊するのは折り込み済みだからさ」
イタズラっぽく永は笑う。蕾生が時間通りに起きられないのを見越して、早めの時間を指定するのは永のいつものことだ。それで蕾生は少しホッとして窓を閉めた後着替えるためにベッドから降りた。
永の時間管理は完璧だけれど、それに甘えてノロノロと支度はできない。蕾生は普段通りのTシャツとジーンズを履いて、ポケットに携帯電話だけをねじ込んで部屋を飛び出した。
空は快晴で、風も吹いていない。今日は暑くなりそうだとテレビの天気予報が言っていた。
さすがに休日なので母はおにぎりを用意してくれなかった。永を待たせている事へのお小言をもらいながら、蕾生は玄関を出る。
合流した永に少しだけ急かされながら、連休でどこかへ出かける人達を追い越して歩く。
高校へ向かういつもの通りを過ぎて、森林公園を横目に歩き、公園から楽しげな声が聞こえなくなった頃、真新しい無機質な道路が顔を出した。
急に現れた白塗りの大きな鉄の門の向こうは、連休で浮かれる世間とは別の世界のような静けさがあった。
「さむっ」
突然、蕾生の背筋に悪寒が走る。
「いい天気なのに寒いの? 風邪?」
永が問うと、蕾生は首をかしげながら答えた。
「いや、やっぱり寒くはない」
「なにそれ」
微かに笑った永の目の奥、緊張しているような光を湛えているような気がして、蕾生は居心地が悪くなる。
視線を先に移せば、寒々しい道路と冷たい鉄の門。歓迎されているようには見えない。見学会なら門を開けても良さそうなものだが、高い鉄格子はピッタリと閉められている。
拒絶されているような空気をわざわざ掻い潜ってここへ入るのだと思うと、やはり背筋が寒くなった。
少しの沈黙。
隣で黙っている永を見ると、無意識なのだろうが、拳を握りしめて指が少し赤くなっていた。
「なあ、やっぱり今日……」
やめないか、と蕾生が言う前に、永は一歩踏み出し振り返ってにっこりと笑う。
「じゃあ、行こう。受付あっちみたい」
そうして門の横、守衛のいる小さな詰所を指さした永の表情はいつも通りだった。
「あ、でも具合悪くなったらすぐ言いなよ?」
「ああ、わかった……」
言葉尻もいつもの永のものだったが居心地の悪さは拭えない。蕾生は気乗りしないまま永の後をついていった。
守衛に参加証が記された携帯電話の画面を見せ、身分証明カードを提示する。すると何かの機械でそれを承諾も得ずに撮影された。子どもだから舐められたのかと、蕾生は嫌な気分になった。
蕾生もまた身分証明書の提示を要求されたが、急いでいたので携帯電話しか持ってきていない。しかし、以前に永から身分証明書が提示できるアプリを入れさせられていたので、事なきを得た。
何の感情も読めない守衛から「どうぞ」とだけ言われて、入館証と書かれた首から提げるタイプのネームカードを渡される。
すると大きな鉄の門は開かずに、詰所の横の通用口が開いた。視線で促され、二人はそこを通る。
「…………」
蕾生は目の前の光景に言葉を失った。
碁盤の目のように形成された歩道、それに沿って理路整然と建てられている研究棟の数々。
二人がそれまでに街で見てきた企業ビルや国の研修施設などとはまるで違う。ここには一切の無駄も遊びもなかった。
通常ならメインストリートには庭木や芝生を植えていそうなものだが、ここはすべてコンクリートの道路と石畳の歩道だけ。建物も皆一様に白く四角い。白い線と白い箱を並べた模型のような佇まいだった。
異世界に迷い込んだような感覚に、蕾生はもう一度身震いする。
永の方を見ると、携帯電話の画面とこの景色を見比べていた。地図を見ているのだろう、その仕草は既にいつも通りスマートに行っており、やはり自分の感じている違和感を言うことは憚られた。
きっとこの日を楽しみにしていたはずの永に、気味が悪いから帰ろうなどということは言えなかった。
「あっちのちょっと大きい建物で、最初の説明と講演会があるって」
数メートル先の少しだけ背の高い白い建物を指して歩みを進める永に、蕾生は黙ってついていく。
そこに入ればもう戻れないかもしれない。何の根拠もない不安が、蕾生の胸には広がっていた。