第1話 覚えられない夢
唯蕾生には、見たことすら覚えていない夢がある。
この春高校生になった彼には不便な体質がいくつかあった。
まずひとつは、睡眠障害。
寝つきがよく、寝起きが悪い。
目覚まし時計をいくつ仕掛けても、携帯電話を幾度設定しても、彼を起こせる利器は存在しない。
こんなに起きられないのに、蕾生は自分が眠った実感を持てない。
ずっと何かの夢を見ている。だけどそれが何かは覚えていない。
◆ ◆ ◆
ざわざわと木々が煩いほどに揺れている。
視界は真っ暗で、もう何も見えない。お前が泣いている姿さえも、何も。
「ああ、これはおれの罪だ」
違う。お前は何も悪くない。
俺が弱かったから、守れなかった。
◆
赤い、赤い葉が生い茂る木の下で彼女は言った。
「もっと自分のことを考えてもいいんじゃない?」
俺はそうは思わない。あいつの方がずっと辛い選択をしている。だけど彼女は首を振る。
「キミは何になりたいの?」
その答えは考えたこともない。
◆
無機質の中で、アイツの声にならない叫びを聞いた気がする。
「これで、さよなら……」
だめだ。その手をとってはいけない。
けれどそれを伝える術がない。
ごめん
全部、俺のせいだ
◆ ◆ ◆
「ラーイ、蕾生くーん」
耳慣れた声で目が覚めた。部屋の中は朝日で薄明るくなっている。
携帯電話の示す時刻はいつも通り、待ち合わせ時間になっていた。
蕾生は重い頭を抱えてようやく起き上がる。窓を開けた外には制服姿の少年が立っている
幼なじみの永だ。
「ライくーん、起きたぁ?」
この声。
永の声を蕾生はどこでも聞き取れる。それで目を覚ますことが出来る。
今も、永の声は外から聞こえている。
蕾生は二階の自室で窓を開けずに寝ているが、永はその自宅の外から普通の音量で声をかけている。
それでも蕾生は永の声を聞き取れる。そこに疑問を持つべきなのかもしれないが、蕾生は不思議に思ったことはない。
永の声、というよりも永の存在を常に感じることは、蕾生にとってはごく自然なことだった。
「ライくんてばぁ……っ!」
三度目の永の声かけは、少し焦りが混じっていた。
その違いを感じ取った蕾生は、そこでようやくパチリと目を開け、ガバッとベッドから跳ね起きる。
頭で考えるよりも早く、その手は窓を開けていた。
見下ろした先には、幼馴染の姿。
「あ、やっと起きた。ほらほら、支度しておいでよ」
永は少し笑って揶揄うような口調でそう言った。隣にいる人間に語るように普通の音量で。
数メートル上にいるのに、それでも蕾生には永が何を言っているのかわかる。
「ああ、すぐ行く」
蕾生も蕾生で、遅刻しそうなほど寝坊しておいて、迎えに来てくれた幼馴染に声を張るような性格ではなかった。
いつも通りボソリと呟くだけだったが、永の方もそれを聞き取って笑顔で手を振る。
「焦らずに、急いでね」
なかなかの無理難題をにこやかに言ってのける幼馴染の姿に不満を抱きながら、蕾生は窓を閉めた。
にこにこ笑ったままの永の言葉を受けて、蕾生は窓を閉めた後ベッドから降り、脱ぎ散らかしたままのワイシャツを引っ掴む。
椅子に掛けていたズボンを履いて、本棚にハンガーとともに掛けてあるブレザーを羽織った。
部屋には一応姿見があるが、長身の蕾生の顔はここには映らない。
どうせいつもの、半分寝ているような目つきで、真っ黒でやぼったい短髪に寝癖がついているだけだろう。
蕾生はおそらくそこに発生しているであろう寝癖の場所を撫でつける。
ネクタイはとりあえずポケットに押し込んで。それからカバンの中身を確認せずに引っ掴んで、部屋を後にした。
ドンドンと派手な足音を立てて二階から降りた蕾生は、ダイニングを素通りして玄関に向かう。
靴を履こうとしたところで母親がやってきて、呆れたようなそれでいて諦めたような顔で特大の握り飯を差し出した。いつもの朝食である。
それを無言で受けとってばくりと一口かじってから、蕾生は玄関の扉を開けた。
「……はよ」
罰が悪そうに短く言いつつ、口元がもぐもぐしている蕾生を見た永は笑っていた。
「今日も大きいねえ、おにぎり」
大きいのはおにぎりだけではないが、永はわざとそう強調した。
身長が百八十センチもある上背を一番気にしているのは蕾生自身だ。
無口で、鋭い目つき、真っ黒で無造作な髪。それらが高い背丈にくっついている蕾生の風貌は、本人にその気がなくても敵を作りやすい。
比べて永の方は平均よりも少し低い身長と、常に清潔に気を使っているサラサラで明るい茶色の髪の毛。物腰も柔らかく、人当たりもいい。
そんな二人は絵に描いたような凸凹コンビだ。
二人が通う高校は、徒歩でほど近い所にある。
蕾生は歩きながら黙々ともぐもぐとおにぎりを咀嚼していた。永もその横を黙って歩く。
無言のままでも気まずさが一切ないのが幼馴染の空気感である。
「あ、ライくん。そろそろネクタイちゃんとしようか」
眼前に校門が見えたところで、永が蕾生を見上げてそう言った。
言われた蕾生はちょうど特大おにぎりを食べ終えたところ。
「あー、めんど……」
「つまんないことで怒られたくないでしょ? ただでさえライくんは目立つんだからさ」
「わかってる……」
今日は水曜日。校門には風紀指導の教師が立っていた。
蕾生は永に言われて渋々ポケットからネクタイを取り出した。
すでに何年も使ったかのようにくたびれたネクタイは、結んだところで捩れたままではあるが。
校門に差し掛かる頃には、永が前方を堂々と歩き、蕾生は少し猫背になって後ろをついていく陣形に変わっている。
そして永は大袈裟なほどハキハキと明るく教師に挨拶をした。
「おはようございまーす」
そうして永が教師に笑いかけて視線を奪う隙に、蕾生はだらしない制服のまま足早に校門を通った。
「アハハ、今日も余裕だったね」
「……まあな」
一連の動作は打ち合わせなどをした事がない。最初から二人は呼吸を合わせてやってのけていた。
誰かに自慢できるような事ではないが、二人の間には満足感が広がっている。
「ていうか、ライくんがもっとちゃんとしてくれれば必要ないんだけどぉ?」
「無理。起きるだけでしんどい」
登校した後も、蕾生はまだ眠そうだった。
「そっか。そうだね……」
永はもちろん蕾生の「不便な体質」の全てを知っている。
今朝も無事に乗り切ったという些細な達成感。だけどそれが、蕾生に大きな安心をくれる。
永と何かを成し遂げた感覚を持つことで、やっと今日一日を始められる気がしていた。